Chapter2
夏休みが始まってすぐの午後。
バイク屋の敷地に入ったとき、自販機の前に立つ見覚えのある後ろ姿を見つけた。風が止まりかけたように、時間が一瞬だけゆるんだ。
白いTシャツ、濃い色のデニム。日に透ける明るい茶色の髪が、背中で軽く揺れている。
──日村がいる。
少し迷ってから、歩き出す。
「……よぉ」
声をかけた瞬間、彼女の肩がビクリと跳ねた。手から滑った小銭がチャリンと音を立てて転がり、コンクリートに散らばった。
その拍子に、彼女はほんの半歩、後ろに下がった。
(また、何か落としてら……)
そう思うと同時に、胸の奥にどこかで覚えのある感覚が走った。
春、昇降口でキーケースを拾ったとき。
今のように、ほんの少し彼女が離れていったときの、あの距離。置いていかれるような、音のない間。
「……わりぃ、驚かせちまったか」
しゃがんで小銭を拾い集めると、彼女も静かにかがんだ。ふたつ、みっつ、指先が触れそうな間合いで硬貨を返していく。
「いや……こちらこそ」
短くそう言って立ち上がり、彼女は自販機で炭酸水を買った。プシュッという開封音。すぐに喉が上下する。
──ごくん。
その音が、鼓膜の裏側に張りついたみたいに、離れなかった。
バイクのメンテを頼んでいたこともあり、待ち時間を兼ねてその場で話していた。日陰のアスファルトがほんのり熱をもっていて、遠くで蝉がうるさかった。
「夏休み、宿題多すぎじゃねぇか?」と話を振ると、彼女は小さく頷く。
「うん。読書感想文が……嫌」
「だよな」
“嫌”って……。くっと笑いそうになるのを堪える。この子はコンパクトに、淡々と返す。でも、ちゃんと会話してくれてる。表情は“無”のままだけど、張り詰めている感じはしない。……たぶん。
低くて落ち着いた声が、耳の内側に響く。話が終わっても、声だけが少し残る。まるで耳の中に残響がこびりつくみたいだった。
「明日、軽音のライブがあるんだけど」
「ん?」
「……よかったら来てみて。見てから入部、考えてみれば?」
いや、入るつもりはねぇ。
──とは言えず。「お、おう」と返した。
まだ俺が入部希望者だと思ってたのかよ、と思ったところで、ちょうど彼女の愛車のメンテが終わった。
「じゃ」と片手を小さく上げて、彼女はさっとバイクに跨がった。キーを回し、エンジンが一発でかかる。
マフラー音が低く、太く、重たく響いた。身体の芯にくる音だった。あの細い身体のどこから、あんな音を連れてきてんだよ。
「……マフラー音もいいんかよ」
思わず口をついて出た言葉に、自分の声が後から追いかけてきた。
◇
翌日。瞬と燃堂と一緒にライブハウスへ向かう。斉木は不在。瞬が迎えに行ったが留守だったらしい。
観客はほぼPK学園の生徒とその知り合い。初めての場所だったが、何人かクラスメイトの顔も見えて、思ったより馴染めた。
やがて、日村のバンドがステージに上がった。ボーカルの男が勢いよくMCをかます。一見チャラそうだがあの子が一緒にやってるんだ、ただのチャラ男じゃないんだろう、と思う。
日村のギターから曲が始まった。
一音目。それが鳴った瞬間、腹の底がきしんだ。空気が揺れた。音というより、骨が鳴るような感覚だった。イントロに聞き覚えがあって、なんだっけ……と考えていると、
『アァーー〇パァーー〇マーーー〇!!』
ボーカルが絶叫。フロアがどっと湧く。前列の連中が拳を振り上げて叫ぶ。この内輪ノリっぽい感じが、定番なんだそうだ。日村は、無表情でギターを弾きながら、少しだけ口角を上げた。……笑ってた。
けれど、ほとんど真顔で子供向けアニメの主題歌を弾いてるのが妙に可笑しくて、うっかり笑ってしまった。
──その瞬間、彼女と目が合った。
一拍、心音がズレた。
音が少しだけ遠くなる感覚。なにかを期待して動けなくなって、目が離せなくなった。
二曲、三曲と続いて、彼らのステージは終わった。次のバンドが演奏を始めると、日村たちはフロアに戻ってきた。視線が合い、手を振ると、小さく手を振り返してくれた。
それだけのことなのに、胸の奥がふわっと温かくなった。音もなく、季節外れのたんぽぽが咲いたみたいに。
けれど、次の瞬間。
日村の肩に、ボーカルの男が手を置いた。
「ましろんの友達!?呼んだの!?レアじゃね!?」
とはしゃぐ声に、彼女はふっと目を逸らした。
その手の軽さがやけに気に障った。前言撤回だ。アイツはチャラい。見ていたくないのに、目が離せなくて。胸の奥がざらっと荒れた。
──アイツは、お前に触れていいのか。
自分でも、なんでそんなこと思ったのか、わからなかった。
隣で瞬が大声で騒ぐ。「なぁ亜蓮!バンドっていいな!」
続けて燃堂が「オレっちも歌いてぇー!」と盛り上がる。
周囲では音が渦巻いているのに、耳はどこか違う方向を向いている。声、笑い、歓声、全部──水の中から聴いてるみたいに、遠い。
音なのに、反響してこない。
……うるせぇのに、届かねぇ。
『──窪谷須くん』
名前を呼ばれた瞬間、周囲の音がすっと引いた。
それが戻ってきたときも、彼女の声だけが、妙にくっきりと耳に残っていた。
「暴走族みたいなバイクだったね」
「……は?」
「昨日の。音、低くて太くて……意外だった」
演奏どうだった?とは聞かない。不思議と、らしいなと思った。でも、その声がさっきよりずっと届きづらい。なんて言うんだっけ、こういうの。
「カクテルパーティ効果だね」
「……あ?」
「人の名前とか、気になる言葉だけは、周りがうるさくても聴こえる現象」
へえ、と言ったけど、内心では違うと思った。さっき、瞬に何回も名前を呼ばれてたけど、何も届かなかった。でも──
“窪谷須くん”
名前じゃなくて、呼び方そのものが残った。
音でもない。言葉でもない。
聴いた、というより──食らったみたいだった。
◇
翌日、他のバンドの曲も、MCの内容も、全然思い出せなかった。音は全部、夜のざわめきに流れて消えていた。