うつろぐ一年目 Chapter3

Chapter3

 全校生徒が静かにざわついていた。
 誰かが階段の影で「マジで元総長だったらしい」と囁けば、別の誰かが廊下の奥で「黒服三人を片手で投げた」などと盛って伝える。

 ──くだらねぇ。

 才虎の転校初日に派手にやり合ったせいで、すっかりバレたらしい。絡んできた才虎に言い返したら、奴の黒服が俺の肩を掴み、殴りかかってきた。ガードするよりも先に、拳の方から黒服の頬骨に向かっていった。
 ──それが良くなかった。
 それからは、連日でケンカを売られた。騙し討ちもあった。後ろから椅子を投げてきたヤツには本気でやり返してしまい、気づけば生活指導にも呼ばれた。
(戻るだけだ、元に……そう思えば楽になれる)
 そう呟いたとき、瞬が声をかけてきた。
「なあ、亜蓮……その、周りの声なんて気にするな!オレたちは、お前のこと分かってるから!」
 ああ、知ってる。でも、それが今は一番、堪える。気持ちを向ける余白がない。全部、皮膚の表面で跳ね返るように消えていく。

 放課後、校舎裏のフェンス際に座り込む。
 アスファルトがまだ少し暖かくて、背中にじんわりと熱が移った。右手の拳に残った感触を、じっと見つめる。骨の手応え。反射する鈍痛。まだ、忘れられない。
 ──そのときだった。
「……そこ、使う?」
 声がして顔を上げると、日村が立っていた。ギターを背負い、制服の上からパーカーを羽織っている。
「今日はここで練習しようと思ってたんだけど……」
 嫌でも目が合う。
(今、一番会いたくなかったヤツ……)
 返事をしない俺を、彼女はじっと見下ろしていた。
 その視線が、刺さる。
 だけど、同時に──頬を撫でていく風が妙にぬるくて、どこか懐かしい。
 自分の情けなさが皮膚の表面に溜まっていく気がした。
 お前、なんでそんな顔で、俺のこと見てんだよ。怖くねぇのかよ。無視してんのに、なんで、そこにいるんだよ。
(……近づくなって言えたら、こんなにぐちゃぐちゃにならねぇのによ)
「なんか……雰囲気、変わった?」
 日村がぽつりと呟く。
 俺の前髪は後ろに撫でつけられ、学ランの前ははだけていた。かつての俺が、今の俺の体を借りて歩いているようだった。
 答えられない俺を見て、彼女は言った。

「似合わないね……」

 一拍、時間がゆがむ。
 胸の内側を、やわらかく爪でひっかかれたような感触が残った。刺さるでもなく、消えるでもなく──沈んだ。
 呆気にとられたあと、一拍遅れて笑ってしまった。
「……そうか」
 立ち上がる。体のどこかに溜まっていたノイズが、ふっと抜けていく。
 俺が本当に腹が立ってたのは、“元ヤン”って指差されたことじゃなかった。
 “真面目な自分”が、誰の目にも映ってなかったこと。頑張っていたのに、誰にも届いてなかったこと。それが許せなかった。
 けれどこの子は、ちゃんと今の俺を見て、「似合わない」と言った。
 それが、嬉しかった。
「なあ、ここで弾くんだろ? ……聴いてていいか?」
 俺がそう訊くと、日村は目を細めたあと、くいっと眉を小さく上げた。
「ん? いいよ。あ、ちょっと……」
 一歩、俺のほうへ寄る。その瞬間、空気が揺れる。目の前で揺れる肩のライン。パーカーの布がこすれる音。ふわっとした香りが、鼻先をくすぐった。
「……ん、落ち葉が……」
 彼女の細い指先が、俺の肩をなぞる。そっと払う動きに合わせて、俺の肌がぞわりと粟立った。髪にも触れて、軽く払われる。一瞬だけ、指先が頬に触れた。
(……冷てぇ)
 秋の空気のせいか、日村の指先はひんやりしていた。それが肌に触れた瞬間、殴られた頬に当てられた保冷剤の記憶がよみがえった。
 痛みを和らげるように、静かに沈んでいく感触。

「……とれた。大丈夫」

 最後の落ち葉を摘んだ日村と、視線がカチリと合う。
 ふふ、と小さく笑ったその顔に、心臓をグァッと、掴まれた。

(なんだその顔……! そういうの、ズリぃだろ)
 反射的に視線を逸らす。けれど、視線の先のヘルメットケースの中に、反射する俺の顔が見えた。真っ赤な顔。気づいていないふりをしてる情けない自分。全部、この子には見えていたかもしれない。
「じゃあ、隣……お邪魔するね」
 そう言って、ポンッと柔らかく尻を落とした。俺もその隣に腰を下ろす。日村の背中のケースがコトンと地面を叩いた音。ギターを取り出し、膝に乗せる。
 風が少し強くなり、彼女の髪がふわっと浮いた。その毛先が、俺の頬に触れそうになる。

 ──右手が、無意識に動いた。

 その髪を、そっと耳にかけてやりたくなった。けど、指先が触れる寸前で、思い出したように動きを止める。バレないように、左手で右手首を掴んだ。
 “触れたい気持ち”を、必死に止めた。
(……今、触れたらもう……)
 もう「友達」には戻れない。そんな気がした。
 ごまかすように、学ランの前をぎゅっと閉じる。シャッと、チャックを上げる。首元まで引き上げたとき、指先に“ドクン”とした鼓動を感じた。
(やべぇ……聞こえんじゃねぇか、これ)

 視線を向ければ、すぐ横にいる日村。
 でも、見れなかった。
 見たら、絶対に手を伸ばしてしまう。

 肩が触れそうな距離。
 言葉より先に、皮膚が彼女を求めてる。
 この子の指、声、香り、ギターの響き──
 ぜんぶ、体温を持って迫ってきて、俺の“皮膚の奥”を熱くした。
 この感覚は、友達じゃ、済まされない。

(……もう、足りねぇよ)

 俺の左手が、また右手首を掴みにいった。