カラスバがポケモンと自活できる恋人を癒したい話

『ポケモンセラピー、ほどほどに』

 サビ組の事務所は、いつでも同じ匂いがする。昼夜を問わないコーヒーの残り香と、スモークがかった金属のにおい。窓の外がどんな天気でも、ここだけは一定の湿度と温度で、街の時間から切り離されているみたいだった。
 だからこそ、昨日の通話の一言が、妙に耳に残っていた。

『──疲れた』

 たったそれだけ。連日仕事に追われてはいるが、彼女は弱音を長く引きずるタイプじゃないし、むしろ笑って誤魔化すのが上手い。だから、短い言葉ほど本音だと分かる。
 カラスバはディスプレイに視線を流しながら、デスクの端を指先で叩いた。

『──オレに任しとき』

 口に出したのは、たぶん自分のためだ。気合いの入れ方を間違えると、心配はすぐ苛立ちに化ける。化ける前に、手を動かす。段取りを立てる。彼の世界では、それがいちばん安全だった。

 彼女は今日、休日だ。この仕事が終わったら、ホテルを取る。ルームサービスで、彼女が何も考えなくていい時間をつくる。できれば派遣のマッサージ師も頼もう。癒しは足し算だ。足りないよりは、余るくらいでいい。

 そう思って電話をかけた。

 呼び出し音が二回鳴って、画面が切り替わる。映った彼女は、ふわりと湿気をまとっていた。頬が桃色で、瞳がとろんと緩んでいる。髪は濡れていて、肩に水滴がひと粒、ゆっくり落ちた。

「なんや、風呂入ってんか? 話して大丈夫か」
『はい、どうしました?』
「最近お疲れやろ。ホテルでも取って、一緒にゆっくりしよ思うて」
『ああ……間に合ってます……』
「なんやて?」

 彼女はぼんやりした顔でそう言った。真っ昼間から妙に色気のある表情で、こちらの段取りを一瞬で蹴散らす。
 一体だれと何をしているのかと問い詰めたい気持ちが首をもたげたが、ぴち、という音に視線がずれる。彼女の肩に、小さな影が乗っていた。

「……シビシラスか?」
『そう。いま、一緒に入ってます。弱めの電流、流してもらってて』
『シビッ』

 画面の端で、シビシラスが誇らしげに尾をくねらせる。彼女の肩に乗ったまま、まるで温泉案内の看板みたいに落ち着いている。

『いいですよ、これ。血液がビールになったみたいです』
「……血液がビール」
『しゅわしゅわ〜って、ふふふ』

 言葉の意味は分からないのに、なぜか説得力だけがある。彼女の顔が、確かに酔ったみたいにほどけているからだ。カラスバは、ふっと笑いそうになって、慌てて表情を引き締めた。

「お前、なかなか進化させへん思うとったけど……そういう事情か」
『ええ。ちょうどいいんです』

 ねっ、とシビシラスと笑い合う彼女を見ていると、ボッと火が点く。悔しい。自分の提案した“癒し”が、最初から不要だったみたいで。

「ほなサウナはどうや。汗かいたら、スッキリするやろ」
『それも、間に合ってます』
「……まさか」
『さっきまでバクーダとサウナしてたんです』

 ……勘弁せえや。
 笑ってしまう。笑ってしまうのに、出番が一つずつ消えていくのがまた悔しい。

「この電流風呂の後は、フラージェスに『アロマセラピー』をお願いして、ミミロップに足踏みマッサージをしてもらう予定です」

 彼女が言うたび、ポケモンの名前が増える。しかも、どれも理にかなっている。温めて、流して、整えて、ほぐす。完璧だ。隙がない。

「……最高やな」
『ふふ』

 彼女の笑い声が、湯気みたいに画面越しに広がる。今名前の上がったポケモンは、全員彼女の手持ちだ。バトルやリラクゼーションだけじゃない。「夏はグレイシアと添い寝する」と話していたことも思い出す。カレらは当然のように生活の中に溶け込んでいて──“ポケモンとの共生”を、彼女は見事に体現している。
 それでも、カラスバの胸の奥が落ち着かない。何かしたい。いや、しなければならない気がしている。役に立つとか、守るとか、そういう言葉の手前で、ただ焦る。

『カラスバさんもどうですか。お疲れでしょ?』

 挙句、気を使われてしまう。彼女の優しさは、いつも的確なところに刺さる。

「……正直、血液がビールになる感覚は気になるけどな」
『おすすめです』
「おすすめされてもなあ」

 言いながら、カラスバは自分の指先を見た。タンタンタン、と何度もデスクの端を叩いて乾いた指。ここでいくら段取りを組んでも、彼女の“癒しのルート”には入り込めない。
 恋人として自分にできることを見つけなければ、と考えた瞬間、余計な疑問が頭をもたげる。

 ──オレの存在とは。

 そんなもの、簡単に答えが出たら苦労しない。出ないからこそ、今日も彼は段取りを組むのだろう。

「……ほな、邪魔したな。続き、堪能しぃ」
『はーい。お仕事、無理しないでくださいね』

 彼女はまた、桃色のまま頷いた。画面の端でシビシラスが小さく跳ね、湯気に紛れて消える。

 通話を切ると、事務所の静けさが戻ってきた。金属の匂いも、コーヒーの残り香も、さっきより少しだけ現実的に感じる。

 カラスバは椅子に深く座り直し、天を仰いだ。
 ポケモンに、負ける。
 いや、負けるという言い方は違う。彼女が、自分で自分を癒せることは、むしろ誇らしい。誇らしいのに、自分の手が空いてしまうのが悔しい。
 そんなふうに染みひとつない黒黒とした天井を見つめていると、控えめな声がした。

「……ボス」

 デスクの正面にジプソが立っていた。“お仕事”から戻ったのだろう。いつもより少しだけ埃の匂いがする。

「おお、ジプソ。帰っとったんか」
「ただいま戻りました」
「なあ、ジプソ」
「……はい、ボス」

 言葉が喉の手前で一度止まる。こんなことを部下に聞くのか、と理性が眉をひそめる。でも、口は先に動いてしまう。

「オレの彼女……強いなあ?」

 ジプソは一拍置いて、真面目に頷いた。

「ええ。ボスと同じく上位ランカーですからね」
「ちゃうねん。そういうことちゃうねん」

 強い。確かに強い。けれど、今言いたいのは、バトルの話じゃない。生活の話だ。癒しの話だ。

 彼女といい、ジプソといい。オレにツッコませるんが趣味なんか?
 自分だけが違うものを見ている。ひとりで立てる人──彼女の、生活に無理なく差し込める“何か”を手渡したい。そういう種類の欲。
 カラスバはデスクに肘をつき、額を指で押した。
 ジプソは困ったように瞬きをして、それから、妙に真っ直ぐな声で言った。

 「ボスには、ボスのやり方がおありでしょう。それに、ポケモンじゃできないことも、ありますから」

 その言い方が、やけに柔らかくて。諭すようで。
 ああ、年上やねんなあ……、と少しだけ笑ってしまった。

「……もうちょい、考えるか」
「手伝いましょう」

 ◆

 その日の夜、カラスバは彼女の家を訪ねた。玄関の前で呼び鈴を押す指先が、わずかに迷う。昼間、通話を切ったあとからずっと、胸に潜む小さな居場所のなさが残っていた。自分の段取りが何ひとつ必要とされない感覚は、想像以上に落ち着かない。
 ガチャ、と扉が開く。
 
「カラスバさん」

 出てきた彼女は、すっかり癒されて、街中のペロッパフのようにほわほわしていた。頬はまだ柔らかく上気していて、目元に余計な力がない。ああ、ちゃんと休めたんやな、と安堵するのに、同時に不甲斐なさが混ざる。恋人として勝ち負けなんてないと分かっているのに、今の感情はまったく子どもじみている。

 ほれ、好きなやつ、と手土産の地ビールと、チーズとオリーブを差し出す。彼女は袋を覗き込んで、嬉しそうに眉を下げた。

「わあ。ありがとうございます」
「疲れとるって聞いたからな」
「でも今日、だいぶ回復しました」
「せやろなあ、ポケモン様々やで」

 自分で言いながら、ちくりと刺さる。

 部屋に上がる。テレビはつけない。ソファの横に小さなテーブルを寄せて、グラスを二つ用意する。ポンッと王冠が飛ぶ音は気持ちがいい。しゅわあ、と泡が立つ気配を見ているだけで、“お仕事”の匂いが遠ざかる。彼女がチーズを一口齧って、「おいしい」と言う。その声が、昼間の湯気みたいな柔らかさをまだ引きずっている。

 話題はとりとめがない。今日の天気、近所のコンビニの品揃え、彼女の手持ちのポケモンの最近の癖。どれも重要じゃないのに、重要じゃないからこそ、体の芯がほどけていく。気づけば、カラスバは深く息を吐いていた。

(……オレの癒しは、この時間なんやな)

 不意に目が合う。ほんの一瞬、彼女の瞳に自分が映った。反射みたいに身を寄せて、唇が触れる。彼女は拒むどころか、「ふふ」と目を細めて笑う。甘い。喉が焼けそうなほど甘ったるい。

「ぎゅっとしたいです」

 その一言が、肩口から胸のあたりまで、熱い線を引いた。

 愛しい恋人を前にして、時間を忘れん男なんぞ存在せん。
 指先が彼女の髪を梳き、頬に触れ、背中を探る。彼女はくすぐったそうに身をすくめるくせに、甘えるように身体は寄せてくる。キスで塞がれていた唇からぬるい息が、はふ、と漏れる。それが合図みたいに、頭の中の何かが外れていく。

 危ない、と思った。目の前のザラメが溶けたような顔にぞくりとする。ここで流されるのは簡単だ。簡単だからこそ、今日は違うと決めたのに。

「……シャワー、借りるで」
 カラスバが逃げるように言うと、彼女は不思議そうに瞬いた。
「……はい。どうぞ?」

 浴室のドアを閉めた途端、外の空気が遠くなる。温いシャワーが首筋を打ち、さっきの熱を洗い流す。鼻で深く息を吸い、ふう──、とひとつ、深呼吸。
 カラスバさーん、とドアの向こうから呑気な声がする。

「シビシラス、貸しましょうか?」
「ええわ」

 このアホ。人の気も知らんで。

 昼間の「血液がビール」を、まだ引きずっている恋人に、はあ──、とひとつ、ため息。
 髪を乾かしながら、鏡の中の自分に向かって、心の中で短く言い聞かせる。今日は、癒しに来た。癒されに来たんじゃない。

「それじゃ、電気消しますね」

 彼女がぱちっとスイッチを押す。暗くなった部屋の隅に、フラージェスの香りが薄く残っている。帷はすっかり落ちたのに、昼間の癒しはまだ帰らないようだった。

 彼女はもぞもぞとベッドに潜り込み、こちらに背を向けて、お気に入りのペンドラー抱き枕をぎゅっと両腕で包んだ。恋人の胸を独占するこの綿の詰め物は、妙に説得力のある形をしている。首が長くて、腕を回しやすくて、胴体は足で挟める。抱き枕として完璧だ。
 さすが、オレが選んだ相棒とおんなじ姿をしているだけはある。
 それでも、今日だけは、そこに割り込みたくなった。

「ほれ、背ぇ向けんといて」
 ぽい、と枕を取り上げて、ベッドから降ろす。
「ああ! ペンドラちゃん……!」
「ペンドラちゃんは見張り役や」
「なんの……」
「……分かるやろ」

 ペンドラちゃんの座らせる場所を選ぶ。ふたりの“契り”の必需品がしまってある引き出しの、正面にした。──通せんぼするように。
 おねんねの相棒と引き離された彼女はぺしょ、と眉尻を下げて、「うう……」と名残惜しげに見た。可愛いが、可愛いで終わらせたら元も子もない。

「ええから、ほら」
「まさか」
「オレが抱き枕になったる。ぐーっすり眠れるで?」
 
 両手を広げて待ち構えれば、彼女は一度、固まった。次に、信じられないものを見る顔になって、それから小さく笑う。

「今日、しないんですか? 珍しい……」
「たまにはええんとちゃう?」
「朝まで眠れない覚悟、してました」
「ほんまあ? ほな、ええの?」
「…………ねます」
「毎日毎日がんばって、おつかれさんやからな。今日くらい、ゆっくり寝よか」

 彼女が「じゃあ、お言葉に甘えて……」と笑って、腕の中に収まる。閉じ込めるように柔らかな肩を抱くと、「えへへ……」と照れた声を出して胸に顔を埋めた。背中に回ってきた手が、遠慮がちに服の皺をつかむ。

 結局、答えはシンプルなところに落ち着いた。人間の体温が何よりも安らぐ。寒さに震える幼少期を過ごしたカラスバは、それを身をもって知っている。熱いサウナでも、微電流でもない。誰かのぬくもりが、黙って隣にあることが、一番効く。

「カラスバ抱き枕……」
「格別やろ?」
「うーん……ペンドラちゃんの方が……」
「おい」
「うそです。……あったかいです」

 頬がすりり、と押し当てられる。彼女の力がぎゅっと増す。

「カラスバさんのにおい……おちつく……」

 その一言が、胸の奥のざわつきを静かに片づけた。香りは、技でも特性でもなく、生活の積み重ねで染みつくものだ。自分がここにいる証拠みたいで、変に誇らしい。

 髪に軽くキスを落として、背中をゆっくり撫でる。圧は強くしない。ただ、ここにいると伝えるために触れる。しばらくすると、彼女の肩がすとんと落ちた。耳を澄ませると、寝息が小さく混ざる。そっと少しだけ身体を離して、寝顔を覗いた。

 昨日「疲れた」と言っていたときとはまるで違う。脱力して、安らぎにほどけた顔をしている。なんとかわいいことか。

「……癒されるわ」

 小さく呟いた声は、彼女には届かない。届かないくらいが、ちょうどいい。

 いつもなら。
 この時間にふたりでベッドに転がれば、熱に浮かされて、甘ったるい声が響いている。そうして翌朝の彼女は、身体の節々が悲鳴を上げ、涙目で腹が痛いと訴えてくる。
 それが今日は、温かくて、静かで、目覚めのいい朝を迎えるという確信がある。

 空気を読んで大人しくしている下半身に、内心で礼を言う。眠る恋人のこめかみに、そっとキスを落とした。

 それからカラスバも目を閉じる。香りの残る暗がりの中で、彼女の呼吸に自分の呼吸を合わせていく。段取りも策もいらない夜は、思っていたより、ずっと難しくて、ずっと優しかった。