カラスバが”あの感情”に気づく話

『溺愛』

 彼女のそばにいると胸の奥がじわじわと騒ぎ出す。
 香りが触れただけで、声が届いただけで、気配が近づいただけで……心が沸き立つ。最初はほんまに小さな好意やった。“ええ子やな”で済むはずの感情やった。
 それがいつの間にか形を変え、愛情になって──今となっては、もう正体の分からん何かに変わってしまった。
「……カラスバさん」
 柔らかく呼ばれるだけで呼吸が一瞬止まる。
 その甘い声が胸の奥に落ちて、そこから熱がじわりと広がっていく。彼女の瞳に映るオレの顔は、どこか毒に侵されているみたいやった。
 ──毒、やないな。
 もっと甘くて、逃げようのないもんや。
 彼女は“甘い毒”というより、オレの内側をじくじくと溶かして、浸食して、気づけば食い尽くしてしまうような水。
 沈んでいくのが気持ち良すぎて、もう抜け出せへん。
「……どうしたの?」
 眉尻を下げて覗き込んでくるその顔。心配してくれとる……その事実が心地よすぎる。まるで暖かい湯に浸かったみたいに、体中の力が抜けていく。

 ロトロトロト……。
 スマホロトムが震えた。
「あ、ごめんなさい、社長からだ……」
 電話を取って、そのまま部屋を出ていく。ただそれだけのことやのに、胸の奥がザワッと逆立つ。さっきまで彼女の髪を撫でとった掌が、無意識のうちに固く握りしめられる。
 みぞおちの奥で煮えたぎるような熱が蠢く。
 ……なんやねん、これ。
 彼女を愛しとる。そんなんはとうに自覚しとる。でもそれだけじゃ説明がつかへん。
 彼女の挙動ひとつ、言葉ひとつで、オレは簡単に息の仕方を忘れてまう。深い水の中で泳ぎ方を思い出せんくなるように、胸が痛いほど締めつけられる。

「カラスバさん?」
 戻ってきた彼女の声が、肺に空気を送り込む。ようやく呼吸が戻る。酸素が体に巡って、目の前の景色が正常の色を取り戻す。

 ああ──やっと分かった。

 オレは今完全に溺れてるんや。
 どうしようもないくらい深く。
 情けないほどに彼女一人へ沈んでいく。
 毒にやられたと思ってた。けど違った。
 これは、もっと甘くて逃げられん。
 この感情は──

 『溺愛』

 それ以外の言葉じゃ表せへん。