カラスバが恋人と静かな幸福に触れる話

『とける夜』

 夜の気配が静かに沈んでいく部屋。
 本を読みながら、ぬるいランプの灯りだけがナイトテーブルを照らしていた。紙の匂い、インクの匂い、遠くで鳴る時計の音。
 ゆっくりとページを閉じて、指先でフレームをつまむ。
 カチャリ、とメガネを外した瞬間から、世界の焦点はひとつだけになる。

「おいで」

 呼ぶと、ソファに座っていた恋人がふわりと顔を上げる。
 その仕草だけで胸があったまってしまう。立ち上がる気配、足音、微かに揺れた髪から流れてくるシュシュプみたいな柔らかい香り──この匂いはほんま癒しの成分か何か入っとるんかと思うほど、心臓がほぐれていく。
 腕を伸ばして、そっと彼女を引き寄せる。ベッドに背中から沈めて、両腕で逃げ場を塞いだ。
 第二関節で頬を撫でた瞬間、心臓の奥で溶けるみたいな音がした。

「……こっち向いて」

 覆いかぶさって、唇を落とす。触れるだけのキスをひとつ。
 それから、ゆっくり、深く。
 舌先を触れ合わせると、彼女の呼吸がふっと止まり、すぐにほどける。重ねた唇の内側で、彼女の舌が遠慮がちに触れてくる。
 とろ、と絡んだ瞬間。
 くちゅ……と、とても小さな、けれど背骨に沁みる水音。
「んぅ……」
 堪らなく甘い声。舌をもう一度ゆっくり絡める。焦らず、彼女のペースに合わせて、味わうみたいに深めていく。
 部屋が、湿った音と二人の息だけになる。

 唇を離した瞬間、彼女は真っ赤な顔で視線を逸らした。逃げるように頬を向けるその仕草さえ愛おしすぎて、顎をそっと掴む。

「おーい。……こっちや」

 顔を戻させて、さらりと耳へ唇を寄せた。耳殻をしたでなめる。濡れた熱を与えるように、ゆっくり、撫でるように。
「んっ……」
 肩がびく、と跳ねた。その小さな反応が、じわりと下腹に落ちていく。

 もっと見たい。
 もっと聞きたい。

 耳たぶを甘噛みして、湿った音を立てながら吸う。彼女は耐えるように肩を震わせて、指がオレの腕にぎゅっと食い込む。
 かわいすぎるやろ……。

「……気持ちええか」
 
 囁く声にわざと吐息を混ぜる。耳にかけられた息に、小さく身を縮める。
「あぅぅ……」
 その声が、ほんまに危ない。
 堪えようとするのに耐えきれず漏れてしまう甘い震え。耳の奥に響くそのかすれ方だけで、こっちの理性が削れる。
 腕を握られた部分に力が入る。
 こんな風に、必死に縋られると、守りたい気持ちと同時にどうしようもない熱が込みあげる。
 ふっと笑いが喉の奥でこぼれた。

「……たまらんな、ほんま」

 ──ガキの頃は考えられんかった。
 こんな温かい体温に触れられる瞬間が、自分に訪れるなんて。

 こめかみにキス。額にも。眉尻にも。頬に沿って、ゆっくりと。
 首筋に触れると、彼女の呼吸がひとつ、熱を帯びる。
 鎖骨に舌を這わせる。つぅ……とゆっくり。ほんの少しだけ、塩気がした。
(……あったまってきとるな)
 目を上げると、彼女は熱に浮かされた顔で俺を見ていた。潤んだ瞳、下がった眉尻、荒い息。
 ……あきまへん。“メロメロ状態”いうても足りひん。
 いや、喰らってんのはどっちや。オレのほうかもしれへん。

「なんやええ顔して」

 くっ、と笑いながら唇を落とす。つい、止まらん。

「カラスバさん……」
「ん?」
「……大好きです」

 胸の奥が一瞬で焼けた。
 ほんまに、言葉ひとつでここまでやられるんかというくらい、心臓が跳ねる。

「フフ、オレもや」

 甘ったるい声に自分で驚く。こんな声にさせられることすら、喜んでまう。
 ゆっくりと触れてくる手。あったかい掌に頬を包まれ、額をコツンと合わせられる。
 彼女が目を細めてふふ、と遠慮がちな笑みを零す。

 ……なんやねん、この時間。
 幸せすぎて怖いくらいや。
 裏社会で汚れまくった俺に、なんでこんな顔してくれるん?

 堪らなくなって、また唇を重ねた。ちゅ、ちゅ、と水音が部屋に満ちていく。
 すべすべの肌にキスを落とすたび、胸の奥で何度でも同じ言葉が繰り返される。

 ──この子は、オレのや。
 ──絶対に離さへん。

 その夜、ゆっくり溺れるみたいに何度も唇を重ねた。