『口述筆記』
※昭和初期の作家パロです。駆け出し小説家の赤葦先生とその担当編集さんのお話。
【一】
夕暮れの銀杏並木は、斜陽を孕みながら色を変えつつあった。
黄葉の隙間を縫うように光が差し、石畳に細かな金の粉をこぼしてゆく。煉瓦造りの洋館と、格子戸を備えた木造家屋が肩を寄せ合うこの通りは、古い木の香りと新しい時代のインクの匂いが混ざり合う、過渡の温度を抱えた場所だ。
外套の襟を整えながら歩いていると、背後から コツ、コツ と高く澄んだ音が追ってきた。磨かれたピンヒールが石畳を叩く音。洋装を身にまとった女性の足音は、男たちの視線を振り返らせるほど凛としている。
「赤葦先生」
名を呼ばれて振り返ると、ガス燈の淡い光があなたの横顔を縁取った。黒いワンピースが細い腰をすらりと強調し、胸元の白いレース襟には静かな気品が宿っている。ゆるやかに巻かれた燻んだ栗色の洋髪は、微かな風に揺れている。
職業婦人──そう呼ばれる新しい女性たちの姿には、時代の先端で呼吸するような清冽さと、どこか触れがたい気高さがあった。
「……また口述筆記をお願いしたいのですが」
控えめに告げるとあなたは瞳を伏せ、耳もとに落ちた髪をそっと払った。洋燈の揺らぐ光がその仕草に柔らかく触れ、曖昧な影が生まれる。ほんのわずかな動作なのに、喉の奥に熱がこもっていく。
あなたは、おれの言葉をそのまま紙へと落とすひとだ。息遣いも、思考の跳ね方さえも、すべて拾う。そのことを思うと触れていないはずなのに、触れられている錯覚さえ覚える。
不意に、胸の内側のどこかが疼いた。
官能的な一文を紡ぎたくなる衝動──紙を媒介にしてあなたに触れたいという、危うい欲望の兆し。
「明日の午後でしたら、お時間つくれます」
静かな声。
だがあなたの指先が、冷たい空気のせいか、それとも言葉にすれば壊れてしまいそうな何かのせいか、わずかに震えていた。
その一滴の揺らぎに、胸がきゅうと締まった。
編集部の机を挟んで向かい合う、あの秘密めいた時間──
それが甘く、危うく、抗いがたいほど心地良いことを、互いに知っている。
◇
翌日。編集部は陽が落ちるのが早く、窓から差し込む光はやわらかな黄金色になっていた。
活版印刷の機械が壁越しに冷たい金属音を響かせる。紙束を捲る乾いた音、新聞配達人の靴音、遠くを走る汽車の低く重い響き。
無機質な音に満ちた部屋の中で、あなたがタイプライターに置く指だけが、不思議と温度を帯びて見えた。
「……では、読み上げます」
声を整え、おれは口を開く。あなたは姿勢を正し、タイプライターのキーにそっと指を添えた。
その瞬間、斜陽が机の上の原稿紙を照らし、光があなたの横顔をさらうように落ちた。呼吸が浅くなるのを、どうしても抑えられない。
胸の騒がしさは本意ではない。それでも、とある文学の一節が頭をかすめる。
『人間は恋と革命のために産まれてきた』
──わけではない!
そんな言葉で抑え込めるほどに、おれの胸は従順ではなかった。
ぱちぱちと金属を叩く音が続く。集中したあなたは耳もとに落ちた髪を、視線を流しながらそっと払う癖がある。その仕草を見るたび、喉の奥の熱は増し、心臓の速度がじわりと変わる。
「……赤葦先生。ここ、とても情熱的な表現ですね」
ふいに向けられた視線は静かだったが、奥のどこかに微かな火がある気がした。
戒めか、戸惑いか、あるいは……期待か。
判じかねるまま、胸だけが静かに揺れた。
気づかれている。この物語が、あなたに触れるために書かれていることに。
紙とインクと光に満ちたこの午後。
言葉になる前の熱を、いちばん最初に受け止めるのがあなたであること──
それが怖いほど嬉しく、嬉しいほど危険だ。
◇
この原稿は“軍人と女給の密やかな恋”を描いた一冊として世に出ることになる。だが、誰も知らない。
あの午後の温度を知っているのは、世界で二人だけだ。
その記憶があるかぎり、おれはきっとまた物語を書くのだろう。
あなたに届く、触れもしない言葉を探し続けながら。