恋人の松川くんに贈るチョコを探す話

『バレンタイン・ブランデー』

 この時期になれば、街の色がじわりと紅く染まる。ハートの飾りが視界の端に引っかかって、デパートの催事場に足を踏み入れた瞬間、甘さが空気ごと喉に触れてくる。ディスプレイも、試食の匂いも、乙女たちの声色まで。息を吸うたび、砂糖の粒が肺の奥に積もっていくみたいだ。
「さあ、どうしますか……」
 独り言が小さく漏れる。今年も、恋人の松川に愛を伝える日が来た。──バレンタインデー。
 付き合ったばかりの頃は、手作りのブラウニーひとつでも十分だった。けれど年を重ねるほど、レオニダスやイヴァン、リヨンソー……この季節にしか出会えない“限定の箱”が、棚の片隅に増えていく。包みを開ける指先、最初のひと口を噛む音、甘さに綻んで、少しずつ分け合う時間。
 ただ、松川は「甘いものを食べる人」ではない。彼はつまむ程度で満足して、最後は決まってお気に入りの切子グラスのほうへ行く。甘味の余韻を舌に残したまま、酒で整えるように。
 だから今年は、お酒で酔わせるんじゃなくて、香りで酔わせたい。吐く息に紛れてくる香りで。

 去年のバレンタインが、ふっと浮かぶ。
『いいお酒買っちゃったんだよね〜』
 弾む声が珍しくて、私はそれだけで胸がゆるんだ。氷を落として、オンザロックにして、彼はゆっくり飲んでいた。松川が黄金色のウイスキーを唇に運んだ、ある刹那を、私は今も手放せずにいる。
 カラカラ、とグラスが鳴る。味を思い出したのか、想像したのか。わからないまま、彼はふっと口元を綻ばせた。ビターチョコでコーティングされたオレンジピールをひとつ含み、舌の上でほんの少し転がしてから、辛口のタリスカーをさっと流し込む。
 鼻から息を吐きながら目を細めた顔が、カカオの苦みとスモーキーな香りが合わさって抜けていく瞬間の、豊かな余韻にそのまま溺れているみたいだった。
 松川は私のほうを見ながら、コーティングが剥がれて裸になったオレンジの皮を咀嚼して、零した。
『ああ……うまい……』
 熱のにじむ息に、柑橘とアルコールの香りが孕まれていて、背筋がぴりりと痺れた。深く沈んだ声色。静かに下がった眉尻。甘露を垂らすみたいな視線。
 なんだこの男。チョコなんかより、あんたのほうがよっぽど甘いじゃないか。
 骨の髄まで溶かされそうになって、思わず、抱かれたあとの余韻に似たため息が出たのだった。

 さて、吟味しなければ。
 今年も“アムール・デュ・マツカワ”を味わうために。

 我ながらなんだそのネーミングセンスは、と心の中で笑いながらショーケースに並べられた、宝石と見紛うようなチョコレートたちを眺める。
 自分用のものなら、最初から決まっていたみたいに手が伸びるのに、彼と一緒に食べるとなるとどうしてこうも迷うんだろう。毎年のことだけれど、これだ、と思うものになかなか出会えず、気づけば彷徨ってしまう。
 本当はチョコを探してるんじゃなくて、松川の眉尻がほどける瞬間を探してるのだ。 そう思った途端、胸がすっと静かになった。
「あー……だめだ。一旦降りよう」
 会場に漂う熱気と、やたら甘い芳香で頭がくらりとする。こんな状態じゃ、まともに選べない。息を整えるために、ついでに晩酌のお供を買うために、地下へ降りた。
 デパ地下で惣菜を見繕いながら、ふと本末転倒な考えが過る。
(チョコより、この豚足のほうが喜ぶんじゃないか?)
 たぶん、喜ぶ。きっと、笑う。けれどそれじゃ、今日の私が落ち着かない。

 あのうっとりと蕩けた恋人を、至極の松川一静を、今夜のスペシャリテにしたいのだ、私は。

「おねえさん、いかがですか?」
 丸い盆を持った店員さんが、微笑みながら小さなカップを差し出した。カップの縁から、果実を煮詰めたような甘い気配が立ち上る。
 声をかけられたのは、和洋酒売り場の前だった。漆黒の壁紙と、銘酒を並べる重厚な木の棚が「お高いですよ」と黙って語っている。さっきまで影のように歩いていた催事場とは、別世界みたいに静かだ。
 お試しだし、と自分に言い訳をして、リフレッシュがてら一杯口に含む。
 舌に乗った濃厚な味わいと、鼻を抜ける林檎のようなフルーティーな香りに、目がひらく。
「ん……ウイスキー? いや、ブランデー? ですか?」
「はい! ブランデーです。お好きですか?」
「久々に飲みました……」
 店員さんがふふ、と笑って、「よければこれも」と違うものを注いでくれる。受け取って、またひと口。これも、ブランデー。今度はバニラの風味がやさしく広がる。舌の奥にふわりと居座って、しばらく離れない。甘さは尖っていないのに、芯だけがしっかり熱くて、喉を滑ったところがじんと温まった。
「こちらは樽の香りがやさしくて、チョコレートにも合わせやすいんですよ」
 店員さんの持つ瓶のラベルが金色に光る。私はもう一度カップを受け取り、口に運ぶ。甘みが先に来て、そのあと樽の匂いが鼻の奥へ抜ける。息を吐くと、胸の中まで香りが染み込んだみたいに、じわりと満ちた。

 この香りが、彼の唇に触れたら。

 氷の音なんてないのに、頭の中でカラカラと鳴った。去年のグラスの揺れが、まだ私のどこかに住んでいる。目を細めたあの顔も、少し困ったように笑う口元も。
 思い出が、いまのブランデーと混ざって、甘くなる。
 ふっと笑いそうになって、唇の内側を噛む。ここは売り場だ。まだ早い。まだ、想像だけでいい。
「バレンタインで……甘すぎないけど、香りが残るのがいいかも……」
 すると店員さんは、わかります、と言うみたいに微笑んだ。試飲台から一本を慎重に抜き取る。琥珀色の液体が瓶の中でゆっくり揺れて、揺れ方が妙に上品で、いやらしくないのに艶っぽい。
「これは果実味がきれいで、後味がくどくないんです。飲み方も色々できますし、少し温度が上がると香りがふわっと立ちます」
 温度が上がる。それが体温の話にも聞こえてしまって、私は目線だけで誤魔化した。棚の木目を眺め、ラベルの文字を追い、なんでもないふりをする。

 けれど心の中では、もう決まっていた。
 彼を、ブランデー漬けにしてしまおう。

 喉の奥が小さく震えた。ほんのひと匙でいい。芳醇な香りが残って、彼の呼吸に混ざる程度に浸したい。
 あの静かにほどける一瞬を、酔いしれるような痺れを、今年は私の手で作りたい。
 店員さんが瓶を少し傾けて見せる。光を含んだ琥珀が、硬いガラスの中で柔らかく見えた。
「……これにします」
 決めた瞬間、頭の霧がすっと晴れた。迷いが消えると、空気はこんなにも軽い。
「ありがとうございます。包装はどうされますか?」
「お願いします。リボンは……赤がいいです」
 言いながら、なぜか松川の顔が浮かぶ。赤が似合うタイプではないのに。けれど大事なのはラッピングじゃない。これが連れて帰る未来のほうだ。紅くて、熱くて、心臓の奥にしまわれた何か。
(あ! しまった。値段……)
 緑色で表示された数字を見た瞬間、足元が一瞬ぐらついた。ふと見えた隣のレジでは、お会計中の紳士の前にハイグレードなシャンパンがあった。瓶の中の揺らぎと小さな気泡が弾けていく様が、無計画な自分へのせせら笑いに思えた。
 完全に予算オーバーだった。
(……まあいいか、年に一度だし)
 醸しだされるあの艶美な瞬間への対価としては妥当、むしろ安いくらいかもしれない。なんて、この場ではそう思うしかない。
 箱に収められていく音が、やけに静かに聞こえる。包装紙が擦れる。赤のリボンがきゅっと締まる。その音ひとつで、今夜が少しだけ近づく。

「ありがとうございました!」
 手渡されたそれを両手で受け取って、少しだけ抱えると、ふっと、胃のあたりが熱くなる。まだ家にも帰っていないのに、晩酌の光景が先回りして胸に差し込む。グラスの縁、喉仏の動き、低い声が落とす一言。
『……なにこれ、うま』
 そんなふうに何気なく言われるだけでいい。眉尻がわずかに下がって、目が細くなって、息に香りが混ざる。私はその横顔を、ゆっくりと味わいたい。
 袋の取っ手が指に食い込み、現実へ引き戻す痛みがちょうどよかった。
 売り場を離れると、ぶぶっ、とポケットのスマホが揺れた。松川からだ。退勤した、という短い報告。『おつかれさま』と返すと、間髪入れずにまた震える。
『お酒買って帰るけど、飲みたいやつある? 一緒に買っとくよ』
 ディスプレイの文字を追った途端、喉の奥がくくっと鳴った。笑いの一歩手前。秘密を舌の上で転がすみたいな感覚。
 私は少しだけ間を置いて、画面に打ち込む。
『ハッピーバレンタインデー!』
 それだけ送って、すぐに画面を閉じた。
 松川の『いるの? いらないの?』って声が聞こえる気がする。
 
 グラスの中で、氷と琥珀が揺れる気配を想像する。
 今夜、彼はどんな顔をするだろう。
 今年は、それを、私の手でほどきたい。

 ──その余韻に、沈みたい。

 私は、形になりそうな期待とともに、袋を胸にぎゅっと抱えて歩いた。