『不動』
風のない夕刻が空気を澱ませていた。
教室の窓は灰色に曇り、机の影が鈍い。
彼女は鞄を抱き締めるように胸に当て、声を絞り出した。
「……ツラすぎる。もう消えたい。しんどい」
言葉は脱ぎ捨てた上着のように床へ落ちた。
向かい合う昼神幸郎は、まばたきさえ惜しむように静止している。
焦点の合わない瞳──その深さに覗き込んだ途端、背骨を氷が走った。
彼の沈黙は、怒りより冷たく、優しさより遠い。
やがて、口角だけがゆっくりと持ち上がる。
「好きにすれば?」
柔らかな語調に、体温だけが削ぎ落とされている。
続く声は、さらりと刃を滑らせた。
「君がいなくなった世界のオレ、どんな顔してるだろうね?」
息を呑む音が、二人の間でガラス片のように響いた。
黒い湖面を思わせるその視線に、彼女の喉が詰まる。
「ご、ごめん……本気じゃないよ」
涙の匂いを帯びた声。
昼神はふっと眉を緩め、首をわずかに横へ折った。
「あはは、分かってるよ」
笑い声だけが教室の埃を揺らす。
彼は視線を窓辺へ逸らし、次の瞬間には彼女の頭に掌を置いていた。
指先は軽い。けれど重さより確かだ。
「いなくなったらダメだよ」
低く落とした声は板書のチョークより細い。
「そんなにツライなら、もうぜーんぶやめて、オレと逃げちゃお」
冗談めいた響きの奥に、退路を塞ぐ誓いが潜む。
胸の奥で何かが溶け、すぐ固まる。
罪悪感と安堵が同時に流れ込み、言葉にならない。
──こくり。
首が動いたのは、震えを隠すためだった。
ちら、と見上げる。
昼神は耳の後ろにかかった癖毛を払いながら微笑む。
「じゃ、おいしいものでも食べに行こうか」
軽やかな提案。
しかし傾げられた首の奥、暗褐色の瞳は未だ光を宿していない。
それでも彼女は立ち上がる。
彼の差し出した影の中へ、一歩踏み入れる。
破片だらけの日の終わりに、ふたりの靴音だけが、静かに重なった。