仲直りしても尾を引く彼女に気づく佐久早くんの話

『仲直りの余韻』

 ほんの些細なすれ違いだったはずなのに、言葉にできなかった不安や苛立ちが、思っていた以上に根を張っていたのかもしれない。
 冷戦の間、互いに意地を張って、無駄な時間を過ごした。
 ようやく仲直りしたあとの彼女は、妙に素直だった。前よりも距離が近い。
 最初はそうやって、甘えてくれるのが嬉しかった。
 俺たちは強くなったんだ、と。喧嘩もできるくらい信頼しあえているんだ、と。柄にもなく、どこかそんな風に思っていた。
 だけど、違った。
 
 甘えじゃなく、怯えだった。

 気付くまでに時間がかかった。
 彼女は、ふいに俺の顔色を伺って、笑って、目を逸らす。その仕草が、何度も胸に刺さった。
(俺が、させてるのか)
 安心させたくてそばにいるのに、一番やりたくなかったことをやっている。情けなくて、腹が立った。
「……ねぇ」
 名前を呼ぶと、彼女は一瞬だけビクッとしてから、じっと見つめ返してくる。その瞳が、まだ揺れていた。
 そっと抱き寄せて、頬を撫でる。指先が触れるだけで、また何か言われるんじゃないかと身構えているのが伝わる。
(俺は……何やってんだ)
 心の中で舌打ちしたくなる。
 数泊の沈黙の後──

「……絶対、離れないから」
 
 自分でも驚くほど、真剣な声が出た。
 彼女が目を大きく見開いて、潤んだ瞳に涙が浮かぶ。それでも、唇だけは必死に結んで、泣くまいと堪えていた。
「……うん」
 消え入りそうな声。それを聞いた瞬間、俺の方がもう限界だった。ぎゅっと力を込めて、抱きしめる。
 腕の中で、彼女がグスグスと声を殺して泣き始めた。
 情けなくて、でも愛しくて。
 
 絶対に、この手を離すものか。
 お前がいないと、俺が無理なんだ。

 彼女の肩に顔を埋めながら、ただただ、思い知らされる。

 ◇◆◇◆

 喧嘩なんて、したくなかった。
 ほんの些細なすれ違いのはずだったのに、意地になってしまった。数日間、ろくに口もきかずに過ごして、ひとりきりの夜は胸がぎゅうっと苦しくて眠れなかった。
 やっと仲直りできたあと、聖臣くんは何もなかったみたいに隣にいてくれた。前と同じように抱きしめてくれるし、優しさを灯した大きな黒目で、静かに見つめてくれる。
 でも、自分のなかの不安は消えなかった。
(また、あんな風になったらどうしよう)
 ふとしたことで、全部壊れてしまうかもしれない──そんな予感が、抜けなかった。
 
 貴方は綺麗好きだから。
 慎重な、人だから。
 
 今は許し合えたと思っていても、心の奥底で引っ掛かりを持ち続けているかもしれない。そしていつか、掬い上げてしまうかもしれない。
 ──不信感を。 
 だから、気づけば何度も聖臣くんの顔色を伺っていた。
 そばにいるたび、ちゃんと笑えているか、私のことを嫌いになっていないか、何度も何度も確かめてしまう。
 甘えたいのに、甘えるたびに「これでいいの?」と自分を疑ってしまう。
 そんな自分が、嫌だった。心の底から安心したいのに、どうしても不安が拭えない。自分でも情けないと思う。
 聖臣くんに迷惑をかけている気がして、ただ、ぎゅっと胸が痛かった。

 ある日、ふいに名前を呼ばれた。
「ねえ」
 その声に、体がこわばる。
 顔をあげると、聖臣くんがまっすぐ私を見ていた。何も言わずに抱きしめてくれて、指先でそっと頬をなぞられる。
 見つめ返した瞳が揺れているのは、自分でもわかっていた。何か言われるかもしれないと、ほんの少しだけ身構える。
 でも、返ってきたのは、低くて優しい声だった。

「離れないから」

 思いがけない言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。涙が溢れそうになって、必死でこらえる。でも、どうしてもこらえきれなくて──
「……うん」
 かろうじて返事をした瞬間、抱きしめてくれた腕がもっと強くなった。
 もう、だめだった。
 聖臣くんの胸のなかで、声を押し殺して泣いた。不安も、情けなさも、全部ごちゃ混ぜになって、どうしようもなく泣けてきた。
 それでも、離れずに、ただそばにいてくれるぬくもりが、心の底まで沁みていく気がした。

 ◆◇◆◇

 彼女の嗚咽が、少しずつ静まっていく。
 呼吸が浅くて不安定だったのが、今はゆっくり、深くなってきた。泣きやんだか……と、抱き寄せたまま気配を探る。
 顔はまだ俺の胸元に埋めたままだ。
 背中をさすっていた手を頭へと移動させて、そっと撫でると、少しだけ体がぴくりと動いた。逃がすものかと、腕に力を込めた。
 ぎゅうっと抱きしめて、彼女の体温と輪郭をしっかりこの腕に刻み込む。

 俺のせいだ。
 
 彼女はいつだって俺に寄り添おうとしてくれてたのに。俺は言葉をちゃんと返してこなかった。

(そばにいれば伝わるとか、思ってた。
 ……都合良すぎだろ)

 自分の甘さが喉の奥を苦くさせる。安心させたかったくせに、本当に必要だった言葉をひとつも渡せてなかった。
 彼女が、もぞ、と動いて顔を上げた。まだ少し泣き腫らした目をしている。眉尻が下がってて、口元がわずかに震えてた。
 なのに、俺の顔をまっすぐに見てくるその目が──すごく綺麗に思えた。
  
 そっと唇を重ねた。
 柔らかく、深く、でも静かなキス。全部を押しつけるようなものじゃなくて、ただ、想いを届けるための。
 唇が離れた瞬間、小さく息を吸って、囁く。

「……好きだよ」

 何度だって言う。
 お前がもう大丈夫って笑ってくれるまで。
 何度だって、何度だって。

 言葉で伝えることを、俺は、今から始める。