『お疲れさまのキス』
夜更けの寝室。カーテン越しの街灯が、天井にぼんやりとした明かりを落としていた。ベッドに仰向けになってスマホを眺めていた俺は、ドアが開く気配に顔を上げる。
風呂上がりの彼女が、ふわっとしたバスタオルの匂いをまとって入ってきた。髪はまだ少し湿っていて、前髪の水滴が頬に落ちそうだった。
「おつかれさん」
そう声をかけた途端、彼女が足を止める。一瞬だけ迷うような間があって、それから、すとんと胸元に倒れ込んできた。
小さな肩が震えてる。
ぎゅうっと抱きしめてくる腕に、いつもの力はない。
まるで、糸が切れそうな感じだった。
俺もそっと腕をまわして、包み込む。ポンポンと頭を撫でると、彼女は鼻先で俺のシャツをくすぐって、小さく息を吸った。
「つらいなら、辞めてもいい。俺もいるんだし」
その言葉に彼女は何も言わず、首を横に振った。
頬が湿っていた。涙なのか、水滴なのか分からないけど──きっと、どっちもだった。
「ちゃんと最後までやる……」
かすれた声で、でも真っ直ぐに。それがどれだけ苦しい覚悟か、俺には痛いほど分かってる。だからこそ、何か、俺にできることを探してしまう。
頬を包んで、顔を覗き込んだ。
柔らかい目に、涙が光っていた。
ぐらつく心ごと、抱きしめたくなる。
「俺になんかできること、ある?」
沈黙が一瞬だけ流れて、やがて、彼女がぽつりと口を開く。
「ぎゅうってして、毎日……。
お疲れさまって、キスして……」
なんだよ、それだけ?
だけど、それが“彼女のいちばん欲しいもの”なんだって、すぐに分かった。言葉の奥にあるものを、俺はずっと知ってる。
「……お安い御用」
言い終わるより先に、唇を重ねた。
焦らず、優しく、ゆっくりと。
彼女の好きな、柔らかくて深いキス。
時間をかけて、そっと、心の奥まで触れるように。
キスのあと、彼女が小さく息を吐いた。肩の力が抜けて、俺の胸にふわりと体重を預ける。それを受け止めながら、背中を撫でる。
「……あのさ」
囁くと、顔だけがこくりと動いた。
「毎日どころか、何回でもするから。だから、泣く前に言いなさいよ。……ちゃんと、甘えていいから」
彼女の睫毛が震える。
それでももう涙は落ちず、目を閉じて、またぎゅうっと抱きついてきた。
その温もりが、俺にとっても救いだった。こんなにも大切な人を、ちゃんと守れる男でいたい。
そう思いながら、もう一度だけ、長く深いキスをした。
◇
翌日。日付なんてとっくに変わっていた。寝室のドアがゆっくり開いて、彼女がふらりと入ってくる。
髪は乾いているはずなのに、疲れが滲んでるせいか、どこか湿った空気をまとっていた。
今日は昨日よりもしんどかったんだろう。俺が腕を広げるより先に、胸に飛び込んできた。小さな爪がTシャツの裾をきゅっと掴む感触で、その限界がわかる。
抱きしめ返しながら、そっとベッドに倒れ込むかたちで彼女を下に敷いた。
柔らかい布団に沈む小さな身体が、少し震えている。
「お疲れさん」
目元が潤んだまま見上げてくる彼女に、そっとキスを落とす。触れただけで、かすかに息が吸い込まれる音がした。唇を離すや否や、彼女が小さく甘える声を漏らす。
「……もっとして」
そんなふうに頼まれて、我慢できるわけがない。
「かわいーなぁ、お嬢さーん」
からかうみたいに言うと、彼女の眉がきゅっと寄る。照れてる癖に、腕はちゃんと俺の身体を求めてる。その素直さがたまらなかった。
しつこいくらいにキスを落とした。
唇だけじゃない。顎、頬、耳の下、鼻先。
息をする暇なんて与えないくらい、ゆっくり、優しく、でも容赦なく。
彼女がだんだんクラクラになって、薄く開いた瞳の焦点が合わなくなってくる。
「も、もういい……!」
腕で顔を隠そうとするけど、逃がす気はさらさらなかった。その手をそっと外して、こめかみに小さくキス。首筋にも、肩にも、見えるところ全部に落としていく。
「やっ……ちょっと、てつろ……!」
そう言いながらも顔を真っ赤にして、くすくす笑っていた。
その笑い声があまりにも柔らかくて、胸の奥がじんわりあったかくなる。
本当に、かわいすぎる。
「ほんと、かわいい……」
囁いた瞬間、自分の声のほうが甘くて驚く。
彼女を癒してやるつもりだったのに──
癒されてるのは、俺のほうだった。
腕の中で力を抜いて笑ってくれる彼女を見るたびに、この子のために毎日抱きしめて、何度でも「お疲れさん」と言おうと思う。
そしてもう一度、ゆっくり唇を重ねた。