至って健全な話です。まじめな子がちょっと変わった生態をした角名くんに振り回される話。
『過充電!』
Chapter1
『情けは人の為ならず』
この言葉を初めて聞いたとき、「むやみに親切にしてもその人のためにならない」という意味だと思っていた。
でも、高校生になってからちゃんと調べて本当の意味を知った
『人に親切にすると、その相手だけじゃなく、巡り巡って自分にもいいことが返ってくる』
なんだ、とてもいい言葉じゃないか。そう思った瞬間、胸の奥にすうっと染み込んできた。それ以来、私はできるだけ人に親切にしようと心がけている。それだけで少し大人になった気がしていた、高校二年の夏休み。
美化委員の活動で登校していたある日のことだ。
「はあぁ……生き返る……」
今、なぜか私は、そのうっとりした声の主──角名倫太郎くんにぎゅうっと抱きしめられている。呼吸の仕方が分からなくなって、蝉の鳴き声だけが遠く後ろで鳴いているみたいに聞こえた。
事の始まりは彼のチームメイトであり、同じクラスの銀島くんの声だった。
「おおい角名!! しっかりせぇ!!」
校庭まで響く大声に、思わず「何かあったのかな」と足が止まる。気になってつい声をかけた。
「ああ、──か。見てくれ」
銀島くんが私に気づいて顎で足元を示す。視線を落とすと、そこには四つん這いで「しんどいぃ……むりぃ」と唸っている男子がいた。この暑さの中でジャージ姿。頬を汗がゆっくりと伝っている。
「角名くん、だよね? 大丈夫? 具合悪いの?」
「あぁ頭いたい……。寒いぃ……。目が回る〜」
訴えているのは熱中症というより低血糖に近い症状だ。どうしてこんな状態になるまで保健室に連れて行かなかったんだろう。血の気が迷子になった横顔を見ていられなくなって、私はその場に腰を落とし、手を差し出した。
「保健室行こう。立てる?」
「う〜ん……」
角名くんがうめきながら顔を上げる。細く切れ上がった瞳と目が合って、視界の端がきゅっと狭くなった気がした。思ったより顔が近い。
そのまま彼は私の手を取ってゆっくりと立ち上がる。視線で顔を追っているうちに、自然と顎が上がっていた。見上げた先の彼の表情はちょうど太陽と重なって逆光になり、よく見えなかった。
「おお、立てたか角名」
銀島くんがほっとしたように言う。
その声を聞いたとき、私は手のひらにじんわり滲んだ汗に気がついた。角名くんの手をまだ握ったままだった。
(いけない、握手会してる場合じゃない)
慌てて手を離し保健室へ促そうとした瞬間、銀島くんが焦った声を上げる。
「ほ、ほな角名! 北さんに見つかる前に戻るで!」
え、戻るの? と思う間もなく、角名くんがきゅっともう一度私の手を握り直した。
「へ……?」
咄嗟に彼を見上げると、「ん?」と首を少し傾けて柔らかな視線を向けてくる。
オリーブ色の瞳に私の顔が小さく映り込んでいた。そのことに気づいた瞬間、心臓が跳ねて「ひえぇっ」と情けない声を出しながら視線を逸らしてしまった。
耳がじん、と熱い。
彼の手が触れているところがくすぐったいように意識される。さっきより顔色は少し良くなっているように見えたけれど──。
「まだ休んでたほうが──ふわあっ!」
保健室の方向へ彼の手を引いた、その一歩目だった。
逆方向からぐいっと力がかかり、視界いっぱいに小豆色が広がる。
(なになになに!?)
頭の中が一気に騒がしくなる。
頬に当たる布の感触。
耳の近くでトコトコ鳴る心音。
肩と胴にかかる、優しい圧迫。
(角名くん……? え、なんで!?)
状況を理解した瞬間、指先まで血が駆け上がって、じんじんと熱を帯びていく。彼の腕の中にすっぽり収まっている。角名くんは私を抱きしめたまま深く息を吸い込み、吐き出した。
「はあぁ……生き返る……」
それが、さっきの言葉だ。
私はただ保健室に連れていこうとして手を貸しただけだ。こんな展開、これっぽっちも期待していなかった。こういうときどうするのが正解なんだろう。腕を回すべき? そっと離れるべき?
頭の中で選択肢だけが増えていくのに、実際に動くのは喉を鳴らすことくらいで、指一本まともに動かせない。
角名くんの心音を聞き続けていると、銀髪の青年──宮治くんの声が飛んできた。
「おーい、北さんが探しよったで」
その一言で抱きしめていた腕がほどかれる。
なぜだか少しだけ、名残惜しかった。
「じゃ、ありがとね。助かった」
角名くんはそれだけ言ってひらひらと手を振りながら体育館に戻っていく。私はその場に取り残されて、火照りを誤魔化すように銀島くんのほうを睨むと、
「スマン! もう戻らなアカンから、後で連絡するわ!」
と頭を下げ小走りで後を追っていった。
ああ、もう。なんだったの、これ。
「…………あつい」
蝉の鳴き声が耳に戻って来た瞬間、ぷしゅうと本当に顔から湯気が出そうだった。
◇
悶々とした気持ちを抱えたまま帰宅して、シャワーを浴びて、麦茶を飲む。ようやく頭が落ち着いてきた頃、銀島くんからメッセージが届いた。
彼曰く──『角名倫太郎という男は己に向けられた邪な感情を餌に生きながらえている』とのこと。
「なんじゃそりゃ」
思わず声に出してしまう。そんな淫魔みたいな生態の高校生がいるわけない。からかわれているような気がしてきて、ため息と一緒にスマホをベッドに放り投げた。
──邪な感情。
それってもしかして、私の?
「違う違う。私はただ困ってる人を助けただけ」
私の信条。人に親切にすれば自分にも良いことが返ってくる。そう、あれはただの『情け』。そういうことにしておきたかった。
「……………っ」
でも、確かに。
私を抱きしめたあとに見せた彼の顔を思い出してしまう。汗だくで四つん這いになっていたときとは別人みたいに、いつもの涼しげな表情を取り戻していた。
『──ありがとね』
ふいに胸の奥で、ドク、と心臓が跳ねる。
彼の腕の感触と体温が肩のあたりにじんわり残っている気がした。
あれはただ部活中に気分が悪くなった人を助けただけ、と頭ではそう言い聞かせる。けれど、背中のもっと奥で、彼の腕の重みだけが何度も蘇る。
(……確かに。邪といえば邪、だったかもしれない)
カーテンの隙間から差し込んだ夕陽が床の上に長く伸びていた。オレンジ色の帯を眺めながら私はそっと唇を噛む。
ほんの数分の出来事なのに、夏の熱そのものを閉じ込められたみたいだった。
◇
それから一週間が経った。
夏休みは中盤にさしかかり蝉の声も少し枯れてきた頃。昼下がりに家で宿題を広げていると、机の上のスマホが小さく震えた。画面には「銀島」の文字。
『悪いけど、ちょっと体育館来てくれへん?』
その文面を見ただけで胸の奥がざわりと揺れる。
嫌な予感、というより、何かが起こる予感に心臓のほうが先に反応してしまう感じ。案の定、体育館へ行ってみると角名くんはベンチで項垂れていた。
「すんません、また電池切れてもうて」
銀島くんが苦笑しながら頭をかく。角名くんは眉尻をゆるく下げ、うっすら笑って私を見上げた。
「……充電、お願いできる?」
「じゅうでん……」
私はモバイルバッテリーか?
心の中でツッコむ。少しだけ迷ってから「……お手柔らかに」と呟いて、そっと腕を広げる。
──よし、来い!
ぎゅっと目を閉じた瞬間、ぬるい夏の空気がすうっと動いた。背中に大きな手がふれる。
(あ……やばい)
体温が近づくほどに鼓動が早くなる。前に抱きしめられたときと同じ、少し甘いような汗の匂いが鼻先をかすめて呼吸が揺れた。
──ぎゅう。
肩を引き寄せられた瞬間、血が一気に耳まで昇る。柔らかいのにちゃんと力のある抱きしめ方だった。胸のあたりからふっと力が抜けていき、次の瞬間には全身が強張る。どうしていいか分からず、宙を泳ぐ自分の腕が情けない。
やがて角名くんはいつもの調子を取り戻した顔で腕をほどき「ありがと」と軽く手を振って体育館の中へ歩いていった。
銀島くんも「こんなことで呼び出して、スマンかった! でも助かったわ!」と爽やかに笑って後を追う。
私はまた一人だけその場に取り残されて、胸の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。心臓が破裂しないよう、押さえ込むみたいに。
(……勘弁してほしい)
分かっている。この騒がしさの正体は角名くんのせいじゃない。私の中で勝手に膨らんでいく、邪な感情のせいだ。それを“餌”にされるのは今日限りにしたい──本気でそう思った。
……思ったはずなのに。
三日後。
また銀島くんから連絡が来た。
『ごめんな、また死にかけてる』
その翌日も、そのまた翌日も。気づけば呼び出しはほぼ毎日になっていた。
ハグの時間は目に見えて長くなった。
最初は数秒だったのが、今では数十秒。そのあいだ、角名くんの掌はゆっくりと私の背中を撫でる。布越しに伝わってくる熱がじわじわと胸の奥に染み込んでくるようで、息が浅くなる。
ある日は頭をぽんぽんと軽く撫でられた。それだけで心臓が本気で悲鳴を上げた。
切れ長の瞳と目が合うたび、彼は少しだけ笑う。「なに?」と首を傾げる仕草は、まるで息の根を止めに来ているみたいだった。
また別の日の体育館前。
その日の角名くんはいつもと様子が違った。腕に力がなく、寄りかかってきた体温がやけに熱い。吐息が首筋をくすぐるたびに、背中の奥に何か重いものが沈んでいく。
「……ねぇ」
耳元にふっと声が落ちた。
「なんか、足りないかも」
なにが? と聞き返すより先に、こめかみに柔らかい感触が落ちた。
──唇だった。
触れたのか、触れていないのか、ぎりぎりのところをなぞるような曖昧な温度。その曖昧さだけが妙に長く残った。
ぽかんと固まっている私を見て、角名くんはいたずらっぽく笑う。
「うん。効いたかも」
「き、効くって……」
「ふっ。元気出た」
……ずるい。
口じゃないとはいえ、キスみたいなことをしておいてその笑顔は反則だ。
それから角名くんはハグだけじゃなく、髪やこめかみ、額にそっと唇を落とすようになった。触れるのは一瞬。音もない。
それなのに、そこだけいつまでも熱が冷めない。
触れられるたび、もっと触れてほしくなる。
胸の奥がむずむずして、呼吸がうまく掴めない。
やめなきゃいけないと思うのに、身体が先に期待してしまう。
(……これ、もう親切じゃない)
帰り道にふと悟った。
(……ああ、なるほど。これはもう、淫魔だ)
角名倫太郎という男は、人の欲とときめきを糧に生きる“淫魔”だ。そう決めつけてしまったほうが、妙にしっくりきて笑えてきた。
笑いながら、少しだけ胸が痛んだ。
夏休みが終わるまであと十日。
スマホの着信音が鳴るたびに胸の奥がざわつく。「もう呼ばないで」と言えれば、きっと楽になる。
でも──もし本当に呼ばれなくなったら、それはそれで寂しさでつぶれてしまいそうだった。
蝉の声が遠のき、窓の外に夕立の匂いが漂う。
胸のどこかで、夏の終わりと一緒に、理性の糸がほどけていく音がした。