淫魔みたいな生態をした角名くんの話

Chapter2

 新学期が始まった。
 まだ暑さの残る九月。体育館前には角名くんや宮兄弟目当ての女子たちが集まっている。
 開け放たれた扉から中を覗き込み、「キャー!」「見て、今スパイクした!」と声を上げている。
 その賑やかさを少し離れた場所から眺めていると、外に出た銀島くんが私を見つけてぱっと手を振りながら駆け寄ってきた。
「ほんま助かったわ、夏の間! 角名、ずっと元気やったで!」
「あ、うん……」
 笑って返しながらも胸の奥にひゅっと風が吹き抜けるような感覚があった。『助かった』──その言葉は間違っていない。
 でも、それだけなんだと思ったら少し息苦しくなる。
 視線を体育館のほうへ戻すと、角名くんが女子たちの視線を浴びながらいつもの気怠そうな表情で歩いていた。
 それなのにどこか満足げで。
 涼しい顔をしているくせに、口元がかすかに上がっている。肩に触れられたり、腕をつつかれたりしても嫌そうではなく、自然に受け入れているように見える。
(あぁ……そういうことか)
 女子たちの黄色い声と気軽なボディタッチ。
 ──きっとあれでも『充電』できるのだろう。
(まぁ……私も十分、『いい思い』させてもらったし)
 そう思えば割り切れる。むしろこのほうが楽だ。女子たちの嫉妬を浴びるより、ずっと健全。
 はあ、とひとつため息を吐く。
(こんな感情……ただの親切から始まったはずなのに)
 胸の奥が、しんと痛い。
 これではまるで──。

(……いけない。あれは人助けだから。それ以上なんて、望んじゃだめ)
 自分にそう言い聞かせる。
 ひと夏かぎりのモバイルバッテリーだったんだ、と自嘲気味に結論づける。視線をそらし、体育館から離れようとしたそのとき──
 背中をじりっと焼くような視線を感じて思わず振り返った。
 角名くんがこちらを見ていた……気がした。
 ほんの一瞬。
 でもすぐに何事もなかったように練習へ戻っていく。
(……気のせい、だよね)
 説明のつかないざわつきだけが胸の奥に残ったまま、私はその場を離れた。

 ◇

 翌週の放課後。
 昇降口に向かっていると、部室棟の前で足が止まった。
 角名くんがいた。
 いつもより少し息が荒くて眉間には深い皺。
 目が合った瞬間、水面から顔を上げたばかりの人みたいな、切迫した目でこちらへ歩いてくる。
「……ちょっと来て」
「え、ちょ──」
 言い終わるより早く手首を掴まれ、そのまま人気のない空き教室へと引き込まれる。扉が閉まった瞬間──。
「わっ……!」
 強く、抱きしめられた。
 夏よりも力がこもっている。乱暴と言ってもいいくらいに。胸に押しつけられた彼の息は熱くて、かすかに震えている。
「あぁ……生き返る〜……」
 夏と同じ言葉なのに、今はまったく違う意味で胸がざわついた。
(……また、こんなふうに抱きしめて)
 心臓が大きく鳴る。
 腕を回したくなる衝動が、じりじりと這い上がってくる。なのに同時に、怒りにも似た感情が胸を突いた。
(こっちの気も知らないで……)
 このざわつきはただのときめきじゃない。
 夏のあいだ、あれだけ近づいてきたのに──角名くんが何を考えているのか私には見えない。
 体育館で女子に囲まれていた姿が脳裏によみがえる。
(……私じゃなくてもいいんでしょ? じゃあ、なんでまた抱きしめてくるの?)
 苛立ちと期待がぐちゃぐちゃに絡まって、胸の中で渦を巻く。腕を振りほどこうとしたとき、角名くんの指先がわずかに震えた。
「……待って」
 いつもの眠そうな声じゃない。擦り切れたみたいな、追い詰められた声だった。
「このままじゃ……だめなんだよ」
 何が? と聞き返すより早く、顎をそっと持ち上げられる。その手つきは乱暴というよりも、不器用で迷っているようだった。
 次の瞬間、引き寄せられた顔の距離が一気にゼロになる。

 ──唇が、重なった。

「──っ!?」
 何が起きたのか分からない。
 ただ、柔らかい感触と、彼の呼吸の熱だけが鮮明に残った。もう一度近づいてこようとした彼の胸を、私は反射的に強く押し返した。
「もう……無理……!」
 そう言った瞬間、自分で自分に刃を向けたみたいに胸がひりつく。
 それでも他に言葉が見つからなかった。胸が痛くて、苦しくて、鼻の奥がツンとする。
 でもそれは、『嫌だったから』じゃない。
 彼に惹かれていた自分と、踏み込まれた恐怖と、期待してしまった自分への嫌悪が、一気に押し寄せたからだった。
 涙をこぼしたくなくて、まばたきを必死にこらえる。
 もう、どうしてほしいのか分からなかった。
 だから私は、その場から逃げた。

 ──それから距離を置いた。
 呼ばれても行かない。目が合ってもすぐに逸らす。近づいてくれば歩幅を広げて離れる。
 夏のあいだ、あんなに近かった距離が嘘みたいに遠くなった。でも、そうするしか方法がなかった。
 あのまま触れられ続けたら、きっと私はもう自分の気持ちを抑えられなくなる。
 通知を切ったスマホが机の上で静かにうつ伏せになっている。誰からも呼ばれないことは、本当は楽なはずなのに、やけに息苦しい。
(……なんでなの)
 伏せた画面を見つめながら、掌が微かに震えた。

 ◇

 角名くんを避けるようになって二週間ほど経った。
 はっきり「もう近づかないで」と言ったわけじゃない。ただ、廊下で呼び止められても「ごめん、急いでる」と言って逃げる。空気みたいに存在を薄くして、目に入らないようにして──その繰り返し。そうしているうちに向こうも深追いしてこなくなった。
 ──そう、思っていた。
 
 ある休み時間。
 教室でノートを鞄にしまっていると、銀島くんが肩で息をしながら飛び込んできた。
「なぁっ……頼む……! 角名が弱っとう。助けられへん?」
「……ひつまぶしでも取り寄せれば?」
 口をついて出た言葉が我ながらひねくれていると思う。でも、背中のあたりがざわざわして素直にはなれなかった。
「精力つくでしょ。うなぎ」
「いやいやいや! そんな次元ちゃうねんって! 角名が……お前がええ、言うんや……!」
 銀島くんの必死な顔を見た瞬間、胸の奥がぐらりと揺れた。
(私……が、いいって……?)
 期待が指先のほうまでじわっと波紋を広げる。
 けれど、すぐに冷たい理性がその上に蓋をした。
(だめだ。あの人は『淫魔』なんだ。搾取のために、そう言ってるだけ。──そう思っておかないと、また期待してしまう)
 そう思わないと自分を保てそうになかった。
「……ごめん。本当に、無理」
 銀島くんの表情がはっきりと曇る。でも、責めるようなことは言わなかった。
「そっか。わかった。無理言ってもうたな。……お前に甘えさせすぎたかもしれん。ごめんな」
 そのとき、背中のほうから刺すような視線を感じた。誰かがじっと見ている。
 ちらりと横目で確認すると、宮侑くんだった。いつもの騒がしさはなく、無言で睨んでいる。──「お前のせいや」と言うように。
 見なかったことにして、私は席を立つ。
「じゃ、移動教室だから……行くね」
 宮くんの視線が背中に突き刺さる感覚があったけれど、振り返らなかった。
 
 廊下は午後の光で少し白んでいる。
 視線の置き場に困りながら歩いていると、ふと、角名くんのクラスの前で足が止まった。
(……見ない。見ないほうがいい)
 頭では分かっているのに体が言うことを聞かない。つい、半分開いた扉から中を覗いてしまう。
 角名くんは机に突っ伏していた。
 宮治くんが隣で何か話しかけているのに、「うーん……」と生返事をしている。いつもの気怠さとは違い、肩が落ちて、呼吸のリズムまで少し遅く見えた。
 みぞおちのあたりが、ちくりと痛んだ。
 けれどすぐに「スナリーンだいじょうぶ〜?」「元気ないや〜ん」と近づいてきた女子たちが角名くんの肩をつついていた。彼は曖昧に微笑みながらも、その手を振り払おうとはしない。
(……見なければよかった)
 後悔が波のように押し寄せる。
 でも、今さら近づくことなんてできない。近づいたらまた元に戻ってしまう。
(今の私は……自分を保つだけで精一杯なんだから)
 歩き出した足取りは重くて少しだけ震えていた。
 夏の終わりの空気みたいに、心も身体もどこか冷えていた。

 ◇

 放課後。
 美化委員の活動で校庭の落ち葉を集めていたとき。
「……角名ァアアアアア!!」
 校舎の陰から宮侑くんの怒鳴り声が飛んできた。あまりの迫力に思わず顔を上げてしまう。
 ──しまった。
 宮くんと目が合った。
 次の瞬間、彼の眉がきゅっと吊り上がり、真っ直ぐにこちらへ向かってくる。
「来いや」
「えっ──ちょっ、宮くん!?」
 有無を言わせず手首を掴まれ、そのまま体育館まで引っ張られていく。
 裏口のところで、ジャージを肩にかけた角名くんがしゃがみ込んでいた。額に前髪が貼りつき、肩がゆっくり上下している。
 私に気づくと一瞬だけ目を見開いて、すぐにしゅん、と肩を落とした。
 子狐みたいな表情に胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
「角名、復活するまで戻ってくんなよ!! おいお前、分かっとんなぁ!?」
「いや、えと……」
「しんどいとか知らわ! こちとら春高の予選も近いねん。こいつが練習戻れるようにせえよ!!」
 怒鳴り散らすだけ怒鳴って、宮くんはズカズカと体育館へ戻っていった。
 残された空気だけがやけに静かだ。
 私は角名くんの前にしゃがみ込み、覗き込む。頬は少し青く、目元には疲労が滲んでいる。
「……だいじょうぶ?」
 声をかけると角名くんは唇を震わせ、小さな声で言った。
「……この間の、キス……。断りもなくして、ごめん」
 意外だった。気にも留めていないように見えていたから。
 切れ長の瞳が揺れてどこか縋るようにも見える。私も正直に言葉を探した。
「あのね……あの空き教室のとき、ちょっとだけ、怖かった、かも」
「うん。分かってる。……図々しかった。本当にごめん」
 甘えすぎたよね、と眉尻を下げて謝る声は、いつもののんびりした調子とは違っていた。
 それ以上きついことを言う気にはなれなくて、「仲直りしよう」と言いかけたところで彼が先に続けた。
「もう、誰かと話したり……触れられたり……そういうのじゃダメなんだよ。というか、食指が動かない」
(しょ、しょくし……? 食べ物なの?)
 本当に淫魔なのでは、と変な方向に納得しそうになる。
 呆れるべきなのか、心配すべきなのか分からず固まっていると、角名くんが真っ直ぐに言った。

「──ちゃん以外、無理」

 ドクン、と心臓が跳ねる。
 期待しないように必死で蓋をしてきたのに。その一言で胸の奥にしまっていた何かが崩れた。
 伸ばされた腕に引き寄せられる。抵抗する隙もなく胸の中で抱きしめられた。 
「ああ、もう……これ。──ちゃんがいい……」
 低い声が耳の後ろを撫でて、顔に一気に熱が上る。
 腕はまだ上手に動かせなくて、宙をさまよったまま。
 混乱する私を他所に、角名くんはぽつりと言う。
「……好きなんだよ、──ちゃんのこと」
 ぎゅうっと、さっきよりも強く抱きしめられた。
 どこからどこまでが自分の体なのか分からなくなるくらい、全身に熱が駆け巡る。
(どうしよう……。どうしよう……!)
 こんなに真っ直ぐ「好き」と言われるなんて思っていなくて、戸惑う。
 でも──嬉しい。
 それも、ごまかしようがないほどに。
 だけど、頭の片隅で疑問も浮かぶ。
 私はどこを好きになられたんだろう。どこに“食指”が動いたんだろう。ぐるぐる考えていると角名くんが続けた。
「……あの日、──ちゃんの手を握ってから、なんとなく予感はしてた」
 最初に『充電』した日を思い出す。
 何も知らずに、ただの親切心で差し出した手。
「握った瞬間、フワッとして……身体が軽くなった。それでなんでか……もっと触れたい、近くにいたいって思ったんだよ」
「角名くん……」
「あと反応がかわいかった。刺されちゃった」
「え、さ、刺された? ……蚊に?」
「フッ、──ちゃん以外いないでしょ」
 おかしいな。ナイフを突き立てた記憶はないんだけど。
 フフ、と笑いが零れた瞬間、張り詰めていた空気に少しだけ隙間ができた。鶯色の瞳からとろりとした視線が注がれてきて、擽ったいけれど、今度は目を逸らさなかった。

 ──情けは人の為ならず。
 胸の奥にその言葉がふっと浮かぶ。
 あの日の小さな親切がこんなふうに返ってくるなんて、誰が想像しただろう。
 邪な感情を喰らう淫魔──なんて思っていた自分が少し恥ずかしくなった。
 この人はただ敏感なだけだ。他人の好意や感情に。
 それと……超甘えん坊。
「今度のオフ、二人で出かけない?
 ──ちゃんにも……俺のこと、好きになってもらいたい」
 眉尻を下げて、目を細めて笑う。
 そんな顔で見つめられて断れる人なんているんだろうか。
(もうとっくに好きだよ……)
 心の中でだけ小さく答える。
 でも、散々振り回されてきたんだ。ここで素直に「うん」と言うのは、なんだか悔しい。
「……考えとく」
 そう言うと、角名くんはそっと私の頬に触れた。
「……もう好きだったら、嬉しいけど」
 ゆっくり瞬きしながら笑う顔が、あまりにも綺麗で、甘くて、心臓に悪い。
(うわ……ずるい……)
 さすが淫魔、と不意に思ったけれど、この擽ったさがたまらなかった。
 
「ねえ、……もうちょっといい?」
 角名くんがそう尋ねてくる。
 息を呑んでから、小さく頷いた。
「……うん」
 その瞬間、もう一度腕の中に引き寄せられる。
 戻らなくていいの? と聞きたくなったけれど、聞かなかった。聞いたら、ほどけてしまいそうだったから。
 今度は私のほうからそっと背中に腕を回した。角名くんの肩がぴくっと跳ねて、抱きしめる力が少し強くなった。

 胸に耳を押し当てて、彼の体温の中で目を閉じる。
 トコトコと鳴る心音が驚くほど心地いい。

 正直、身に余るような果報だと思う。
 でも──この音を聞いていると、素直にそれを受け取ってもいいのかもしれないと思えてくる。
 夏の間ずっと逃げていた答えをだすように、私は小豆色のジャージをぎゅっと掴んだ。
 夏が終わった校庭に、やわらかな風が通り抜ける。
 蝉の声は遠ざかり、空には少しだけ秋の色が混じり始めていた。
 抱きしめ合うたび、ジャージと制服が擦れ合う小さな音だけが静かな夕方の空気に、そっと重なっていた。