五つ年下の北信介に叱咤される話

『白い光に目を細める』

Chapter1

「なんやまた来てたんか」
 社会人一年目。道端には落ち葉が広がり、木々の間には乾いた風が吹いている。冬の始まり。
 仕事帰りに親友の家で晩ご飯をご馳走になっていた。彼女のおばあちゃんが作った豆腐ハンバーグをパクっと一口含んだ瞬間、その呆れを含んだ声は飛んできた。急いで咀嚼し、ゴクッとハンバーグを胃に落とす。
「信ちゃんおかえりー!」
「おかえりやあらへんわ」
 親友の弟。──北信介。
 相変わらず中性的で、端正な顔立ちをしている。鋭さと静けさを併せ持つ瞳を、僅かに顰める。
「最近よう来るなあ」
「私が呼んでんねん。聞いてほしい話あって」
「………今日は声抑えや。近所迷惑なるで」
「はいはい。気をつけます」
 みそ汁を啜りながらそのやりとりを眺める。姉弟の会話。同じ琥珀色の瞳を、一方は見上げ、もう一方は見下ろしている。
 親友から「はい」と渡された、よく冷えた缶ビールを「ありがと」と言いながら、ぷしゅ、と開ける。
 くぴ、と喉に流し込みながら(信ちゃん、大きなったなあ)としみじみ思う。もちろん背丈や顔つきだけではない。
「はよ帰りや。もう道暗かったで」
「自分ら何でも明け透けに話しすぎや。俺もおんのに」
「明日も仕事やろ? 飲みすぎなや」
 割と親しい存在とは言え、こんな調子で年上相手に気遣いやら小言やらを言うことができる。
 五つ年下のこの男の子はもう高校三年生。
 「ほら! 歯抜けてん!」と乳歯が抜けた箇所を指差しながら、無邪気に報告してきた頃とは随分変わった。今やバレー強豪校の主将として、『ミスター隙無し』と後輩達からは恐れられているらしい。
「なあ」
 おばあちゃんが盛りつけたご飯茶碗を受け取りながら、信ちゃんが私に声をかける。
 
「練習してへんの?」
 
 ピタリ。
 粒が立ったほかほかのご飯を口に含む直前で、箸が止まる。空気がシン、と一瞬で冷えたが、彼は意に介さず真っ直ぐにこちらを見ている。
 高校卒業と同時にやめたダンスのことだ。この子は未だに、なぜやめたのか、もう踊らないのかと訊いてくる。
 信ちゃんにはやめた理由を説明している。単にダンスの道を歩むつもりはなかったから。と。
(目ぇ綺麗やな、ほんま……)
 卒業を機に、何かをやめることはたいして珍しいことではない。
 そんなに気に入っていたのだろうか。
 ──信ちゃんが、私のダンスを? それはない気がする。才能なかったし。
 ふっ、とわらう。
「その予定はないなぁ、もう」
 ご期待に添えられず……、と少し冗談めいた口調で続けると、「予定、か」と呟いた。箸を持ち、続ける。
「前もそう言うてた。……その前も」
 チクリ。
 喉の奥に小骨が刺さったかのような、小さな痛み。
「何が言いたい? しつこない?」そう言いかけて、やめる。言葉を発せば必ず何か返ってくるだろう。ピカピカのグローブをつけて。けれど、殴り合う趣味はないし、相手は高校生だ。私は、大人。
 これ以上何か言う必要はない。
「ご飯冷めるで。はよ食べよ!」
 箸に乗ったままだった白米を食べる。
 信ちゃんはまだ何か言いたそうにしていたけど、私が目を合わせないことに何かを察したのか、視線をハンバーグに落とし、箸で切ったそれを口に含んだ。綺麗に生え変わった歯でもぐもぐと静かに咀嚼する。
 ──『よく噛んで食べましょう』
 いつかの大人の声か、ポスターかが脳裏をよぎる。乳歯が抜ける前から「ちゃんと」守り続けている、信ちゃんの習慣の一つ。
 その姿が時々、喉の奥や心臓に“刺さる”。時にはぐさりと深く、抉られる。
「ばあちゃん、うまいわ」
「ほんま〜? ありがとう信ちゃん」
 孫からの褒め言葉に、にこにこと答えるおばあちゃんの柔らかい声が場の空気をじんわりと温める。
「お豆腐がええやつやからなあ」
 今度は私に向かって、にこりと微笑んだ。
 その笑顔に、こちらも微笑み返す。
「ほんまにおいしい……」
 しみじみと。湯呑みのお茶を飲んでから、優しい味付けのハンバーグを口に含む。次は甘辛く煮られた、いかなごの釘煮に箸を伸ばした。

 
 ◇◆◇◆◇

 息を吐くと白い霧がふわりと浮かんで、すぐに消えた。
 ひびの入った塀の中。かじかんだ指先で引き戸をつかむ。木が鳴って、すべり止めの金具が微かに軋む。空気の層が入れ替わるように、外の冷気が背中を押した。
「ただいま」
「兄ちゃん、おかえり」
 返事を返したのは弟のみ。──ということは。
 手洗いうがいを済ませてから居間に入ると、案の定こたつが占領されていた。
 姉ちゃんと、その親友。よく家に来る会社帰りのその人は、スーツのジャケットを脱いで、シャツのボタンは二つ外れて、今日はみかんを肴に酒盛りしていた。一緒に茶を飲んでたばあちゃんだけが、俺に気づいてゆっくり立ち上がる。
「課長がさあ、ほんま話聞かへんねん」
「うちの上司も似たようなもんよ。男社会すぎて笑う」
 そのやり取りを、俺は何も言わずに眺める。
 平日の夜に堂々とこたつに埋もれて、他愛もない話で盛り上がる、社会に出たばっかりの人たち。
 何本目かの缶チューハイを喉に流し込んで「もう飲まなやってられんわ」と笑う姿を見て、「なんかちゃうな」と思った。
 別に嫌とかそういうんやない。ただ、記憶にある“あの人”と今目の前にいる“この人”が、少しだけ違う人間みたいやなって、それだけ。
「信ちゃんもご飯食べえ」
「おん」
 ばあちゃんが促す。今日も丹精込めて作られた食事を前に「いただきます」と手をあわせる。
 白米を一口含む。よく噛むと、口の中に甘みが広がる。
 もぐ、もぐ、もぐ。
 ──小学生の頃。
 姉ちゃんに連れられて、近所のホールでダンスのイベントを観に行ったことがある。町の商店街主催で、そこに出てたチームの中にあの人はいた。髪を高く結んで、きらきらした衣装を着て、しゃんと背筋を伸ばして踊ってた。
 ──今も忘れてへん。
 ダンスなんてよう分からんけど、リズムが身体に流れてて、動きに迷いがなくて。ただ立ってるだけでも、強い光を浴びてるみたいに思えた。
 姉ちゃんが得意そうに言った。
「私の親友、すごいやろ」
 ふふん、って感じで鼻を鳴らすその顔は、どこか自分のことみたいに誇らしげで。
 俺はただ、「かっこええな」って答えるしかなかった。
 そのことを後であの人に伝えると「やろ? めっちゃ練習してんもん!」って笑って、俺の頭をくしゃくしゃに撫でてきた。
 子ども扱いされたことに、少しムッとしたのを覚えてる。
 けどそれよりも、その時の手の温度と、年上の女の人が放つ“完成された感じ”に、ただただ圧倒された。
 
「信ちゃん、味どない? 濃いないか?」
 
 ばあちゃんの声掛けに、パチっと目を瞬かせる。
「……ちょうどええよ。うまい」
「ああよかった〜!おかわりあるからなあ」
 朗らかに声を弾ませるばあちゃんが、正面に座って微笑んでいる。目元の皺が少し、増えた気がする。
 ──あの日から、もう何年も経った。
 高校三年生の冬。もうすぐ春高の全国大会。
 夏のインターハイでは準優勝という成績を収めた。母校はもちろん、応援団のオッサンらが「ようやった!」と盛り上がとった。
 今回も「優勝」への期待値は大きい。
 でも俺の中で「結果」は、勝手についてくるもんでしかない。大事なんは、その手前にある、積み重ねる毎日。
『ダンスで食べてくって決めてた訳でもないねん』
 あの人がふと漏らした言葉が、ずっと頭の奥に残ってる。
 俺も同じようなことを思ったことがあるからわかる気がした。きっとこの人も今の自分の在り方を、ちゃんと“結果”として受け止めてる。
 仕事して、友達と笑って、こたつで酒飲んで。それはそれで、間違ってないはずや。けど、なんでやろな。
 たまに、ふとした瞬間に思う。
 またあの時の彼女に、会えたらええのに。
 しゃんと背筋を伸ばして、まっすぐ前を見てた、“あの人”に。
 それがどんだけ勝手な思いかわかっとるし、今目の前におる彼女を否定したいわけでもない。
 あの日、姉ちゃんが自慢げに笑った理由を、俺は、あの時より今の方がわかっとる。頼もしい同期に、バケモンみたいな後輩らを見てたら同じように言いたなる。
 ──『すごいやろ』
 
 今のあの人には、言えん。