五つ年下の北信介に叱咤される話

Chapter4

「暖冬や言うても、風は冷たいな」
 信ちゃんと並んで歩く。歩道の端に、乾いた葉っぱが集まって、風が通るたびにぱらぱらと音を立てた。
「楽しかったか」
 その声が、横から落ちてくる。
「うん。友達がアトラクション好きな子でな、ほとんど並びっぱなしやった」
「ほお」
「どれも一時間は並んだけど、話題が尽きんくて、一瞬やったわ」
「そおか」
「今度みんなで行こか。信ちゃんの卒業祝いも兼ねて」
「気ぃ早いわ」
 少し笑いながら返す。でも、その笑いは空気の上だけをなぞって落ちた。さっきから、信ちゃんの返事が短い。一音ごとに、切り口が冷たい。
「ユニバやったら……」
 信ちゃんが続ける。
「パレードもあるやろ」
「あるで。行ったことあったんや」
「そらあるわ。三年らでオフの日に行った」
「ふふ、ええやん」
 耳つきのカチューシャをつけた信ちゃんを想像して、思わず口元がゆるんだ。けれど、次の瞬間。
「パレード」
 足音が止まる。信ちゃんが、まっすぐこっちを見る。
「……パレードがなに?」
「踊っとる人ら見て、何も思わんかったんか」
 少しの沈黙。
 冬の空気が、喉をすべるみたいに冷たい。
「ああ、そういう話か」
 胸の奥で小さくため息が落ちる。
「私は才能なかったからなあ。比べるんも失礼やわ」
 笑ってごまかした。けれど、その笑いは頬の上でこわれて、どこにも届かなかった。

 
「──ええ加減にしいや」

 
 キン、と心臓に何かが刺さった。
 声の温度は低いのに、瞳の奥が熱い。怒ってる、というより、抑えているような。
「ほんまに、もうええん?」
 信ちゃんが問う。
「アンタ、一度も“終わった”とは言ってへんやろ」
 息が詰まった。
 どうしてそこまで見抜かれるんだろう。
 確かに、言ってなかった。
 終わったとは。
 ただ、流れるままに置き去りにしてきただけ。
 信ちゃんの目が、街灯の下で光る。そのまなざしに射抜かれて、胸の奥がちりちりと痛んだ。
 黙るのはもう限界だと思った。この子にまで嘘をつくのは、さすがにしんどい。
「信ちゃん、あのな──」
 息を整えて、話し始める。

 高校三年の秋。オーディションを受けた。
 強い願いがあったわけじゃない。ただ、長く踊ってきたから、もしかしたら、と思っただけ。
 一次、二次と通って、最終審査。
 無機質な白い部屋の中で踊りきったときは、ちゃんと手応えがあった。呼吸を整えながら、審査員の反応を見た。
 瞬間、背筋が凍る。
 そこにいた審査員の数人は、頬杖をついたまま鼻で笑い、意味深な目配せをしながら笑っていた。
(あ、これ……)
 アカンわ、と警報が鳴った。
 中学時代に味わった不快感に再び襲われた。
 あの冷笑を──あの無言の嘲りに潜む意味を知っている。
 足の裏は確かに床を踏んでいるのに、感覚がない。
「結果は追って連絡しますね」
 審査員の一人がニコリと微笑み、退室を促す。踊りきった後、その人が数名と目配せしあい、小さく首を振っていた瞬間を、私は見ていた。
 笑顔を張り付ける大人たちの顔を見て、脱力した。
 あの空気に、二度と戻りたくなかった。

「……だから、連絡が来る前に辞退してん」

 信ちゃんを見た。
 表情は動かない。何を考えてるのか、読めない。けど、瞳だけが、静かに揺れた。
 ふっと笑ってしまった。
 
 わからんやろ、信ちゃんには。

 数拍置いて、彼が口を開く。
「結果が出る前に、やめたん?」
 その声は静かで、波が引くみたいに淡々としていた。
「それ、やめたんちゃう。逃げたんや」
 ああ、やっぱり。そう言うと思った。
「力試しやったんなら、結果聞いてから辞退してもよかったやろ」
「……」
「積み重ねてきたもんを、そんなあっさり手放してええんか」
 ──全然あっさりやないんやけど。
 そう思ったけど、口にできなかった。
 信ちゃんは目を逸らさない。わたしの中のどろどろしたものを、逃がさず掬おうとしてくる。
 まっすぐで、まぶしくて、痛い。
「審査員が嫌やったんなら、他の受けたらよかったやん」
 簡単に言う。でも、それができるほど強くはなかった。
 折れたんだと思う。ぽきっと、小さな音を立てて。
 私はまだ、終われてない。ほんとは。
 やめたくてやめたわけでもない。
 信ちゃんの言葉は正しい。だからこそ痛い。
 毎日を“ちゃんと”こなしてきた人間のまっすぐさが、こっちの不格好な部分を、照らしすぎる。
 その眩しさに、少しだけ、泣きそうになった。
 
 ちゃんと受け止めるべきなのに。
 そう思いながら、私は自販機の明かりの前で立ち止まっていた。
「なんか飲もか」
 小銭を入れる音が、冷たい夜気の中で乾いた。
 ココアを二本買う。一本を信ちゃんに渡す。指先が少し震えていた。プルタブを引く音が、やけに大きく響く。
「信ちゃんの言う通りや」
 自分の声が、どこか遠くから聞こえた。
「結果を聞くんが、怖かってん。『あなたはここにはいりません』って言われるのが」
 缶の口を少しだけ開けて、湯気を吸い込む。甘いにおいが喉を抜けても、胸の中はまだ冷たいままだった。
「でもな、信ちゃん。私はあのときの自分を守ったとも思ってる。弱かったから。折れて、もう立たれへんくなる気がして」
 信ちゃんは黙っていた。
 街灯の下、缶を握る指の節が、白く浮かんでいた。
「ほんで、今は?」
 短い問い。逃げ道をくれない声。
「……もう、ええと思う」
 白い息がゆっくりと空にほどけていく。
「未練はあるけど、もう戻られへん場所や。だから、やめる」
 言葉にした瞬間、胸の中で何かが、ふっと静かに沈んだ。
 それは“終わり”というより、“決着”に近い感覚だった。
 信ちゃんは、細めた目で私を見ていた。何も言わず、ゆっくりとココアを傾ける。金属が口元に触れる音が、やけにやさしかった。
「……そおか」
 たったそれだけ言って、少し間をおいた。
 遠くでカサカサとビニールが転がる音。夜風が、足もとを撫でる。

「俺な」
 声が低く落ちた。
「小学生んとき、姉ちゃんに連れられて行ったんや。商店街のホール」
 振り向くと、信ちゃんはまっすぐにこちらを見ていた。街灯の光を受けて、瞳の奥がすこし揺れている。
「アンタ、踊っとった。堂々と。あのときのこと、忘れられへん」
「……覚えてたんや」
「あれ、光みたいやった。強くて、まぶしかった。姉ちゃんが“すごいやろ”って言うのも分かった」
 息が白く揺れた。
「……もう一回、あの“アンタ”に会いたいと思ってた」
 言葉が、胸の奥でゆっくり溶けた。でも彼は、それ以上は言わなかった。
「けど、終わりなんやったら、しゃあないな」
 そう言って、少し笑った。その笑い方が、どうしようもなく優しくて、胸の奥が、きゅっと詰まった。

「お疲れさん」

 ぽつりと、信ちゃんが言った。
「……え?」
「終わるんやろ? ほな、お疲れ様や」
 その瞬間、胸の奥に熱が広がった。視界が滲んで、ココアの缶の文字が霞んだ。
 誰にも言われなかった言葉。
 “お疲れさま”の一言が、こんなに温かいなんて。
「ありがとう」
 涙を拭いながら笑うと、信ちゃんもふっと口元を緩めた。
 風が通り抜けて、冬の匂いがした。
 帰ろか、と言いかけたとき、信ちゃんが少しだけ目を逸らした。

「あとな」
「ん?」
「こたつでだらけるんはもうええけど──」
 一拍、息を整えるようにしてから、
 
「ボタンはちゃんと閉めてくれ」

 頬が、かすかに赤かった。
 意味がわからず、ハッとして顔を上げる。頭の中で、北家の居間の記憶がよみがえる。無防備にくつろいでいた自分の姿。
 もうすっかり慣れてしまって、なんとも思っていなかった。
 けれど、目の前の男の子はちゃんとお年頃で。

「ちゃ、ちゃっかり……!」
「何がちゃっかりや」
 少しだけ声が低くなる。
「……俺かて男やねんで。気ぃつけや」

 風の温度が、急に熱を帯びた。
 笑ってごまかすしかなかった。
「あっはは……気ぃつけます」

 信ちゃんは前を向いて歩き出す。
 その背中を見ながら、私はココアの缶を握った。
 湯気はもう消えていたけど、手のひらの内側だけが、まだ温かかった。

 あの夜から、風の匂いを思い出すたびに、少しだけ胸の奥が温かくなる。
 終わりにしたはずのことが、やっと“終われた”夜だったのかもしれない。