『残暑にお見舞いされる』
東京の暮らしに、区切りをつけた。戻ってきた宮城の空は、思っていたよりも高くて、思っていたよりも静かだった。私がここへ戻ってきたのは、家業を継ぐためだった。不動産の大家業を営む家に生まれ、一人娘としての選択肢はいつの間にか“決定”に変わっていた。
戻って間もなく、親戚の葬儀があった。冬の乾いた風が吹く式場で、黒い服を着たセレモニースタッフの中に、妙に目を引く背の高い男性が立っていた。何かを見送るように静かに立っていたその人の横顔に、私の記憶の底がざわついた。
霊柩車が動き出すそのとき、背後から声がした。
「──さん、だよね?」
声に振り向いた瞬間、時間が巻き戻されたような気がした。あの頃と変わらない、でも少し低くなった気もする声。呼吸が一瞬、止まった。
「え、あ、やっぱり松川くん?」
高校時代の同級生。松川一静。まさか、こんな場所で再会するとは。
帰り道。スマホを弄りながら、確かバレー部だったっけ?と考えながら歩いていると、手元からスマホがするりと落ち、足元からはバキっという鈍い音がした。
◇
数日後、子どもを連れた旧友とランチを終えた帰り道。信号待ちの向こうに、また松川くんがいた。
「一人?」
「うん。友達とランチした帰り」
「時間ある?」
そんなふうに、自然に誘われた。
彼の雰囲気そのものなカフェに入る。温かみのあるレンガの壁と、落ち着いたモノクロの写真が、静かなリズムを作っていた。
壁際には長く続くブラウンのレザーベンチシートが据えられており、木目のしっかりとしたテーブルが一定の間隔で並べられている。私はその前に控えるアイアンフレームの椅子に腰掛けた。
彼は「ソファじゃなくていいの?」と訊く。私は「あー、こっちが好きなの」と答えた。三十歳ともなれば、それなりに処世術が身につく。
話題はすぐに高校時代に戻って、主に及川くんの話で笑いが止まらなくなる。特に、全員が餞別の品に正露丸を贈った話がツボに入ってしまった。
ふと、ちらり、と彼の左手の薬指を見てしまった。あ、と思ってすぐに逸らしたが、松川くんは「大丈夫。独身」と左手をパーにしてひらひらと動かしておどけてみせた。バレてしまった気恥ずかしさと、小さな安堵に胸が疼く。
もやもやと次の言葉を探していると、彼が話題を変えてくれた。
「そのスマホ、ちょっと古い?」
私のスマホを指差して言う。
「ああ、代替機なんだ」
湯船で弄ってたら水没しちゃって、と咄嗟に答えてしまった。あなたのことを考えてたら落としました、とは言えなくて。
彼はふうん、と頷いた後で頬杖をつき、代替機を見つめながら何かを呟いていたが、よく聴き取れなかった。
「じゃ、ありがとね」
手を振って別れる瞬間、じんわり胸の奥が温かくなった。よかった。彼は、安全な世界にいる人だ。
十年以上も会っていなかった同級生。さらにお互いに独身。恋人もいない。これから、何かしらロマンスがあってもいいのでは?とほんのりと期待しながら実家への帰路につく。
母の手料理を食べ終えた夜、洗い物の途中にスマホが鳴った。
表示された名前に、胸が少しだけ高鳴った。
『今から飲みに行かない?』
昼にコーヒーを飲んだばかりだ。駆け引きって知ってる?と言い返そうと思ったが、私の中に燻る何かが顔を出し「行けるよ」とだけ答えた。電話を切って、ふっと口元が綻ぶ。
どうやら、冬の夕暮れが駆け足で夜を呼ぶように、私たちのロマンスも同じ早さで進むようだ。
待ち合わせた店は、小洒落たカフェ&バーだった。高校時代にはなかった店だ。
カウンター席に隣同士。珍しい銘柄のウイスキーをロックで注文する彼に、この先の展開を予感する。
「一口飲んでみなよ」
薄暗い空間。キャンドルの灯りに照らされた黒目がこちらを向く。
差し出されたグラスが傾き、カラ、と鳴る氷の音を皮切りに、いとも簡単に「昔の二人」から「今のふたり」になった。
大人になると、間に余白がない。恋が始まる前に、夜が始まる。
私を見下ろし、顔を歪ませる松川くんは何度も名前を呼ぼうとする。けれど、その度に歯を食いしばり、絡めた指に力を込めて、目を閉じていた。
私が彼を見下ろすと「綺麗だね」とか「こっち、見て」とか、年相応の余裕を漂わせながら、甘い疼きと震えを何度も誘ってきた。
こんな熱帯夜を過ごすのはいつぶりだろう。
彼が「顔……よく見せて」と喉仏を震わせながら、汗で貼り付く前髪を掻き分けてくれた。
翌朝。見慣れない天井。
彼がひょこりと顔を覗かせ『おはよう、もうちょっと寝てな』と優しく髪を撫でてキスをしてくれる──なんて。
昨晩の夢心地の続きを一瞬だけ想像したが、隣から漂うウイスキーの香りが残る寝息と、場所をとる背中に、そんなものはフィクションなのだと思い知る。シーツの乱れたベッド端で目を覚ましながら、自分の中の“現実”を確かめていた。
──これは恋じゃない。
間違いじゃないけれど、始まりでもない。
母がよく言っていた。「早く孫の顔を見せてよ」と。それとは真逆の選択をした私に、なんだか少しだけ笑ってしまう。
もぞもぞと寝返りをうつ隣人。
「………ん?」
視線をやり、気づく。眠る目元が赤い。頬に乾いた涙の痕。ギョ、と背筋を撫でる冷たい感覚が走ったが、彼は葬儀屋だった。夢の中で何かを見たのだろうと、自分に言い聞かせた。
それでも、胸の奥で何かが囁いていた。
これっきりのほうが、いいかもしれない。
『昨日はありがとう。お酒詳しいんだね。また機会があればよろしくね』
メッセージはそっけなく。ホテルのことにも触れず、未来にも触れない。送信ボタンを押したあと、自分で「脈ナシすぎ」と小さく笑った。足の早いロマンスは、傷むのも早いのだ。
◇
季節が二つ、過ぎた。
新品同様の姿で返ってきたスマホの画面片隅には、すでにほんの小さなヒビが入っていた。(いつ落とした……)とショックを受けていた午後。SNSの友人のアイコンを見て思わず呟いていた。
「やっぱ、婚活するかぁ……」
両親は私が帰るやいなや、早々に仕事をリタイアし、長野に移住している。東京では気づかなかった孤独の重さが、この土地では形を持って迫ってくる。同級生の多くは家庭を持ち、家を建てている。私ひとりだけが、取り残されたような気がした。
ふと思い浮かんだのは、松川くんの顔だった。
だめだめ。やめとこ。
思考を振り払うように首を振る。けれど、“葬儀屋 年収”でググってしまった。あんな失礼なメッセージを送っていながら、勝手というか、傲慢というか。
すぐそばの扇風機に向かって「あーーー」と声をだした。子供の頃のように。
その晩、久しぶりに開かれたオンライン飲み会。高校時代の仲間たちが次々と落ちていき、気づけば画面に残っていたのは、松川くんの元チームメイト・花巻と私だけだった。
『まっつんはな〜、婚活相手には向かねぇかもな〜』
ぽろりとこぼれた言葉に、心が静かに反応する。彼の涙の痕を思い出す。
「やっぱ訳あり?」
『訳あり』
即答。その一言で、何かが決まったような気がした。けれど、花巻は続けた。
『でも、お前を誘う理由は……なんとなく、分かる』
「えぇ…?」
詳しく聞く前に、話題は軽く変えられた。
『つかさー、不動産経営、いいじゃん。俺雇ってくれよ』
「ぬらりひょんの採用枠はないよ」
『それ誰から聞いた!?』
冗談を言い合い、笑う。けれど言葉とは裏腹に、“誘う理由”という響きが、じんわりと心に残った。
数日後、松川くんから連絡があった。──花巻と、話したんだろうな。そんな確信があった。
再び訪れた、あのカフェ&バー。
のこのこと誘いに応じたのは彼の持つ『訳』とやらを確かめるためだ。あの時の涙はあくびの跡で、実はバツがついてるとか、実はギャンブル依存とか、そんな感じかもしれない。
どれならまだ許容範囲か……と考えながら彼を待つ。先にカウンターに座って、おすすめのカクテルをオーダーする。
「お待たせ」
ごめんね遅くなって、という声に振り返る。ポロシャツ姿の松川くんがそこにいた。
「テキーラサンセットです」
バーテンダーが、この時期にピッタリな赤みがかったオレンジ色のカクテルを差し出す。それを受け取りながら訊く。
「花巻に何か言われたでしょ?」
「バレた?」
そうやって笑い合えることが、なぜか少し嬉しかったし、ホッとした。
高校の話をしながら、あの夜のことにも少しだけ触れた。けれど喉の奥まで上がってくる質問──
「あの日、なんで泣いてたの?」
だけは、どうしても言葉にならなかった。
「……その仕草」
松川くんが呟いた。
「結構好き」
「ただオリーブ食べただけだよ?」
「ピック刺す時の指が、綺麗だった」
言いながらグラスを傾ける。今日は焼酎を頼んでいた。透明な液体の中で大ぶりの氷がゴロ、と音を立てる。
指か……、と手のひらをグーパーしていると、松川くんは「それも、いいね」と笑っていた。
今夜はホテルではなく、鈴虫の鳴く公園を歩いた。ふわふわとした頭と、薄桃色に染まる頬を、熱を含んだぬるい風が撫でる。
「夜もまだ暑いね」
「コーヒーでも飲もうか」
自販機で缶コーヒーを二つ。ベンチに並んで腰を下ろす。缶の冷たさが、少しだけ現実に戻してくれる。
「ちょっと、重い話してもいい?」
聞いてほしい、と顔を覗き込まれる。
松川くんは、深く息を吸い、肺の中で温めた後、ゆっくりと吐き出した。
その様子にゴクリ、と自分の喉が鳴る。
「結婚する予定だったんだ」
つぅ、と額から汗が滴り、頭の中でぱちんと水風船が割れる音がする。
静かに、彼が話しを続ける。
大学からの恋人。社会人4年目にプロポーズ。全てが順調だった。
秋の日。レストランで両家顔合わせの日取りを決めた。その日は当直勤務だったから、帰りは婚約者と別の方向に車を走らせた。
そして彼女は、酒気帯び運転のトラックに轢かれ、帰らぬ人となった。
松川くんが唇を噛む。視線を逸らした私に、彼の声が重なる。
「家族の連絡先を知らなくて、訃報すら無かった」
音信不通の日々の中で“まさか”と嫌な予感がよぎる頃──
職場の葬儀予定表でその名前を見た。
“まさか”が、“現実”になった瞬間。
従業員として、その葬儀に立ち会った。耳鳴りが続いて、経を読み上げる声も聴こえなかった。
「家族の顔を、あんな形で初めて見ることになるなんてさ」
線香を上げることすらできなかった。何も受け入れることができなくて、と彼は言った。
私はただ、黙って聴くしかなかった。痛みと、喪失と、言葉にならないもの。
そして、理解した。彼が私に、何を求めているのかも。
「なんで、君に話したと思う?」
松川くんが息を吐き、私を見た。だから先に言いかけた。
何も言わないで、と。
けれど彼が、先に口を開いた。
「似てるんだよね、──さんに」
ああ……。
耳の奥を埋めていた虫の声が、ぴたりと止んだ。
夜の公園に、風の音すら消える。
背筋をなぞるような、電気のような、得も言われない感覚が這い登る。
ボトン、と音がした。
デニムのポケットから自分のスマホが落ちていた。
松川くんは再会後、貸与された代替機を見つめながら、こう呟いていたんだ。
『君みたいだね』
訳あり。これが。
胸の内で静かに何かが剥がれ落ちていく。
“私”が、“私”でなくてもいいのだと──
そんな錯覚が、残暑の気に紛れて残った。