Chapter3
玄関の戸が、きぃ、と音を立てて閉まった。ストーブの上のやかんがふっと湯気を揺らす。振り返ると、ばあちゃんが手提げ袋を下げて立っていた。
「信ちゃん、ただいま〜」
「おかえり。どやった、おいなり」
そう訊くと、ばあちゃんは一拍置いて、小さく唇を尖らせた。
「今日はなかったんよ〜。──ちゃんが店番してたんやけどなあ、お母さんぎっくり腰で寝てるらしいわ」
そう言いながら、手提げ袋の中から豆腐を取り出す。その動きがひと呼吸分止まり、すぐまた綻んだ。
「でもな、できたての豆乳、出してくれてんで。あったかくてなあ、ほわ〜っとしてて。ほんま、優しい子や」
袋を丁寧に折りたたみながら、ぽつりと続ける。
「昔っから、そうやった」
──昔っから。
ぐぐ。
言葉が、胸のどっかに引っかかる。口に出すには小さすぎて、けど飲み込むには重くて、喉の奥でとどまる感覚。
コタツでだらんとする、服装まで緩みきったあの人の姿が脳裏に浮かぶ。
「そうそう。テレビでな、『けーぽっぷあいどる』が踊っててな、──ちゃんがそれ見ながらおんなじように踊ってくれてん。店ん中やからな、お手々だけやったけどなあ。上手やったわあ〜」
ばあちゃんが、思い出しながら嬉しそうに報告してくれる。
なんでやろか。妙にもどかしい。
(やめたって言うてたのにな)
湯気が鼻に当たる。温度のせいか、胸の奥が熱くなる。
ストーブの上に置いたやかんが、ぽこ、ぽこ、と音を立てはじめる。熱でゆらゆらと歪む空気の向こう、ばあちゃんの後ろ姿が少し揺れて見えた。
その揺らぎと同じように、俺の胸の奥も、ゆら、と波打った。
「あれ、おばあちゃん、畑行ってたんちゃうん?」
振り返ると姉ちゃんがおった。おいなり買いに行ってたんよ、とばあちゃんが返し、姉ちゃんは「ああ、──の店か」と言いながら、冷蔵庫から缶ビールやなくて、瓶に入った豆乳を取り出す。
もこもこしたカーディガンの下に、俺が春高土産で買ってきたバボちゃんTシャツがのぞいとる。
最後の春高は、二日目で終わった。優勝候補やって言われとったのに、まさかの初戦敗退。でも今までちゃんとやってきたから、後悔はない。せやけど、「悔しい」って感情は想像してたより、長く尾を引くことを知った。
(あの人も、同じやったんやろか)
俺が練習してへんのかって訊いたら、「踊る予定はない」っていつも言う。口元だけつり上げて、はぐらかそうとする。「才能なかってん」って自嘲する。
やのに「終わった」とは一度も言うてない。
俺は人のことよう見てる方やと思う。実際、後輩ら(特に侑)が予想通りに行動する瞬間を何回も目の当たりにしてきた。
(尾が、まだ切れてないんやったら──)
ガララッ!
──パタパタパタっ!
「ばあちゃーん! おいなりさんは!?」
部活から帰ってきた弟。うちの末っ子。制服の胸元に『笛根九』の刺繍。
開口一番がそれか。相当楽しみにしてたんやな。お揚げさんとおんなじ色した目がキラキラしとる。
おいなりが無かったと知ると、今度はしおしおと項垂れて「うそやん……オレそれが楽しみで……、頑張ったのにぃ」と、声変わり中のしゃがれた声でめそめそ言いだした。
「しゃーないなあ、あるもんでぱぱっと作るわ」
言いながら、姉ちゃんが腕まくりをして台所に立つ。年が離れてるせいか、姉ちゃんはコイツに甘い。けど、
「ほんまあ!? 姉ちゃんありがとう!」
パァッと目を輝かせて笑う。そんな風にされたら、甘やかしてまう気持ちは分かる。……俺は甘やかさんけど。
「兄ちゃん、もうお昼食べたん?」
「おん。先食うた。ほれ、姉ちゃん手伝いや」
「はーい」
姉ちゃんの隣に並ぶ弟。その身長にあまり差がないことに気付いた。着ている制服は俺のお下がりで、まだぶかぶかやけど、そのうちぴったしになるんやろな。
部活を引退した今、姉弟とこんな穏やかで、何でもない休日を一緒に過ごすのは久しぶりな気がした。
「いただきまーす!」
あーん、と姉ちゃんと一緒にこさえたご飯を食べる末っ子。歯抜けていたところに、新しい歯が見える。
「お前まだ乳歯ありそうやなあ」
そう言うと、弟はムッとした顔で言い返す。
「もうないわ! 中学生やもん!」
──中学生やもん、か。
「ふふ、そおか」
まだまだ子供やな、と言いかけてやめる。
代わりにポン、と頭を一撫でしてから部屋に戻る。
廊下でハッとする。
弟と俺の年の差は五つ。
姉ちゃんと俺、そしてあの人と俺の年の差も五つ。
(……そういうことか)
いろんな線が、一本に繋がる音がした。
あの人と、話したくなった。
◆◇◆◇◆
「ただいま!」
「ただいまやあらへんわ」
また北家。もう、第二の実家みたいなものだ。
休日の夜。まだ吐く息が白い寒さの中、上機嫌で玄関に立つ私を、呆れたように見下ろしたのは親友の弟──信ちゃん。あの冷ややかな目。相変わらず、感情の温度が低い。
「お土産持ってきた。ユニバの!」
「ほおん……。姉ちゃん呼んでくるわ」
つまらなそうに返して、さっさと廊下の奥に消えていった。彼の背中を見送りながら、私はまだ、昼間の余韻の中にいた。
──楽しかったなあ。
先週、東京時代の友人から突然連絡があった。同じダンススタジオに通っていた、底抜けに明るい子。画面に映る名前を見た瞬間、昔の光景がまぶたの奥に蘇った。あの人懐っこい笑顔と、踊る時の猛禽類のような眼光炯々たる眼差し。
会社の研修で大阪に行くから、一緒にユニバ行こ! と。
彼女らしいなと思った。距離を詰めるのが早い。いや、強引、という方が近いかもしれない。
十年ぶりに会うのに、まるで昨日も隣で笑っていたみたいに会話が戻った。
楽しかった。──けれどそれ以上に、嬉しかった。大阪と聞いて、最初に思い出してくれたのが私だったこと。同僚でも彼氏でもなく、私を誘ってくれたこと。
寒くて心までささくれそうだった冬に、少しだけ、指先が温もりを思い出した。
「よっぽど楽しかったんやなあ」
廊下の奥から、親友の声。
その柔らかい笑いに、我に返る。どうやら顔にまで出ていたらしい。
「上がってく?」
「ううん。もう遅いし、今日はこれだけ渡しに来ただけやから」
お土産を渡して、手を振る。じゃあね。また一緒に行こね。そう言って玄関扉に手をかけたときだった。
「送るわ」
背中越しの声に、心臓が小さく跳ねる。
低くて、抑えたトーン。
さっきまでの浮かれた気分が、そこできれいに切り替わった。
「昨日、駅前で通り魔が出たらしいわ」
振り向くと、ダウンジャケットを着た信ちゃんが立っていた。
親友と目を合わせる。
「信介、あんた高校生やで? そんな心配なら私が送るわ」
「そうそう。職質されたら、私がお縄やで」
「…………」
沈黙。
──あれ、違う? 冗談のつもりやったのに。
言葉の温度を読み違えたときの、気まずさが喉に刺さる。
「部活ん時も遅い日はこんくらいやったし。それに──」
彼は淡々と続ける。
「横に男おったら、襲ってこんやろ」
──男。 男、か……。
靴を履きながらのその言い方が、あまりにも自然で。私は一瞬、どう返していいのか、わからなかった。
「………近所やねんから、ほんまに大丈夫やで?」
「近所やからこそやろ」
トントン、と爪先を合わせる音。その音が、やけに遠くまで響く気がした。
親友の方を見やると、肩をすくめて笑っている。
──あ、なるほど。こうなると止まらんタイプ。
そう気づいた瞬間、
「ほれ、はよお」
ぐいっと腕を引かれた。
勢いのまま、外の空気が身体を包む。冷たい夜気。頬を刺す風。
背後から「気いつけやー!」という親友の声が追ってきた。振り返ろうとした瞬間、扉がぴしゃんと閉まる。
音だけが残って、世界が一段、静かになった。
息が白く散った。
──このあと、何かが変わる気がした。