Chapter2
年が明け、お正月ムードも落ち着いてきた休日。
断末魔が家中に響いて飛び起きた。誰か鍋でもひっくり返したのかと思い、様子を見に行くと、母が腰を押さえてうずくまっていた。
早い話、ぎっくり腰だった。
「悪いけど、今日お店頼むわ」と言われて、やれやれとエプロンをつけた。足に枕を挟んで横たわる母に「安静にしてや」と声をかけた後、店頭に暖簾をかけにいく。
三代続く小さな豆腐屋。私の家。
奥の工房にいる三代目こと、父が私に気付く。その隣では先代の祖父が黙々と作業をしている。水の中で均一に切られた豆腐がふるりと揺れている。
ピッとレジ横に置かれたテレビをつける。ごく普通の小さな液晶テレビ。ほんの数年前までは、祖母が店番をしながら常連さんと一緒に眺めていたブラウン管テレビがあった。
地デジ化に伴ってお役御免となってしまったそれは、祖父がカバーを掛けて、物置きの中で眠っている。
そういえば。
いつかの夏休み、信ちゃんとそのお友達が豆腐作りに来てたっけ。北家のおばあちゃんとうちの祖母が、子どもたちを微笑ましく見つめていたなぁ、とまた懐かしい記憶が顔をだす。
(あの信ちゃんが、もう受験か……)
改めて時の流れの速さを感じる。
「いらっしゃいませー」
暖簾をくぐってきた常連のおばさんが「あら、珍しいなあ」と言い、いつもと同じ絹ごし豆腐を二丁注文する。
父に叩き込まれたばかりの不器用な手つきで豆腐を掬い上げる。角が欠けないように、慎重にパックに詰める。
水に指を沈めるたび、遠い記憶が揺れる。
──この店の、冷たくてやさしい水の感触。
それは、私の原点に少し似ている。
***
中学に進級するタイミングで、東京から兵庫に引っ越してきた。父が実家であるこの店を継ぐことになったからだ。
よく関東から関西に移住すると方言が怖いとか、言い回しが違うとか、そういう話を聞く。
けれど、もともと家では両親とも関西弁で喋っていたから、こっちに来ても言葉で苦労することはなかった。むしろ──初めて、本場の関西弁を聞いたときに「おお……!」と感動したくらいだ。
最初に「しんどい」と思ったのは、部活を決めるときだった。新しい友達が「吹奏楽」「バスケ」と言い合う中、私は当たり前のように「ダンス部」と答えた。
その瞬間、空気が変わった。
間の抜けた沈黙。
「いや……ここ、ダンス部ないで?」
誰かがそう言って笑った。鼻で。
嫌な予感がした。さっきまで、一緒にラブワゴンの話しをしていた子たちの目の色が変わる。
東京ではダンス部がある学校がいくつかあったから、ここにもあると思い込んでいた。
この空気どうしよう。と内心焦りだしたその時、教室の少し離れたところで話していたグループの中の一人が、こちらを見ていた。妙に印象的な瞳だった。
「てか、ダンス習っとん?」
「かっこえー、アムロちゃん目指しとん?」
ひやかし混じりの声に、私は笑って返すしかなかった。
「いや、夢とかは、ないけど……アハハ」
そう答えると、彼女たちは「ああね、そうなんや」と言いながら意味深な目配せをしていた。
足元から、ぞろりと巻き付く蛇のような不快感に身体を縛られる。喉の奥が狭くなって、何も言うことができなかった。
「かっこつけとる東京もん」「おもんない奴」と言われているような空気が漂う。その空気を吸いながら、私は初めて“浮いている”ということを突きつけられた。
***
店先のベルが、ちりんと鳴った。我に返る。
そうだ。寒いから戸を閉めていたんだ。
「いらっしゃーい」
中年の男性が薄揚げを三枚買って、足早に帰っていった。
昼時前のこの豆腐屋は緩やかに時間が流れていく。
何か面白い番組でもやっていないか、とリモコンを手に取ると、
『おぉっとぉ──っ!! BJ明暗修吾、同じくルーキー昼神の速攻をシャット───ッ!!』
バレーの中継? いや、報道番組で放送されたハイライトだ。昨日の試合がSNSで話題になっていたらしい。テロップを見て思わず目を丸める。
──『明暗修吾(23)』 『昼神福郎(23)』
(同い年……)
このところ同年代の著名人たちの活躍が目覚ましいと感じる一方で、『何者でもない自分(23)』の凡庸さにため息が出る。
画面はとっくに違うニュースになっていたのに、テロップが表示されていた場所から目を離すことができなかった。
「おーい、豆乳飲むか?」
頬杖をつき、緩慢な仕草で欠伸をして、つい物思いに耽りそうになっていると、父ができたての豆乳を持ってきてくれた。
ほかほかと立ち昇る湯気の匂いの中で、記憶の続きがまた浮かび上がってきた。
***
クラスの空気に慣れないまま迎えた放課後。
ぼうっとした頭で、体育館裏に貼られていた部活動の見学表を眺めていると、後ろから声をかけられた。
「部活、決まってないん?」
振り返ると、髪の毛先だけがほんのり染まった女の子が立っていた。西日のオレンジが溶け込んだべっ甲色の瞳が、まっすぐにこっちを見ている。教室にいたあの子だ。彼女は笑って言った。
「一緒にバレー部入らん? ちょっと聞こえたんやけど、ダンスやっとったんやろ? 運動神経良さそうやし、興味ない?」
からりとした明るさに、救われた気がした。
そこにあったのは“誘い”というより、“居場所”だった。あのやり取りの後から、自分の呼吸が浅くなっていたことに気付いた。ようやく深く息を吸うことができた私は、一泊あけてから応えた。
「ちょっと、考えてもいい?」
***
ふえっくしゅん!
「う〜。さむさむ」
さっきの男性客が開け放したままの戸を閉めに行く。
温かい豆乳を飲んでいると、そのままでもいい気はしていたが、くしゃみが出たので限界を悟る。
「あ、いらっしゃい」
「あらあ〜! 今日は──ちゃん、店番なん?」
北家のおばあちゃまがご来店。
「今日はな、おいなりさん買いに来たんよ」
母お手製の稲荷寿司。うちの人気商品。なのだが。
「ごめん、おばあちゃん。今日は母さん腰やってもて、おいなり仕込んでないねん」
そう言うと。
「そおなん? 残念やわあ」
おっとりとした口調で、がっくりと肩を落とすおばあちゃん。
その様子に、あの時の彼女の声が重なった。
***
「そっかあ。残念やわあ」
結局、私はバレー部には入らなかった。
大阪のダンススタジオに通うことにしたからだ。でも、彼女とは自然と一緒にいるようになった。いつの間にか親友と呼べるようになっていた。
その親友の家に初めて誘われたのは、梅雨入り前の休日だった。
「こ、こども……!?」
玄関で靴を脱ぎかけたところで、私は固まった。
おばあちゃんのスカートの裾をつかんで立つ、小さな男の子がいる。髪の色も、目の色も、利発そうな顔立ちまで彼女にそっくり。
きれいなべっ甲色の瞳が、こちらを見上げていた。
「だれぇ?」
小さな頭が、ちょい、と小首をかしげる。舌足らずに言った「誰?」の一言だけで、バキュンと心臓を撃ち抜かれた。
「これ、わたしの弟! 信介! 二年生!」
親友が誇らしげに紹介してくれる。男の子は「ばあちゃんと、とうふやにいくねん」と言いながら、にこにことおばあちゃんの手を引いた。なぜだろう。ぴょこっとしたケモミミと、もふもふの尻尾が生えてても違和感ないだろうなと思った。
「ばあちゃんの豆腐ハンバーグ好きやもんな?」
「うん」
子狐ちゃんがコク、と頷く。
「か……かわ……!!」
思わず変な声が出た。豆腐ハンバーグを嗜む小学二年生なんて、尊すぎる。
ふと気づく。
「豆腐屋って、三丁目の?」
「たぶん。やんなー? おばあちゃん」
そうやでぇ、とおばあちゃんが笑う。
頭の中で鐘が鳴った。──うちの豆腐屋やん。
その瞬間、心の奥で何かが弾けた。このちいさな男の子と、その優しいおばあさんが、うちの常連さんだったなんて。
神様お稲荷様ありがとう、とその時は本気で思った。
***
──『ええ加減にしいや』
まさかこの十年後、こんなに愛くるしかった狐の子に再び心臓を撃ち抜かれるなんて、誰が予想しただろうか。