『風が通る教室』
いつも通り、静かな朝だった。
七時半より前の教室は、まだ人の気配が薄い。廊下に響く足音もまばらで、窓の外にはやわらかな日差しが、まだ眠たそうな校舎をなぞっていた。
北信介は、教室の角を曲がって、自分のクラスのドアの前でふと立ち止まった。
中には、ひとりの女子生徒。
窓をすべて開けて、黒板の隅をきれいに拭き上げている。その手つきは手慣れていて、誰に言われたわけでもないことを、当たり前のように“ちゃんと”こなしていた。
……いつも通りやな。
北は黙って教室に入った。彼女が振り返る。
「あ、北くん。おはよう」
「おはようさん」
窓際に立つ彼女の髪が、朝の風にふわりと揺れた。数秒の沈黙のあと、北は手をポケットに入れたまま、少しだけ声を低めて言った。
「いつもありがとうな。……気づいてたで」
彼女の手が止まった。
「……え、ああ…!」
少し間をおいて、頬がふわっと赤くなる。
「……そんなん、初めて言われた…」
その声は、思ってたよりも小さくて、くすぐったそうに笑っていた。
──かわええな。
不意にそう思った。言葉にはしないが、そういう顔をする子なんやなって、ちょっと驚いて、ちょっと嬉しくなる。
「毎朝してくれてたやろ。えらいな思てた」
「え、別に……誰もやらんからやってるだけやし…」
ぶっきらぼうに聞こえるけど、それはたぶん、照れの裏返し。
「……空気こもってんの、ちょっと嫌で。朝の教室って、独特の匂いするやん?」
「するな」
北が同意すると、彼女は「ふふ」と笑った。
「助かってるやつ、他にもおる思うで」
「そう? ……せやったら、うれしいかも」
うつむきがちに、でもちゃんと笑って言った彼女の横顔を、北は何気なく目で追っていた。朝の風が、彼女の髪をまたやさしく揺らす。
誰も見てないと思っていた行いを、誰かがちゃんと見ていた。その事実だけで、少しだけ世界が柔らかくなる。
いつもの朝に、少しだけ、光が差した気がした。
◇
朝練が終わり、汗を拭きながら教室に戻る。
北は、教室のドアを引いた瞬間、ふっと眉を寄せた。
──なんや、空気が重い。
ムッとした湿気が鼻先にまとわりつく。夏の手前のこの季節、天気は良くても教室の中はこもりやすい。けれど、ここ最近はそんなことなかったはず。
あの子が──彼女が、いつも先に窓を開けてたから。
窓は、今日はひとつも開いてなかった。
席に着いて、なんとなく後ろを振り返る。
……彼女の席が、空っぽや。
チャイムが鳴る。周囲がざわつきはじめた。
「なんか教室くさくない?」
「誰か窓開けてーや、無理やってこれ」
口々にそんな声があがる。けれど、誰ひとりとして「いつも窓を開けてたあの子」の名前を口にしない。
不思議と、それが引っかかった。
毎日気づけば開いていた窓。澄んだ空気。彼女が黙々と“やってくれていた”こと。それがないだけで、空気も、気配も、どこか不完全に思える。
ホームルームの時間。担任が言った。
「〇〇さんは今日は体調不良でお休みです」
名前が告げられた瞬間、北の指先がぴくりと動いた。
「……そおか」
声には出さなかったが、胸の奥にひとしずく、水音のような感覚が広がっていく。以降の授業、いつも通りノートを取り、発言もした。それなのに、気がつけば、何度も窓の外に目をやっていた。
夕方、日が傾きかけた頃。部室へと続く渡り廊下。北が歩いていると、大耳が後ろから声をかけてきた。
「なぁ、信介」
「……なんや?」
「今日、なんか……ずっとソワソワしとったな?」
「……俺か?」
「おお。朝から落ち着かん感じやったで? 珍しいなー思て」
北は、ほんの数秒、返事に詰まった。
ソワソワしとった、と言われてみれば、確かに。何度も時計を見ていた。何度も風を探すように、窓のほうを見ていた。
……あの子が、いなかったからや。
それに、今言われて初めて、自分がそうだったことに気づいた。
「……そうかもしれへんな」
答えながら、胸の内に小さなざわめきが残った。
“ちゃんと”あるはずのものが、ひとつだけ抜け落ちた朝。
それだけで、教室の空気は、ずいぶんと違って見えた。
彼女が、窓を開けていたこと。
彼女が、“おってくれた”こと。
誰よりも、感じてたのは、自分やったのかもしれへんな。
そんなことを思いながら、北は無言で階段を上った。
◇
その朝、北信介は少しだけ早足だった。
今日は朝練がない。それでも、いや、だからこそ――彼は早く学校へ向かっていた。
もしかしたら、今日も彼女は来ないかもしれない。それなら、代わりに自分が窓を開けておこう。
そう思った理由を、彼自身もうまく言葉にできなかった。ただ、そうするのが“ちゃんと”だと思えた。
教室に着くと、まだ誰もいなかった。
「……えらい、はよ来てもたな」
小さく独りごちて、窓に近づく。ガラリ、と音を立てて窓を開けると、朝の風がそよそよと入り込んできた。
まだ涼しさの残る空気。教室の中をそっと撫でて、壁を抜けていく風に、北は目を細めた。
「……これは、たしかに毎朝開けたくなるな」
風の通る音に耳を傾けていると──
コツ、コツ、と教室に近づく足音が聞こえた。
「北くん?」
振り返ると、そこにはいつもの彼女。少しだけ寝癖の残る髪。けれど、顔色は良く、いつもと変わらぬ声と笑顔だった。
「窓、開けてくれたんや……ありがと」
少し驚いたように、でもうれしそうに笑うその顔に、北も思わず笑顔を返した。
「元気そうやな」
「……北くんの笑顔、珍しい……!」
ぱちくりと目を見開く彼女の反応に、思わずまた、くくっと喉が鳴る。
「昨日のノート、いるか? 見せたるわ」
そう言って鞄からノートを取り出し、ほれ、と差し出す。彼女は「ありがとう!」と言って、うれしそうに受け取った。
*
昼休み。
彼女がそっとノートを返しに来た。
「ノート、ありがと。めっちゃ助かった」
「おう」
短く返した北は、そのままノートを机の上に置く。彼女が立ち去ったあと、ふと気になってページをめくった。
……余白のすみに、小さなバレーボールの落書きが描かれていた。ぷっくりとした丸。縫い目もちゃんとある。おそらく、彼女が描いたものだ。
──なんや、よう見てるな。
その細やかさに、ふ、と笑みが漏れる。
「……なにニヤけてんや、信介」
隣の席からひょこっと顔を覗かせてきた大耳が、にやにやしながら言った。
「なんかええことでもあったん?」
「……せやな」
素っ気なく返した北の横顔は、それでもどこか柔らかかった。
教室の窓は、今日もよく風が通る。
その空気の中に、昨日まではなかった何かが、ほんの少しだけ混じっていた。