窪谷須くんへの気持ちにチャックをした話

『ブルーノートの余白』

 毎日、決まった時間に、同じ言葉を口にする人がいる。
 
「悪い、今日もノート、借りていいか」
 
 クラスメイトの窪谷須亜蓮くん。
 授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、彼は、私の机の端に影だけを落として立つ。深くは覗き込まない。かすかに咳払いをしてからノートを受け取り、放課後には必ず返しにくる。返す時は「助かった」と言い、私の手の届く位置にそっと置く。その律儀さが、胸のなかに小さな灯りをともしてしまうのを、私は知っている。

 けれど私は、気持ちを“セーブ”するという技を覚えていた。
 中学のとき、彼に似た調子で毎回ノートを借りに来る男子がいた。一緒に図書室の窓際で勉強して、たまに同じタイミングであくびなんかもした。いい雰囲気。そう思っていた。
 ある日、廊下で別の男子にひやかされる。
「付き合ってんの?」
 私はドキリとして、照れ笑いの準備までしていたのに、隣の彼はなんてことないように笑っていた。そして私のほうを見もせずに言った。
 
「いやいや、あり得ないから! ね?」
 
 その瞬間、自分が好きだったことにも、同時に失恋していたことにも気づいた。胸の奥で何かが、ぱちんと乾いた音を立てて切れた。

 だから、今度は学んだのだ。
 窪谷須くんが、私に気があるふうには見えないこと。彼はあの照橋さんと同じグループで、みんなで旅行に行くぐらい仲がいいこと。天女みたいな笑顔が日常の隣にある人の視界に、私のような凡庸はピントが合わないかもしれないこと。
 これは、リベンジではない。
 ノートを介して距離が縮まるという、少女漫画の王道を二度も味わえたのは、ただの偶然で、ただの奇跡。それ以上を欲しがってはいけない。
(ちゃんと、弁えてるよ)
 私はいつも、心の中で口にチャックをしてみせる。

 ある日、いつものようにノートを返されたとき、彼が初めて提案してきた。
「たまには、一緒に勉強しねえ?」
 その言葉は、扉が一枚ふわりと開くみたいに胸を揺らした。けれど、体のどこかに埋め込まれた警報が先に鳴ってしまう。
「今日は……ごめん。無理かも」
 自分でも驚くほど早い拒絶。彼は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐにいつもの顔に戻った。
「そっか。悪い、急で」
 断ったあとも、彼は変わらずノートを借りに来た。ほっとした。けれど、ほっとした自分に、錆ついた爪で引っかかれるような後味が残った。

 また別の日。
 グループワークで私は初めて照橋さんと同じ班になった。接点のなかった相手に、彼女は驚くほど自然に話しかけてくる。進行が止まりそうになると、さりげなく引っ張ってくれる。その眩しさは、直視すればするほどこちらの影を濃くする──そんな単純な真実を、その日の私は正面から受け取った。
 放課後、いつものように彼がノートを返しにくる。気がつけば口が勝手に動いていた。
「なんで、私のノートなの? 他にも貸してくれる人、いると思うけど」
 言ってしまってから、取り消し線を引きたくなった。
「いや……見やすいし。頼みやすくてよ。スマン、迷惑だったか?」
 予想どおりの答え。淡い期待が薄紙みたいに剝がれていく。ほんとうは「ノートは口実で……」なんて、漫画みたいな台詞を望んでいた? 自分の図々しさに苦笑する。
「ううん。そういうことなら、いつでもどうぞ」
 強がって返すと、彼はほっとしたように笑って
「助かる。……じゃ、また明日な」と言った。
 その「明日な」が遠ざかるたび、胸の内側に空洞が育つ。机に残された自分のノートを持ち上げると、紙の温度まで彼に持っていかれたように軽く感じられた。
(余計なこと、訊いちゃったな)
 わかっている。求めてはいけない。けれど、期待をまったく捨てることもできない。夕日が窓の外で赤く滲む。
「ノートだけじゃなくて、って思うのは、わがままなんだよね」
 小さく呟いて、私は鞄の口を閉じた。今は、ノートを貸すだけの子でいればいい。
 ガララ、と音を立てて扉を閉める。音の尾だけが、しばらく耳に残った。

 数日後。
 私は友達に借りた漫画に夢中だった。主人公とイケメンヒーローの恋はクライマックス。早く続きを読みたくて、ノートを返しに来た彼に「はい、どーも!」とだけ言って、勢いよく受け取り、そのまま教室を出る。自分でも感じが悪いと思う。でも、別に私に好意が向いているわけでもない。
 部屋に帰るなり、鞄をベッドに放り投げ、散らかった漫画を開く。
「ああ〜! このパターンか!でも、いい〜!」
 紙の匂いとインクの黒。頬がゆるむ。窓の外のオレンジが部屋まで染みてくる。

 その夜。
 重い腰を上げて机に向かう。テストが近い。
 数学のノートを開くと、字が崩れていた。あれ、と思って表紙を見ると、窪谷須くんのノートだった。
「勘弁してよ……」
 彼は気づいているだろうか。明日は数学がないから、返ってくるのは明後日……いや、明後日は土曜日だ。休みじゃないか。今日連絡しないと……、とそこで気づく。彼の連絡先を知らない。放課後に毎日会っていたから、それで十分だと、どこかで思いこんでいたのだ。
 よりによって数学。苦手な科目。休日に穴があくのは、地味に痛い。
 彼の連絡先を知っていそうな友達を探す。けれど、いない。同じクラス以外の接点がない、という事実だけが残る。
 クラスグループチャットから勝手に個別の連絡先を、拾う?……それは嫌だ。自分がされたら「何この人」と思うから。けど、非常事態だし……、と自分に言い訳しながら悶々と画面を眺めていると、通知が弾けた。
 
『悪い! ──!ノート間違えてた!』
 
 彼からだ。
 けれど安堵は、一呼吸で焦燥に変わった。
 ──名指しで、わざわざ。
 グループチャットの画面は、面白がるクラスメイト達によって、すぐに『いいよ』『ええんやで』と軽いメッセージやスタンプで埋まる。胸の色が、じわじわ青ざめていく。
『ちょ、窪谷須おもろすぎ』
 友達から個別にメッセージが来る。ほんまやで、と、なぜか関西弁で返してしまう自分に、さらに落ち込む。

 翌朝。
 教室に入ると、「ノート返してもらえたー?」とからかいの声が投げられる。こういう空気が嫌で、私は慎重に歩いてきたのに。
「窪谷須ー! 早くノート返してやれよー!」
 雑な声と笑い。彼の舌打ちが、遠くで針のように聞こえた。
(昨日、ちゃんと確認していれば……)
 ひりひりと罪悪感が走る。
「悪かったな、昨日グルチャに連絡しちまってよ」
 彼は小声で言い、私にノートを差し出した。
「ううん。仕方ないよね……」
 受け取る私を見て、近くの男子が問いかけてくる。

「あのさー、君ら毎日ノートの貸し借りしてるよね。付き合ってんの?」
 
 時間が止まったみたいに、空気が薄くなる。
 
 ──あり得ないから!
 
 中学の廊下が、稲妻のようにフラッシュバックする。背中に冷たい汗が伝い、指先が震えた。彼が口を開く。私は胸を抱きしめるみたいに耳をふさぎ、教室を飛び出した。

 ◇◆◇◆

 彼女が駆け出していった背中を、呆然と目で追った。胸の奥がざわついて、最初にノートを借りた日の記憶が、不意に引きずり出される。
 席が隣だったから、ただそれだけで頼んでみた。
「ノート、貸してくんねえか」
 一瞬だけ驚いた顔をしたあと、彼女はすぐに笑って差し出してくれた。いい子だな、とそのときは思った。
 返すときに「自分が理解できるように書いてたから、分かりにくくなかった?」と訊かれた。正直、ほとんど分からなかった。内容なんか頭に入っていなかった。でもそれは自分の学の浅さのせいであって、彼女のせいじゃない。
「おう、問題ねえぜ!」とだけ答えた。
 彼女はふっと笑って「また必要なときは言ってね」と言った。友達に呼ばれて席を立っていく横顔が、なぜか焼きついた。次の日も、その次の日も、自然にノートを借りに行った。

 ある日、気づいた。彼女のノートは他のやつらのと違う。下から十行目くらいのところに線が引いてあって、余白がある。そこには細かい補足や図、ちょっとした感想みたいなものまで書き込まれていて、ページをめくるたびに彼女の頭の中を覗いている気がした。不思議と、もっと知りたい、と思った。
 だから勝手に口から出た。「一緒に勉強しねえ?」
 でも彼女は、少しだけ目を伏せて「ごめん、無理」と断った。その瞬間、胸の奥に氷の欠片が落ちたようで、(なんだ、この感覚)と戸惑った。

 またある日。「なんで私のノートなの?」と訊かれた。
 その問いに、初めて自分を振り返った。……なぜか。
 ただ話したかった。会話のきっかけが欲しかった。それだけだ。なのに口から出たのは「見やすいから」「頼みやすいから」だった。嘘ではない。でも、本心でもなかった。
 彼女の目が、すこしだけ遠のいた気がした。

 それから、彼女の態度が変わった。
 ノートを返すとき、前は必ず一言二言あったのに「はいどーも! じゃあね!」と背を向けるようになった。初めてそうされたときは、呆気にとられて立ち尽くした。背中にじわじわと汗がにじんだ。
(嫌われたかもしれねえ)
 けれど、ノートを借りるときの彼女は笑顔だった。分かりやすいように、補足もつけてくれる。冷たくされたわけじゃない。その揺れ幅に、自分が揺さぶられていると気づく。だが、不思議と悪い気はしなかった。

 ある晩、気づいた。自分の鞄に、彼女のノートが紛れていた。
「やっべ……!」
 頭をかきむしる。テストが近いのに、彼女の元には俺のノートがあるってことだ。
 
(いや、ほんとは……ちょっと、考えちまったんだよな)
 
 きっかけが欲しい、と。ノートを入れ違えれば、また会話が増える。そんな下心。
 だがすぐに思い直した。
(こんな女々しい真似、できっかよ!)と。
 だが結果的に、彼女に自分のノートを渡してしまっていた。無意識に。
 どうしようもなく謝りたかった。けれど連絡先を知らない。瞬や燃堂と話している姿も見たことがない。
「くっそ……!」壁を小さく叩いた。
 そのとき思い出した。
「グルチャがあるじゃねえか!」
 すぐに送った。彼女にわかるように、名指しで。
 でも反応したのは彼女じゃなく、クラスメイト達だった。スタンプや冷やかしが次々と飛んでくる。
「何やってんだよ、俺……!」
 苛立ちに任せて、また部屋の壁に小さな傷を増やした。

 翌日。昇降口で瞬に会った。
「よ、よぉ亜蓮。昨日のチャットだが……」
「やらかしたわ」
「大丈夫だ! ──さん優しいし、怒ってねえって!」
「だとしてもよ……」
 もう貸さない、と言われても仕方がない。
 教室に入ると、クラスメイトたちが面白がってからかう。全員にガンくれて牽制し、「ひっ」という声が聴こえるが、気は晴れない。
 彼女にノートを返す。
「……悪かったな」
 彼女は目を合わせずに「仕方ないよね」と笑って受け取った。
 救われた気がしたその瞬間──
 
「君ら付き合ってんの?」
 
 誰かの茶化し。ふつふつとした苛立ちが喉までせりあがる。
「ありえねえだろ。彼女が、俺なんかを……」
 そう言いかけたとき、彼女が走り出していた。顔は青ざめ、涙が滲んでいるように見えた。
「……っ」
 茶化した男子が馴れ馴れしく肩を叩く。
「ど、どんまい窪谷須〜」
「……あ゙ぁ゙?」
 低く唸り声をあげて振り払い、そのまま彼女を追いかけた。

 ◆◇◆◇

 中学のときに突き刺さった言葉が、耳の奥でリフレインしていた。
 ──“あり得ないから!”
 窪谷須くんも、きっと同じことを言ったに違いない。
 私は階段を駆け上がり、屋上の扉の前に座り込んだ。胸の奥にあった均衡が、一気に崩れ落ちる。制服のスカートに、涙のしずくがぽつぽつと落ちて染みていく。
 弁えていたはずだった。ちゃんと距離を測っていたはずだったのに。昨日だって、彼は照橋さんに向かって赤くなりながら「押っ忍」と返していたじゃないか。そんなふうに、私が目に入るはずなんてない。
 ハンカチを探してポケットに手を入れる。……ない。仕方なく袖でごしごしと拭う。余計に瞼が熱くなる。
 ドタドタ、と駆け上がってくる音がする。振り向けば、息を切らした彼が立っていた。
「おい!」
 肩で呼吸しながら、私の隣にどかっと腰を下ろす。
「なんで、逃げんだよ」
 涙を見て、一瞬ぎょっとした顔をする。すぐにポケットを探りはじめた。……たぶんハンカチを探している。結局見つからずに「しゃーねえ」と呟いて、彼は自分の袖で私の目元を乱暴に拭った。少し痛い。だけど、優しい。
「……スマンかった」
 きっと、揶揄われたことを謝っているのだろう。私はかすかに首を振った。
「大丈夫」
 あなたの想像している理由とは違うから。

 「ちゃんと、否定しといたぞ」
 「……え?」
 「付き合ってんのかって言われたろ。“ありえねぇ”って言っといたから」

 瞬間、頭がピシリと凍りついた。全身の力が抜けて、また涙がぼろぼろとこぼれ出した。
 やっぱり、そうなんだ。
「な、ど、どうした!?」
 彼がうろたえる。
「………んで、」
「え?」
「……なんで。私、“ありえねぇ”なの?」
 声が震える。問い詰めるつもりはなかった。でも、口から滑り落ちていた。
 頬をかきながら、彼はしどろもどろになった。
「あー…、なんか……勘違いしてねえか?」
「………勘違い?」
 そのときようやく見つけたらしいハンカチを差し出される。私はそれで涙を拭き、顔半分を隠す。
「お前のこと、“ありえねぇ”なんて思っちゃいねえよ」
 喉から絞るように、彼は言った。
「むしろ……お前の方が、俺のこと“ありえねぇ”って思ってんじゃねえかって……」
「……え?」
 耳を疑った。逆?そんなこと、ある?

「……あ゙ーっ!」
 
 彼は苛立ったように声をあげ、自分の太ももを拳で叩いた。ドン、と響く音に肩が跳ねる。

 
「………オレお前のこと、好きかもしれねぇんだわ」
 

 心臓が、殴られたように音を立てた。
 頭の奥まで衝撃が駆け抜ける。
 
「お前の言う通り、ノートなんて別に瞬や斉木から借りられんだよ。でも……お前から借りたかった。接点が、欲しくてよ」
「……そう、だったんだ」
 
 思わず返す。胸のどこかで、(だったら最初にそう言ってよ)と卑屈な声が顔を出す。

「最近、ノート返したらさっさと帰っちまうだろ。それでやっと気づいた」
 
 ……漫画の続きに夢中で、早く帰ってしまった。

「情けねぇ。こんなみっともねえ告白になるなんてな」
 
 彼は悔しそうに天井を仰いだ。

 こんな時になぜか私は、漫画のクライマックスを思い出していた。

「なあ」

 レンズの奥の三白眼が、私を射抜く。
 すれ違いを乗り越え、ようやく結ばれる主人公とヒーロー。
 彼は壁に手をついて、彼女の逃げ道を奪う。瞳を大きく見開き、はくはくと唇を震わせる彼女に、彼はこんな風に問いかける。

「お前は俺を、……どう思ってる?」

 鼓膜の奥で自分の鼓動が騒ぐ。けれど、頭の中では「こんな王道展開が来るなんて」と冷静になっている自分もいて。

「わ、わたしは……」

 主人公は、制服の裾をぎゅっと握りしめながら、ヒーローへの想いを打ち明ける。
 そのコマに、描写はされていなかったけれど、もしかしたら。
 彼女の瞳に映る彼は、ぐ、と眉間に皺を寄せ、恋に焦がれた男の顔をしていたのかもしれない。

今、私だけを見つめる窪谷須くんのように。