恋人がモルモットを連れてきた牛島若利の話

『熱帯魚のいる部屋』の続編です。牛島×生き物シリーズになる予感。

『モルモットのいる部屋』

 玄関の扉を開けた彼女は、大きな荷物を両手に抱えていた。
 片方は布のかかったケージ。もう片方は、牧草やフードが詰め込まれた袋だ。ケージの中で何かが動くたび、乾いた牧草が擦れ、ぷい、ぷい、と細い声がした。
「ただいま。若利くん、来たよ」
「そうか。今日か」
 日本語教室に勤務している彼女の友人が旅行へ行くため、飼っているモルモットを一週間預かると聞いていた。
 ポーランドで暮らす俺たちの周囲には、犬や猫を飼っている家庭が多い。モルモットを安心して預けられるのは、犬猫のいない俺たちの家だけだったらしい。
「うちはまだ動物を迎えてないから、白羽の矢が立ちまして」
「熱帯魚はいるが」
「そうだけど、こういう子はいないでしょ?」
 布を外すと、三匹の小さな生き物がこちらを見ていた。
 白と茶色のまだら模様。艶のある黒色。淡い黄褐色。それぞれ毛の長さも顔つきも異なるが、丸い胴体に短い脚がついているところは同じだった。
 彼女は床に置いたケージの前に座り、扉を開ける。迷いのない手つきで一匹をすくい上げると、続けて残りの二匹も腕の中へ収めた。
「かわいい〜! あったかーい!」
 三匹に埋もれながら、彼女が頬を緩める。
 モルモットたちは逃げようともせず、彼女の腕の中でぷいぷいと鳴いていた。小さな鼻が絶えず動き、牧草と獣の匂いがかすかに漂う。
「この子たち、人懐っこいね」
「そのようだ」
 げっ歯類をこれほど間近で見るのは初めてだった。鋭い前歯を持つ生き物に、彼女がなぜそれほど警戒心もなく触れられるのか分からない。
 俺も隣に腰を下ろすと、彼女は友人から預かったメモを広げた。
「牧草はいつでも食べられるようにする。フードは朝と夜。おやつのパプリカは少しずつ。お水は毎日交換。急に食べなくなったら、すぐ連絡……だって」
「分かった」
「それから、まずは私たちと打ち解けてもらわなきゃ。若利くん、抱っこしてみて」
「いきなりか?」
「私もできたし、大丈夫!」
 それが根拠として十分なのか判断できないまま、一匹を差し出される。そろりと両手を構えると、彼女が俺の腕の上へそっと乗せた。見た目よりも柔らかい。
 ふかふかとした毛の下に、確かな重みと体温があった。手のひらに触れる腹が小刻みに動き、その速い呼吸が直接伝わってくる。
 彼女の肌よりも温かい。
「……熱があるのか?」
「動物は人よりもあったかいんだよ」
「そういうものか」
 頭を撫でようと指を伸ばすと、モルモットは俺の匂いを確かめるように鼻先を寄せてきた。柔らかな鼻先が指に触れ、すぐに離れる。
「この子たちも!」
 彼女は当然のように、残りの二匹も渡してきた。
「三匹ともか」
「若利くんなら余裕でしょ」
 両腕の中へ三匹を収める。
 余裕だと言いながらも、彼女は横から手を添え、落ちないように支えてくれた。
 それぞれは小さいが、集まるとそれなりの重みになる。腕の中から、ぷい、ぷい、きゅう、と重なった鳴き声が聞こえた。
 毛の柔らかさ。腹から伝わる熱。牧草の匂い。
 抱いているだけで、そこに三つの命があると分かる。家にも生き物はいるが、熱帯魚からは体温を感じない。水槽越しに鳴き声が聞こえることもない。近づけば、水の中を揺れるだけだ。
「モルモットは……ねずみなのか?」
「若利くんが抱くと、大きめのねずみに見えるね。ていうか、なんか絵面がかわいいな」
 彼女が笑いながら、こちらにスマートフォンを向けてきた。
「何がかわいい?」
「若利くんとモルモット。体の大きさが違いすぎる」
「そうか」
 アンバランスでかわいいらしい。よく分からない。
「和名はテンジクネズミって言うんだって。同じげっ歯類だけど、いわゆるネズミ科とは別なんだって」
「……そうか」
 テンジクとは天竺と書くのだろうか、と考えていると、彼女が俺のすぐそばへ寄った。
 いつもの甘い香りが濃くなり、自然と視線が彼女へ向く。彼女は腕を伸ばし、三匹の頭を順番に撫でていった。
「かわいい……。ほんと、かわいいね」
「かわいいか」
「あ、まだねずみだと思ってる?」
「……そう見える」
「似てるけど違うから〜」
 くすくすと笑う彼女を見る。
 柔らかく下がった目尻も、楽しそうに弾む声も、モルモットを撫でる指先も、すべて見慣れている。それでも、見るたびに同じことを思う。
 このモルモットたちよりも――。
「君の方が……」

「ぷいぷいぷいぷい!」

 三匹が突然、揃って鳴き始めた。
「え、なに?」
 三匹分となると、予想以上の声量だった。腕の中で身を乗り出しながら、ぷいぷい、きゅいきゅい、と途切れなく訴えている。
「だから、君が……」
「ぷいぷいぷいぷい!」
「あはは! 元気だね〜! みんなで歌ってるみたい」
「…………」
 狙ったような大合唱だった。
 今は口を閉じておくことにした。
 ケージへ戻し、預かったフードを皿へ入れると、三匹は先を争うように集まった。硬い粒を齧る音が、静かな部屋へ細かく響く。
 彼女はケージに薄い布をかけながら、中を覗き込んだ。
「今日はこれをかけてあげようね。知らない家だと、落ち着いて眠れないかもしれないから」
 おやすみ、と声を潜めて微笑む彼女の横顔は、何度見ても気持ちを穏やかにさせた。

 その夜、同じベッドへ入ると、彼女が枕の上でこちらを向いた。
 いつものように、冷えたつま先を俺の足にくっつけ、こっそり暖をとっている。触れた瞬間は冷たいが、しばらくすると互いの温度が馴染んで心地いい。
「そういえば、さっき何か言おうとしてた?」
「ああ……」
 あの大合唱に遮られた言葉だ。
「あれは――」
 ガタガタ、と遠くで音がした。
 続けて、きゅう! きゅう! と甲高い声が響く。何か硬いものを齧るような音も混じっていた。
「……何の音だろう」
「リビングからだ」
「モルちゃんたちかな?」
 彼女は布団を跳ね上げ、ベッドから起き上がった。足音が廊下を遠ざかっていく。
 またしても、言いそびれてしまった。
 小さく息を吐き、彼女のあとを追った。

 翌朝、食卓で彼女がスマートフォンを見ながら言った。
「友達に聞いてみたんだけどね。環境が変わって不安なのか、外へ出たいのかもだって」
「よその家だからか」
「そう。飼い主の匂いもしないし、夜になって寂しくなったのかも」
 昨夜の騒音は、やはりモルモットたちが発していたものだった。
 気分や要求によって鳴き方が変わり、外へ出たいときにはケージの柵を齧ることもあるらしい。
「大丈夫だよ〜。ママはちゃんと帰ってくるよ〜」
 彼女は一匹を抱き上げ、顎の下を指先で撫でた。するとモルモットは目を細め、喉の奥で、るるる、と小さく鳴いた。
「昨日とは違う鳴き方だな」
「ね。気持ちいいのかな?」
 俺も別の一匹を抱き上げ、同じように顎の下へ指を当てた。
「グルル……」
 低い声で唸られた。
「なぜだ」
「強いんじゃない? もっと優しく」
「力は入れていない」
「若利くんの指、大きいからね」
 力加減をさらに弱くする。しかし、モルモットはこちらを警戒するように体を硬くしたままだった。
 一方、彼女の腕へ移された途端、力が抜ける。腹を預け、後ろ脚まで伸ばしていた。彼女が撫でる手を止めると、別の一匹が、もっと続けろと言うように指へ鼻先を押しつける。
「かわいい。慣れてきてくれたのかな」
「そのようだ」
 彼女に撫でられ、くつろぐモルモットを眺める。
 羨ましい。
 彼女に対してなのか、モルモットに対してなのか、自分でも判別がつかなかった。

 朝食を終えたあと、おやつとして細く切ったパプリカを与えた。
 モルモットの前へ置くと、口で咥えようとするが、前脚ではうまく持てないらしい。俺がその場に膝をつき、端を摘んで差し出すと、反対側から小さな前歯で齧り始めた。餌付けは許してくれるらしい。
 さくさく、と軽い音がする。
 三匹ともパプリカに夢中だった。口元が素早く動き、細長かった赤色が少しずつ短くなっていく。鼻が絶えず上下し、ときおり汁で濡れた口元が覗いた。
「お、食べてる〜! お口かわいい!」
 隣で彼女が嬉しそうに笑う。
 今は皆、パプリカに集中している。だが、俺が彼女へ言葉を伝えようとすれば、また歌い始めるのだろうか。
 さくさくさく。
 パプリカが短くなり、前歯と俺の指との距離が近づいていく。
 今、口を開けば、次は指を噛まれるような気がした。
 しかし、二度も言いそびれた。これ以上、先延ばしにする理由はない。
「そうだな。でも……」
「ん?」
「君の方がかわいい」
 彼女が目を瞬いた。
 次の瞬間、三匹が一斉に顔を上げる。
「ぷいぷいぷい! ぷぷぷい!」
 部屋いっぱいに、再び大合唱が広がった。
 彼女は声を上げて笑い、俺の肩に頭を預けた。
「ぷいぷい大合唱だ」
「賛同の歌だろう」
 噛まれる覚悟をしていたが、指は無事だった。
「こっちの方がよっぽどかわいいから!」
 耳を赤くした彼女が、スマートフォンの画面を見せてきた。
 モルモットたちを抱えた俺が写っている。眉間に皺が寄っていた。
 こんな顔をしていたか、俺は。
「ホーム画面にするもんね」
 ふふん、と得意げに笑う彼女の横顔を見つめる。
 ふと足元へ視線を落とすと、モルモットたちが俺たちを見上げ、またぷいぷいと鳴き始めた。
「何笑ってるの……」
「……いや」
 今度はもう、遮られても構わなかった。