『熱帯魚のいる部屋』
「はあ、やだなあ。長いなあ」
「長いな」
出張は一か月だと、彼女は少し困った顔で言った。キャリーケースの横にしゃがみ、膝に置いた手をぎゅっと握っている。俺はその言葉の長さを、日数としては理解した。三十日前後。四週間と少し。朝練と試合遠征を繰り返してきた身としては、決して未知の長さではない。
彼女は水槽の前で振り返り、「この子たち、お願いしてもいい?」と言った。その声がいつもより細かったから、俺は頷いた。「わかった」それだけ言うと、彼女はほっとしたように笑った。
水槽の中では、赤や青や黄色の小さな熱帯魚が、硝子の向こうで尾びれを揺らしていた。水草の間を抜けるたび、光が鱗に弾ける。
小さな花火みたいでしょ、と彼女は言ったことがある。俺には花火よりも、彼女が髪につける赤いヘアゴムや、揃いで買った青いマグカップや、雨の日に羽織る黄色いカーディガンのほうが先に浮かんだ。
彼女が出張に出てから、俺の生活は大きく変わっていないはずだった。朝起きて、ランニングに出る。食事をする。練習へ行く。帰ってくる。洗濯物を畳む。水槽の温度を確認し、餌をやる。
小さな粒が水面に散ると、魚たちは一斉に寄ってくる。赤い尾がひらりと翻り、青が光を裂き、黄色が水草の影を抜ける。ひとつひとつはただの色なのに、見ていると彼女の気配が戻ってくる。風呂上がりのシャンプーの匂い。台所で湯が沸く音。冷蔵庫を開けながら「若利くん、牛乳飲む?」と訊く声。部屋は同じ広さのままなのに、彼女がいないと少し空気が余る気がする。
水槽の隅に、黒い丸が三つ並んだ模様の熱帯魚がいた。
彼女が買った日に、両手を合わせて笑っていたものだ。「見て、夢の国で見た形じゃない?」と言われ、俺は硝子に顔を近づけた。尾の付け根に、丸い頭と耳のような模様があった。たしかに、以前ふたりで行った場所を思い出す形だった。人が多く、音楽が絶えず、甘い匂いのする菓子を彼女が嬉しそうに食べていた。俺はあの混雑を得意とは言えなかったが、彼女が隣でずっと楽しそうだったから、不思議と嫌ではなかった。
夜、乗り物だったか、パレードだったか、その光の中で彼女が振り返った時、頬に当たった照明が淡く揺れていた。水槽の中の模様を見ていると、その横顔が水面に映るように思い浮かんだ。
なんだこれは、と思った。
具合が悪いわけではない。腹が減っているわけでもない。疲労とも違う。生活に支障はない。魚の餌も忘れていないし、洗濯も食事も滞っていない。けれど、帰宅して玄関を開けた瞬間に、いつもあるはずの「おかえり」がない。食後の洗い物も、洗濯物の枚数も、いつもより少ない。楽だと思えるようなことが、毎日、俺の歩幅を少しだけ狂わせる。
いるのが当たり前だった。
台所に小さな背中があること。ソファで膝を抱えていること。歯磨きをしながら俺の今日の予定を聞いてくること。布団の中で冷たい足を俺の足にくっつけてくること。その全部が、いつの間にか俺の一部のように生活へ入り込んでいたらしい。いなくなって初めて、部屋の温度が違うと気づく。生活の色が薄いと気づく。外の子どもたちの声が、やけに大きく聞こえる。
その夜も、俺は水槽の前に立っていた。
ろ過装置の低い音が、静かな部屋に一定のリズムで響いている。水はかすかに青く、照明に照らされた泡が細く立ちのぼる。魚たちは眠る準備をしているのか、昼よりも動きが緩やかだった。小さな生き物が尾を揺らすだけで、水の中に道ができる。俺はしばらくそれを見ていた。
電話が鳴ったのは、その時だった。
『若利くん? 今、大丈夫?』
「ああ。魚に餌をやったところだ」
『ありがとう。元気?』
「元気だ。水質も問題ない。餌も食べている」
『あの子たちじゃなくて、若利くんの話』
電話の向こうで、彼女が笑った。ころころと転がるような声だった。硝子玉が木の床を転がるように、軽くて、丸くて、耳に残る。俺はその声を聞いた瞬間、肩に入っていた力が抜けるのを感じた。自分では力を入れているつもりもなかった。だが、首の後ろや指先が、湯に浸けたようにゆっくり緩んでいく。
彼女の声は不思議だ。目の前にいないのに、部屋の温度を少し上げる。
「俺も元気だ」
『さすが。ちゃんと自己管理してるね。よかった』
その「よかった」が、しばらく耳に残った。
『あ、冷蔵庫の作り置き食べてる?』
「食べている。まだひとつだけ残っている」
『結構作ったのにあとひとつなんだ……。それ食べ切ったら冷凍のもあるからね。ハヤシライスも作ってるから、鍋で温めて食べてね』
「わかった」
『ちょっと味濃いめかも。薄めたかったら……』
「牛乳でのばす。君がいつもそうしている」
『お、よく見てるね、えらい』
えらい、と言われるようなことではない。そう思ったのに、声には出さなかった。彼女にそう言われると、なぜか悪い気はしない。水槽の中で、赤い尾びれがひらりと動いた。彼女のヘアゴムの色だ。俺は硝子越しの赤を見たまま、電話を耳に当て直した。
「そっちはどうだ」
『忙しいよ。ホテル戻るともう足が棒。知らない土地って、道を歩くだけで疲れるね。でもごはんは美味しい。昨日食べた魚料理がね、すごく香ばしくて。藁焼き……だったかな?』
「そうか」
『若利くんにも食べさせたいなって思った』
その一言が、じん、と胸に落ちてきた。俺は返事をしようとした。店の名前を覚えておくといい、と言うつもりだった。だが、頭で言葉を選ぶよりも早く、口が開いた。
「会いたい」
電話の向こうが一瞬、静かになる。水槽の泡の音だけが部屋に残った。次の瞬間、彼女が息を吸い、それから明るく笑った。
『珍しいね! 若利くんがそういうこと言うの!』
「そうか」
『そうだよ。あ、録音しておけばよかった。もう一回言って?』
「会いたい」
『あは、ほんとに言うんだ』
「言えと言ったのは君だ」
『そうだけど……ふふ、どうしよう。嬉しい』
嬉しい、と彼女は小さく言った。その声は先ほどより少し柔らかかった。布団の中で眠くなった時の声に似ている。俺は水槽の硝子に映る自分の顔を見た。いつもと変わらない顔のはずなのに、どこか知らない男のようにも見えた。
会いたい。言ってしまえば、ずっとそこにあったものだった。言葉にしていなかっただけで、俺は毎日それを抱えて帰宅していたのだと思う。
「帰ってきたら……どこに行きたい?」
『わあっ』
「休みを合わせる。行きたい場所があるなら言ってくれ」
『まさか。デートのお誘い?』
「ああ」
『若利くんから? ほんとに!?』
「俺からだ」
彼女はまた笑った。驚いて、照れて、嬉しそうに笑う。声だけなのに、目元が緩んでいるのがわかった。唇に手を当てているかもしれない。足をぱたぱたさせているかもしれない。そういう彼女の仕草を、俺はいつの間にかいくつも知っていた。
『じゃあね、帰ったら水族館行きたい』
「魚を見に行くのか」
『うん。大きい水槽で見たい。若利くんよりでっかい魚探す』
「わかった」
『あと、帰りに甘いもの食べたい』
「ああ、わかった」
『あと、手つないで歩きたい』
「……いつもしているが」
『若利くんからしてほしいの』
「そうか。わかった」
言いながら、俺は少しだけ笑っていたのだと思う。硝子に映る口元が、ほんのわずかに緩んでいた。彼女と暮らす前の俺なら、水族館へ行く理由を考えただろう。魚なら家にもいる。
だが今は違う。彼女が行きたいと言う場所に、俺も行きたい。彼女が食べたいと言うものを、隣で見ていたい。彼女が手をつなぎたいと言うなら、こちらから手を伸ばしたい。
理由はあとからついてくる。先に、彼女の笑う顔が浮かぶ。
電話を切ったあとも、部屋には彼女の声の余韻が残っていた。ろ過装置の音、水の匂い、照明に揺れる小さな魚たち。赤、青、黄色。丸い耳のような模様。カーディガン、マグカップ、冷凍庫の作り置き、魚の餌の小さなスプーン。どれも生活の中にある普通のものだ。けれど、そのひとつひとつを目で追うたび、俺の中のどこかが彼女の方へ向いていく。
ひとりで立っていることに不自由はない。けれど、ふたりでいる温度を知ってしまった。彼女の声で力がほどけることを知ってしまった。帰ってきたらどこへ行きたいかと、自分から尋ねる男になっていた。
水槽の中で、赤い魚が青い魚のそばを通り過ぎる。その後ろを、黄色い小さな影が追いかける。光が揺れるたび、部屋の白い壁に水の模様が映った。
俺はその光を見ながら、彼女が帰ってくる日を数えた。三十日という数字は、最初に聞いた時よりもずっと長く感じた。けれど、水槽の魚たちは今日も元気だ。餌も食べる。水温も安定している。彼女に報告することは、いくつもある。
次に電話が鳴った時も、俺はまた言うのだろう。
会いたい、と。