かさねる二年目 Chapter5

Chapter5

「さんっみぃぃ……!」

 約束の土曜日、俺は山奥のキャンプ場に立っていた。
 日陰にはまだ雪が残り、冷えた風が容赦なく肌を刺す。吐く息は白く、ふわりと舞い上がって消える。季節の終わりと始まりが、肌の上で混ざり合うようだった。

 プロテクター入りの温かいバイクジャケットを羽織ってはいるものの、凍えてしまう俺をよそに、「ちょっと待っててね」と日村が言う。
 もこもこの上着にニット帽、ネックウォーマー。防寒に抜かりはない。日村は俺の手にカイロを渡すと、手早く焚き火の準備を始めた。
 雪と土の境目を踏むたび、しゃくしゃくと小さな音が響く。そのリズムに、なぜか少しだけ心が和む。
(それにしても──)
 まさか真冬に、しかもバレンタインのデートでキャンプだなんて。
 ソロキャンプが趣味なのは知っていたし、いつか一緒に、と願ったこともあった。でも、こんなに急にその日がやってくるとは思わなかった。何も準備させてもらえなかったことが、ほんの少し悔しい。
 
「お待たせ。寒いから、あたってて」
 日村の声に振り向けば、焚き火台の上の炎が小さく揺れていた。ぱちぱちと乾いた音が、山の静けさの中に浮かんでいる。
 彼女はそのままテントの設営に取り掛かった。さすがに見ているだけではいられず、「俺もやる」とカイロをポケットにしまう。
「先に、お湯沸かしてくれる?」
 そう言いながら、日村が鍋と焚き火台用のスタンドを取り出す。それを受け取ってお湯を沸かした。温かい蒸気が身体を包み込むと、思わず肩の力が抜けて、心も少し緩む。
 その背中でカツカツカツと音が響いた。振り返ると、日村が石でペグを打ち込んでいる。気づけばテントはもう形になっていた。
 
 どさっと荷物をテントに放り込んだ日村は、中からひざ掛けと春のアウトドアイベントで買ったランタンを持ち出す。
 ふうっと息をついた日村が、椅子に腰かけた。その顔には、準備を終えた人だけが持つ小さな達成感の色があった。俺も隣に座る。
「そのランタン、懐かしいな」
「覚えてたんだ。今日は日帰りだから出番はないけど……」
 かわいいから、と椅子のそばにぶら下げる。ランタンの傘には塗装の擦れや小さな傷。どれも、この一年の時間がきちんと流れていた証だと思えた。

「慣れてんな。焚き火も、こいつも」
 後ろのテントを指差す。
「趣味だからね」

 彼女が紅茶を淹れてくれる。カップを受け取り、一口含むと、喉から腹、そして全身にじんわりと熱が広がった。焚き火の温かさと重なり、芯からほぐれていく感覚が心地良い。日村はフーッと息を吹きかけて、マグの表面に小さな波を作っていた。
 彼女はちらちらと、こちらを見ては何か言いかける。でも、結局何も言わない。そういう仕草にも、最近はずいぶん慣れてきた。前なら、その沈黙が不安だったのに。
 
「散歩しよう」
「おう」
 
 日の当たる場所は、溶けかけた雪と光がキラキラと反射してい   た。冬の終わりと春の訪れ。そのちょうど間にいるこの景色が、素直にきれいだと感じた。

 しばらく歩くと、展望台にたどり着いた。
 柵に肘をついて町を見下ろす。そのすぐ隣に、日村が肩が触れそうなほど近くに立つ。
「なんで今日、ここに来たんだ?」
「うーん…」
 答えはすぐに返ってこない。後で話すね、と日村は穏やかな表情で空を見上げる。今は言葉より、景色や空気に自分を浸したい、そんな雰囲気が伝わってきた。

 購買所を目指して再び歩き出す。
 道は土と雪解け水でぬかるんでいて、まだ凍っている場所もあった。慎重に歩いていたつもりだったが、
「うおぉ!?」
 不意に足を滑らせて、尻もちをついた。冷たさよりも、情けなさが先にこみあげる。振り返った日村が、きょとんとした目で見ている。顔が熱くなってきた。
「大丈夫?」
 伸ばされた手に触れる瞬間、嫌な予感が過る。なんとか自力で立とうと力を入れたのに、逆にもう一度足を滑らせてしまった。今度は日村の手をグイッと引いてしまい、「わあ!?」と声をあげた彼女まで巻き込んで転んでしまう。 
 体勢を崩した日村が俺の胸に覆いかぶさる。
 沈黙が下りる。
 頬がじわりと熱を帯び、鼓動が強く耳に響いた。
 
「………すまねぇ」
「う、うん」
 
 動けないまま、ふたりでしばらく固まる。
 心臓の音がやけに大きく聞こえた。
(あーもう、うるせぇ)
 けど──
「………立てるか?」
 名残惜しさをこらえながら言うと、一瞬だけ日村がムッとしたように見え、ゴツン、と軽く頭突きをされた。「痛ぇ……」と額を押さえる俺を置いて、彼女は先に立ち上がり、歩き出してしまう。
 何か大事なものを取り逃がしたような、そんな気がしながら、俺も後を追った。

 購買所でインスタントラーメンとマシュマロを買った。
 テントへ戻り、再び火を起こして湯を沸かし、早速ラーメンを調理する。
 小皿に取り分けたラーメンをふうふうと息を吹きかけて啜ると、温かさが身体に広がり、染み渡る。
 寒空の下で食べるラーメン。
 なんでこんなに美味いんだ……。
 隣の日村は麺を啜るのが下手で、しかも火傷を恐れてやたらと息を吹きかけている。その姿を横目で眺めていると、なんだか胸の奥がくすぐったくなった。

「外で食べるラーメン、おいしいね」
「ああ、同じ事思ってた」

 食べ終えて片付けをしながら、ほっと一息ついたタイミングで日村が口を開く。
「バレンタインのお菓子つくろう」
「ここで作るのか?」
 その一言に、気まずそうな顔で「昨日、ブラウニー焼いたら焦げちゃって……」と小さく漏らす。
 続けて、「スーパーも閉まってて、どうしようと思ったときに母さんの手帳を開いたら、“雪山のキャンプ”と“焚き火でスモアを作る”って書いてあったから……」と理由も話してくれた。
 それで今日はここに連れてきたのかと、ようやく合点がいく。
「勝手に決めて、ゴメン」
 気落ちするように小さく縮こまる日村が、なぜか微笑ましい。むしろ、作ろうとしてくれたことが嬉しくて、思わず笑ってしまった。

 作るのはスモアと焼き林檎。調理の準備を進めながら、ふと、日村がぽつりと呟く。 
「確認、したいんだけど………」
 視線がそっと、こちらに運ばれてくる。ごくり、と喉の動きが伝わるほど静かになる。
「まだ、本命チョコ、ほしい……?」

 ──“本命”
 この一年、俺がどれだけ欲しかったか。

「ほしい」
 林檎の皮を剥く手を止め、真っ直ぐに見つめて答える。
「…………」
 日村はしばらく目を逸らさず、やがて顔を赤くして黙りこみ、マシュマロを串に刺して沈黙の隙間を埋めようとした。
 
 ああもう。
 本当に焦れったい。

 だから、先に言わせてもらう。

 
「お前が好きだ」

 
 日村が、目を見開いた。
「俺、お前のこと……ずっと考えてた」 
 初めてのデートの帰り道。無人島の夜。いつものラーメン屋。空っぽの座席。そこにいなくても、頭や心の片隅にはいつも日村がいた。
 
「……好きだ。マジで。どうしようもねぇくらい」
 
 止めどなく、言葉がこぼれる。自分でも驚くほどだった。
 彼女は黙って見つめ返してくる。その瞳に、ほんの少しだけ光が揺れていた。
 
「そんな、たたみかけないでよ……」
「返事、聞かせてくれねぇか」
「うん……」
 
 日村は、頬を赤くしたままマシュマロを焼き、チョコを割り、ビスケットで挟んでこちらに差し出してきた。

「これが本命、のつもり。……一応、チョコだし。
 だから、その……」
 
 もごもごと歯切れが悪く言い添える。前に「気持ちを言葉にするのは苦手」と言っていた彼女の姿が重なる。
「……………ッ、」 
 うまく言葉が出てこない自分に焦れている様子だった。しばらく黙ったあと、眉間に皺を寄せて目を閉じ、考え込む日村。
 
 数秒後、顔を上げて、
「…………言いたいことはね?」
「おう」
 
「友達でも、恋人でも……どんな関係でもいいから、窪谷須くんのそばにいれたら、いいな。と、思う……」
 
 そう言いながら膝掛けを握りしめる。目元まで赤くなって、瞬きをする隙間から見えた黒目が震えている。
 思わず拳を膝にぐっと握り直した。今にも抱きしめてしまいそうで、必死に自制する。
 彼女がそっと視線を外したその瞳には、いくつもの感情の揺れが映っていた。
 その揺れを見つめながら、次の言葉を待った。
 
 ぎゅうっ。
 日村が目を固く閉じた。
 震えた手を胸に当て、観念したように「はあぁ…」と深い息を吐き、ゆっくりとこちらを向く。眉尻がわずかに下がった、困ったような顔をして。

「…………好きだよ」

 ひゅっと乾いた音が喉の奥で鳴る。
 この冷たい空気のせいじゃない。自分の中から出た、熱い音だった。
 風に掻き消されてしまいそうな声だったが、確かに聞こえた。
 この一年ずっと、ずっと願って、焦がれてきた。
 日村からの「好き」という言葉。
 心臓が皮膚を突き破ってきそうなほど、騒ぎだす。

「何か言ってよ………」
 
 ハッと我に返って彼女の手を握る。続けて、
「どんな関係でも、いいんならよ」
 ほんの少しだけ顔を近づける。けれど日村は、逃げない。
「俺の、彼女になってほしい」
 一泊の沈黙が流れる。
 やがて、日村がそっと俺の手を握り返す。
「うん…」
 ふいに視線を下に落とし、空いた手で膝掛けの端を摘んで皺を伸ばす。その仕草が、愛しくてたまらなかった。
 
「一生大事にする」
「…………いっしょう」
 
 その一言に、日村は目を丸くしていた。
 重いって思われるかもしれない。でも、それが本心だった。

 再びお菓子作りを再開する。スモアの中に焼き林檎を挟み、日村は新しい味を想像してわくわくした顔を見せる。その無邪気さに胸が熱くなる。

「おいしい」

 ◇

 夕方。 
「夕日が見られるかも」
 日村がそう言い、展望台へ向かう。午前中と同じ場所も、夕暮れの光で違う顔を見せる。 
「いいな、ここ」
 
 ゆっくりと沈む夕日に一日の終わりを感じて惜しんでいたら、肩に温もりが重なる。日村が寄り添っている。
 そっと肩に手を添えてみると、彼女がこちらを見る。
 あの時と同じ目。
 マスク越しにキスしたあの日の、まっすぐな瞳。
 今は、もう何も隔てるものはない。
 お互いの白い息が混じり合う距離。顔を寄せ、唇が触れる直前で一瞬だけ止めた。

「……日村」
「うん……」

 羽が触れるみたいに、やわらかく、唇が触れる。
 呼吸も鼓動もごまかせないくらい、胸が騒ぐ。

「わぁ……」

 頬に手を添えて、言葉にならないまま、もう一度唇を重ねる。今度は長く、そして一度だけ角度を変えて。
 
 指先で彼女の手を探し、強く握る。
 震えているのがばれないように、力が入った。

 キスが終わっても、なかなか目を合わせられなかった。でも、どうしようもなく幸せだと、全身でわかった。

 夕日の残光が薄れていき、街に最初の灯りがともる。
 ジャケットに染みつく火と砂糖の甘い匂い。
 冷たい空気の中に、彼女の体温だけが静かに残る。

 今日の終わりに、俺たちの始まりが、そっと重なった。

「帰ろう」
「うん」

 二台のエンジンが同時に目を覚ます。
 並んだヘッドライトが、同じ道を照らし始めた。