かさねる二年目 Chapter4

Chapter4

 バレンタインが、またやって来た。
 去年は、その日が何だったのかすら意識の外にあった。でも、今年は違う。あの日、日村に「本命」を予約したこと、その日のことは、今も鮮明に胸の奥にしまい込まれている。
 上履きに履き替えながら、落ち着かない指先を意識する。
 下駄箱の前で瞬が立ち尽くしているのが見えた。あの去年と同じ場所。俺に気づき、彼は慌てて何かを隠すように声を張り上げた。

「よ、よォ亜蓮! き、今日はアレだな! お前の決戦の日だな!!」
「……おう。いやあ、朝から落ち着かなくてよ」

 二人で歩く校舎の廊下は、冬の朝の冷たさがまだ消え残っていた。
「日村さん、クリスマスにプレゼントくれたんだろ? 亜蓮のこと…す、好き…なんじゃねぇの?」
「……だといんだけどよ」
 冬休み前、日村からもらったレザー用の保湿クリームは、冬の愛車メンテの必需品になった。箱の中にツリーのカードも添えられていたけど、手書きの筆記体の英語が読めなくて、何度も何度も意味を探そうとして、それでもわからなくて、ただ自分の学の無さを思い知る冬休みになった。
「何考えてっか分かんねぇんだよな」
 デートもした。手も繋いだ。抱きしめた。キスを……しそうになった。去年より近い場所にいる。でも、彼女の白い肌がほんのりと赤く染まるたび、期待が膨らむ一方で、他人のようにそっけなくされる。そのたびに足元がぐらつく。
 今日、もしかしたら、彼女の本当の気持ちに触れられるのかもしれない。そんな根拠のない予感が、胸の奥でぬるい湯のように膨らんでいる。
 
(ハッ……!)
 教室が見えてきたところで、急に思い出した。無人島から生還したあと、泣きそうな顔で逃げていく日村を捕まえて、「チョコなんていらねぇ」と息巻いた、あのときの自分を。
(やべ、もしかして……チョコ、ないんじゃ……?)
 じんわりと、首筋に嫌な汗が伝う俺の顔を、瞬が心配そうに覗き込んでくる。
「どうした? 亜蓮?」
「いや、なんでも、ねえ……」
 気を取り直し、落ち着けと自分に言い聞かせながらクラスを覗く。けれど、まだ日村の姿はない。今日はギリギリで登校してくるのかもしれない。そう思って、いったん踵を返した。
 昼休みに再び教室を覗いても、やっぱり彼女はいなかった。
「あれ、窪谷須くん?」
 唐突に声をかけられて振り返る。日村のバンドメンバー、夢ちゃんだったと思う。
「聞いてない? ましろん昨日から風邪で休んでるよ」
「はぁ!?」
 聞いてなかった。むしろ最近はバレンタインに期待してると思われたくなくて、連絡すら控えていた。
 ドラムの子に礼を言い、教室に戻って鞄を掴む。
「亜蓮! どうだった……って、帰るのか!?」
「わりぃ、瞬! 日村が休んでっから早退するわ!」
 瞬が驚いて声を上げる。「慌ててどうしたの? 窪谷須くん」と夢原の声も、背中で遠ざかる。

 日村の家へ向かう途中、電話をかけるが繋がらない。
 しんどいのか、気づいてないだけか。
 心配だけがどんどん膨らむ。コンビニで差し入れを買い、急ぎ足で日村の家へと向かった。
 マスクを新しくつけ、インターホンを鳴らす。しばらく待って、やっとドアが開いた。
 ダウンジャケットを羽織り、マスクに冷えピタ、湯たんぽを抱え、風邪と闘う格好をした日村が現れた。頬は薄く赤く、小さな咳がこぼれた。だが思っていたよりは、元気そうだった。
「くぼやすくん……なんで、がっこうは……」
「ドラムの子に聞いてサボっちまった。心配でよ」
「ゆめちゃんか……。もう…テスト、ちかいのに………」
 なんでそんな状態で俺のこと気遣うんだ? 彼女の掠れた声と、ちぐはぐな言葉に、思わず笑みがこぼれる。
「差し入れ持ってきた。今日、親父さんは?」
「ありがとう」と受け取りながら「父さんは今日も帰ってこないよ」と、ピシャリと告げる。
 日村の父親は、命日に訪ねたときも家にいなかった。理由は聞いたことがない。たぶん、本人が話したくなるまで、待つしかないのだと思う。
 そういうわけで、体調不良のこの子を一人にする選択肢は、俺にはない。
「なあ、日村」
「ダメ。かえって。……うつる」
 俺の考えていることなんて、とうに見透かされている。でも、引き下がれなかった。
「どーせ飯食ってねぇだろ。作ったら帰るからよ」
 日村の片眉がぴくりと上がり、目を右に逸らす。最近、これが「図星」の合図だと分かるようになった。
「ほんとに、つくったらかえる……?」
 弱っているせいか、押せば扉が開きそうな気配をまとっている。結局、「ホントにすぐ帰らないとダメだからね」と念を押しつつ、家にあげてくれた。その瞬間、内心で小さくガッツポーズをしたのは、自分でも子供じみていると思う。

「ここ、好きにつかって」
 キッチンまで案内し、咳を一つこぼす。日村は「寝てたら起こしてね」と和室に消えていく。
 買ってきたパックご飯を取り出し、和室に向かって声をかける。
「日村ー。冷蔵庫開けるぞー」
「うんー」と、か細い返事が返る。
 大きな冷蔵庫の中には、果物とヨーグルトくらいしかなかった。
 自炊の気配がない。それは想像していたことでもあったが、実際に見ると胸の奥のどこかがきゅっと縮む。差し入れやスポーツドリンク、冷えピタを入れていく。
「あと鍋も使うぞー」
「あ、調味料も使うし、食器棚も開けるぞー」
 ひとつひとつ確認しながら進めていると、障子が勢いよく開いた。
 
「いちいち確認、いらない!」

 日村が声を張ると、障子はまたすぐに閉じられた。
 風邪でしんどいのに押しかけられて、きっと気が立っているのだろう。心の中で「スマン」と呟き、手早く支度に取り掛かる。
「たまごあっかなっと……」
 冷蔵庫を再び開け、卵を手に取ったとき、隅に板チョコやバター、生クリームが目についた。
(これ、お菓子の材料か?)
 ひょっとして、バレンタイン用?
 勝手な期待が膨らむのをどうにか抑えようとするのに、顔の筋肉は勝手に緩んでしまう。そんな自分を諫めるように、鍋が吹きこぼれる音がした。慌てて火を止め、コンロを拭きながらも、ニヤけは消えなかった。

「できたぞ。食えそうか?」
 和室をそっと覗くと、日村はマスクを顎にずらして眠っていた。その寝顔が、どうしようもなく無防備で──
(かわい……)
 口元が少し開き、微かな寝息を立てている。い草の香りが漂う静かな空間に、彼女の寝顔だけがぽつんとある。その横顔から、しばらく目が離せなかった。
 普段よりも肌も眉も薄い色に見える。肌の下に淡く青い血脈が透けるようだった。これ、いわゆる……すっぴん、なのかもしれない。見ていいものか迷った。
 ふと脱ぎ捨てられたダウンジャケットが気になり、ハンガーにかけようと思ったが、中に入るのはイケナイ、と思い、キッチンに戻ってマスクを外した。
 粥を器に盛り、多めに作ったぶんをラップして、いつでも食べられるように用意しておく。
 鍋を洗いながら、さて、と悩む。
 このまま帰ると鍵の問題もあるし、和室で寝顔を見つめ続けているのは、俺の心臓が持たない。
 リビングで、ふとお袋さんの遺影に手を合わせてみる。「お邪魔してます」と、心の中でだけ呟く。何か手伝えることがないかと見回すが、部屋はきちんと整えられていた。いや、そう見えるだけかもしれない。散らかる物がない。
 ただ、ソファの上には、栞もなく開きっぱなしの洋書。そばには斜めに立てかけられたギターがあった。けれどどちらにも触れられず、そっとその場を離れるしかなかった。
(することがねぇな)
 
 しばらくして──
「何で起こしてくれないの」
 日村がマスクをつけながら和室から出てきた。俺もマスクをつけ直す。
「わり、よく寝てたからよ。粥、食べるか?」
 日村はぬるくなった冷えピタを外しながら「うん」と返事をして、温め直したお粥を黙々と食べ始めた。
「口に合うか?」
「……鼻詰まりで味がよく分からないけど、おいしい」
 その声に、なぜか肩の力が抜けた。
「もう大丈夫そうか?」
「うん。だいぶ楽になった」
 心底ホッとする。自分の呼吸まで軽くなった気がした。
「いつも和室で寝てんのか?」
 宴会でも開けそうな広さの和室。その端っこにぽつんと敷かれた布団が、妙に印象的で気になっていた。
「体調悪いときだけ」
 日村曰く、二階の自室は体調が悪いときには階段がきつい。だから一階の和室で過ごす。キッチンやトイレにも近くて、デリバリーもすぐ受け取れる。だそうだ。
 一人で暮らすことに慣れきった無駄のない処世術。

 粥を食べながら、ときどきこちらを盗み見るように視線を寄越す日村。でも、目が合うと必ずそらされる。
 それなのに、たまにムッとした顔でじっと見つめ返してきて、そのくせ何も言わずにまた視線を逸らす。帰れと言いたいのか、それとも──分からない。
「ごちそうさまでした」
 手を合わせて、食器を下げる日村。洗おうとする手元からスポンジを奪い取った。冷たい水にできるだけ触れさせたくなくて、俺が洗い物を始める。
 泡を流そうとしたとき、不意に背後から、温もりを感じた。
 日村がぎゅっと抱きついてきた。
 
「………洗い終わるまで」

 風邪がうつるから早く帰れと言っていたのに、ずるい奴だと思う。洗い物は器とスプーンだけ。こんなの、すぐに終わってしまう。
 日村がぽつりという呟く。
「今日、来てくれて……ありがと」
「……おう」
 洗い物はとっくに終わっていた。でも、また彼女が何かを言ってくれるのを、期待して終わらないふりをした。
 制服越しに彼女の腕が、ぎゅっと、緩く、また強く絡んでくる。背中越しに伝わる体温と、呼吸と、かすかな匂い。
 日村はひとつ深く息を吸って、はあ、とゆっくり吐き出した。

「なんでこんなに安心するんだろ……」

 淡く、吐息のように零れたその声に、目の奥がじんわり熱くなる。
 蛇口を止めると、腕をほどく気配。離してなるものかと、くるりと向きを変え、正面からぎゅっと抱きしめた。
 
「風邪、うつる……」
「……今更だろ」
 
 マスク越しでも、彼女の呼吸がかすかに震えているのがわかる。
 コツン、と額を合わせる。熱がじわりと伝わる。
 本当は冷えピタを貼り直して早く休ませるべきなのに、日村の手が制服を掴んだままでいる。その力を、言い訳にしてしまう。
 
「……………顔、近い」
「そうだな」
 
 日村は視線を逸らすけれど、距離は離れない。
 俺と同じ気持ちなのかもしれないと、ほんの少しだけ期待した。
 パチリと目が合う。マスクのせいで表情は読めない。それでも、その瞳だけが、確かに期待の色を宿していた。
 そっと顔を近づけると、睫毛が微かに揺れた。でも、彼女は目をそらさなかった。

 ──ほんとバカだ。こんな時に。

 ふわり、と互いのマスクが触れ合った。
 布を隔てて、確かに体温が伝わってくる。唇の柔らかさというより、彼女の存在がそのまま胸に触れてくるような感覚だった。
「………バカじゃないの」
 照れたように顔を逸らし、耳まで赤くなる日村。
「………知ってる」
 マスクの鼻のあたりを整える。ただの照れ隠し。それでも、彼女が嫌がっていないとわかると、心から安心できた。
 ふっと目を細めて、じっと俺の目を見つめる。
「明日は、登校するから」
  俺の肩に額を当てて、「たぶん」とつけ加える。
「無理はすんなよ」
 こくりと頷き、また制服の裾をぎゅっと握りしめる。その小さな手に、「もう少しだけこのままでいてもいい?」と無言で言われている気がして、嬉しくなる。だが──

「………はあ」

 男なら、もっと辛抱強くあるべきだ。簡単に触れたり、寄りかかったりしてはいけない。そう思ってきた。
 けれど、彼女の柔らかさや温もりに触れてしまうたび、どんどん自分の欲が大きくなっていく。
 こんな気持ちは、不誠実なんじゃないか。
 そう思うと、思わずため息がこぼれる。
 
「……疲れてるの?」
 
 日村が顔を上げて問いかけてくる。一年前も、同じように訊かれた。あの頃から、疲れよりもしんどい感情をずっと抱えてきた気がする。
 彼女はそっと体を離し、食器棚の引き出しを開ける。中には、海外のパッケージ菓子がごちゃ混ぜになって入っていた。伯父からの仕送りで、毎月届くらしい。
「好きなだけ持ってって」
 得意げに、けれど鼻声で言う日村。(俺の気も知らずに……)と、心の中で呟く。
 
「あ!」
 
 見慣れないお菓子を手に取った瞬間、日村が何かを思い出したような顔をしていた。
「どうした」
「バレンタイン……」
 呟きながら、しおしおと眉尻が下がる。
 今さら? と内心で思いながらも、今日もらえないのは仕方がない、とすでに納得していた。
 しばらく悩むように口ごもったあと、ぽつりと聞かれる。
「土曜日、時間ある…?」
 もちろんある。二つ返事で頷いた。

 薬を飲ませてから、家を出る。
 もらったスナック菓子をかじりながら帰る。濃厚なチーズ味。どこか遠い国の味のはずなのに、妙に懐かしい。サクッとした音が、夕暮れの帰り道に小さく響いた。頭の中には、あの言葉だけが何度も反響している。

 ──なんでこんなに安心するんだろう。

 その答えを、まだ俺は知らない。
 でもきっと、これからも彼女の隣で、ゆっくり探していくのだと思う。