かさねる二年目 Chapter3

Chapter3

 九月。新学期が始まって、間もなくのことだった。
 一人の転校生が教室に現れた。相卜命。占いが得意で、人の“オーラ”が見えるのだと、瞬が言っていた。
 女は教室に足を踏み入れるなり、まっすぐこちらへ歩いてきた。距離感を測ることも、躊躇いもなく。
「わお!アンタのオーラ半端ないわ。鋭いギザギザオーラに襟足のオーラ」
 その口ぶりは冗談めいていたけれど、その目つきだけは、真っ直ぐに奥底を射抜いてきた。俺の過去の影をこの女だけが知っているかのような錯覚に陥る。……なんだこいつは。
 ヒヤリと冷たいものが背中を伝って落ちていく。
「アンタ名前なんてーの?彼女いんのー?」
 馴れ馴れしく腕を絡めてきて、ゾワッと鳥肌が立った。
「離れよオイ!」
 咄嗟に語気が強くなってしまったが、相卜は引かなかった。
「アタシ強い男好きなんだよね〜♡」
「知らねぇよ!!」

 あークソッ。と、つい舌打ちが出そうになる。 
 こんなとこ、日村に見られたら……。
 
 そんな焦りが胸の奥をざわつかせる。でも相卜は、「あーでも、運命の相手ではなさそーかな…」とあっけなく離れていった。
(やっと離れたか……)
 ホッとしたのもつかの間。教室のドア越しに、誰かの気配を感じて振り返る。──日村がいた。
「才虎くん、いる?」
 息が詰まり、心臓が跳ねる。見られてしまったのではないか、という焦燥が走った。
 だが才虎は平然と「ここだ、日陰貧乏」とふざけた呼び方をする。呼ばれた本人は俺をひと撫でるように見やった。けれどすぐに視線を剥がして、才虎のほうへと歩き出した。
 才虎は得意げにタブレットを掲げて、段取りをまくし立てている。日村は淡々と応じ、感情の波に呑まれない。二人の間に特別な気配は、ないはずだった。
 そう、理屈では分かっていた。けれど胸の奥が重く沈む。
(あの距離感……。なんで才虎と日村が一緒にいんだ?)
 やりきれなさが喉を焼いていく。横から相卜がヒソヒソとささやきた。
 
「クボンヌ、あの子にラブっしょ? ジェラオーラ出てるワラ〜」
 
 分かってんなら近づくんじゃねえ。そう思い、睨み返す。
 さらに、相卜がもう一言ささやいたことで、二人から目を離せなくなってしまった。
 
 最近、日村と連絡を取る回数が少しずつ増えていた。順調なはずなのに、才虎や相卜に邪魔されるなんて絶対に嫌だった。
 たった一瞬、日村が才虎にチョコを渡す場面を想像してしまい、背中にゾゾゾと冷たいものが這い上がる。

 チャイムが鳴って、才虎と日村は話をやめた。俺にも何か反応があんじゃねえか、と淡い期待を抱いたが、彼女はまるで何事もなかったかのように教室を出て+組に戻っていった。
 まるで他人のような距離感。だが付き合っているわけでもない。それでも時々、友人未満のような寂しさを感じてしまう。
「俺だけが特別でありたい」
 そんな身勝手な願いだけが、胸の奥でじわじわと膨らみ続ける。

 ◇

「おい、日村?  聞いてるか?」
 九月も半ばを過ぎて、昼間の日差しはまだ強いけれど、木陰にはほんの少しだけ秋の涼しさが混じりはじめていた。
 校庭で二人、昼食を食べている。けれど日村の意識は、遠くにあるようだった。
「なんか、ぼーっとしてんな」
「んー、ちょっと、考え事……」
 放課後、どこか食べに行こうぜと誘うが、「今日は行かない」とすげなく断られる。
(体調が悪いふうでもねぇが……)
 黙々とパンをかじる日村。その瞳は、何も映していないように見えた。
「ふう」
 食べかけのパンを袋に戻したとき、鞄の口から小さな手帳が覗いた。角は擦り切れ、輪ゴムは伸びきり、表紙には指の脂でできた艶がある。
 長く使い込まれたものだろうな、と直感する。彼女は鞄の整理はしないが、物持ちはいい。前に、バンド仲間からもらったピックが割れたときも、修理方法を一生懸命に調べていた。だから、この手帳も大事にしてきたものだと、自然に受け止めた。
「……………」
「な、なんだよ……」
 日村が何も言わずじっと見てくる。その視線は、言葉よりも遥かに重く、長い沈黙のあと、「はあ」と小さく息を吐いて雲の切れ間を探すように空を見上げた。
 ぼうっとしながら、紙パックのジュースを、まるで味などないもののように口に運んでいる。
 
 教室に戻る途中、日村がぽつりと呟いた。
「転校生と仲良くなるの、早いね」
 その言葉は、笑っているようで笑っていなかった。
 まあ同じだもんね、と付け足す声は乾いていて、返事を待たずに+組へ消えていった。
 最初は何のことか分からなかった。けれど、相卜に腕を組まれたあの日のことだとすぐに気づいた。
 もう二週間も前のことなのに。やっぱり見られていたのか、と内心で戸惑う。それと同時に、あの時は他人のように振る舞っていたくせに、今はこうして嫉妬めいた言葉をかけてくる。そのことが、不本意にも胸に残った。

 ◇

 放課後。部活が休みの日村を誘ってみた。
「一緒に帰ろうぜ」と言ってみるが、
「今日は一人で帰りたい」と、そっけなく返されてしまった。
 仕方なく、燃堂や瞬、斉木といつものラーメン屋へ向かう。その道すがら、燃堂の父親の墓参りにも付き合うことになった。命日は過ぎていたけれど、今日がいいらしい。
 
 墓参りを終え、店に向かう途中で、花束を抱えて歩く日村と出くわした。視線は遠くのどこかを彷徨っている。
「あ……」
 彼女がこちらに気づいた。その目が、ほんのわずかに光を帯びた気がした。
「あ! 日村さん!」
 瞬が声をかける。彼女は気まずそうに足を止め、小さく手を振った。
「お?何持ってんだー?」
 燃堂が無遠慮に近づく。その背中を追いかけながら、今この状況で、無神経に絡むことへの躊躇が浮かぶ。
「おい燃堂!  さっさとラーメン行くぞ! ……日村、またな」
 そのまま立ち去ろうとした。でも、燃堂の何気ない一言で、ピタリと足が止まる。

「オメーそれ花か? 墓参りでも行くんか?」

 そんな話は聞いていなかった。日村の表情が、一瞬だけ固くなる。ちらりとこちらを見て、目が合う。
「オレっちはさっきしてきてよぉ」
「………そうなんだ」
「おう、父ちゃんのな。会ったことはねーけどなぁ」
 日村の顔が凍りつく。唇がきつく結ばれ、目を伏せる。
 気まずい空気を感じながら、燃堂を急かしてその場を離れようとした、そのときだった。
 制服の裾に、小さな力がかかる。
「今日は……花を買って、帰るだけだから」
 花束を握る手に力が入り、茎がかすかに折れる音。彼女は息を呑み、折れた部分を指先でなぞった。
「どうかした? 日村さん」
 瞬が心配そうに尋ねる。彼女はかすかに笑って「いや、なにも」と答えたけれど、その笑顔には影があった。
 一緒に帰った方が良かったかもしれねぇ、と後悔がよぎる。
「みんなでどっか行くんでしょ? ……じゃあね」
 そう言って、日村は一瞬だけこちらを見る。そしてすぐに視線を落とし、歩き出した。斉木が、その背中を珍しく見送っていた。
 斉木でさえ気にするんだ。絶対、何かあるはずだ。

 ◇

 ラーメンを食べて別れたあと、一目散に日村の家へ向かった。インターホンに手をかけるとき、指が微かに震える。
 しばらくして、日村がドアを開けた。その目が、夕日のせいだと信じたかったが、わずかに赤かった。
「……ちょっと、話せるか?」
 自分でも驚くほど、声が上ずる。なぜこんなにも緊張しているのか分からない。

 日村の家のリビングは、静まり返っていた。声を出せば、部屋中に響き渡るのではないかと思うほど、物が少ない。
 まさか家に上げてもらえるとは思わなかった。彼女は、人を自宅に招くことに慣れていない、そう思い込んでいたから。
 カウンターの上には、女性の写真が飾られていた。どこか見覚えのある表情。日村によく似ている。その傍らに、昼間見た手帳と花束があった。この光景の意味は、すぐに理解できた。
「日村……」
「紅茶、アイスでいい?」
「あ、ああ……」
「ソファ座ってて」
  促されるままソファに座る。広いリビングの一角。正面にテレビと、それを支える背の低い棚。海外ミュージカルのDVDや外国の絵本が几帳面に並べられている。
「話って?」
 グラスを渡し、隣に腰を下ろした日村。氷が沈黙のなかで乾いた音を立てる。
 彼女は、ホットティーのマグを両手で包み、ふう、と息を吹きかけている。紅茶の湯気と、彼女の落ち着いた匂いが、部屋に満ちていく。
「今日、いつもと違ってたからよ……」
 遺影に視線を向ける。
「でも、そこの写真見て、理由が分かった」
 日村は小さくため息をつき、「そっか……」と呟いた。
「……もう何年も前のことだから、……平気、なんだけど、やっぱり、思い出すから……」
 湯気の立つ紅茶を口に運びながら「今年は……窪谷須くんのこともあったし」と続けた。
 視線を逸らし、紅茶の表面にふっと息を吹きかける。その仕草を見ていると、夏の遭難後のことが蘇る。
「無理して話さなくていいからな」
「大丈夫」
 彼女は微笑んでみせたが、その顔には痛みが残っていた。

 やがて、母親の古い手帳を開き、中を見せてくれた。挟まれていた写真には、幼い日村と、頬を寄せる母親が写っていた。子どもらしい無邪気な笑顔に、胸が締めつけられた。
「したいこと、まだたくさんあったみたい……」
 ページをめくりながら、インクの掠れた母親の文字を指でなぞる。その指先の温度が、消えかけた記憶を呼び起こしていくようだった。
 その仕草を見ているうちに、彼女の涙や、他人との間に引いてきた境界線の理由が、ふいに胸に沁みてくる。
 また誰かを失うかもしれないという恐怖。その痛みを知っているからこそ、人との距離を測ってきたのだろう。

「もう慣れたよ。この生活も…この日の過ごし方も」

 マグカップを両手で包み、湯気を見つめる。彼女の瞳の奥に揺れるものに、春の記憶がよぎる。後輩にギターを教えていたあの日、誰のことも見ていないような遠い目をしていた。あの目の奥にある脆さに、理由もなく惹かれていたことを、今になって思い出す。
 寂しさや哀しさを隠す日村のそばで、頼られたい気持ちがむず痒くうずく。
 気の利いた言葉なんて出てこなくて、思わずグラスを置き、彼女を抱きしめた。思考よりも、体が先に動いていた。
「え、あ……」
  彼女の手が戸惑うように宙を彷徨う。やがてマグカップをそっとテーブルに置いて、彼女もふわりと抱き返してくれる。
 分かってしまった。
 この子は、視線や態度で自分を守っている。
 けれど、俺の前ではそれを全部取り払ってもいいと、知ってほしかった。心がざわつくときは、頼ってもいいと伝えたかった。

 ──守るってのは、力で庇うことだけじゃねぇ。
 大切な人が安心して毎日を過ごせるように、そばにいることだ。
 
 もしまた哀しみの日が訪れても、その痛みを分け合いたいと願った。
 身体を離すと「びっくり、した……」と少し照れたように目を逸らした。その日村の表情に、腹の奥から温かなものがこみ上げる。

 ……抱きしめた時の体温が、まだ手のひらに残っている。
 それを確かめるように、頬に、唇に、指を滑らせる。

(ダメだって分かってんのに……)

 顔をそっと近づける。
 その瞬間、日村の目が大きく見開かれる。小さくなっていく氷がカラッと音を立て、頭に冷たい水を浴びせられたように、我に返る。

「……!? やべ…ッ!」

  慌てて顔を離し、手を引っ込める。
(危なかった……!)
 妙に気まずくて、視線の置き場も分からなくて、ただ目を伏せた。
「……すまねぇ」
「ふ、不意打ち、されるかと……」
 湯気が立つかのように頬を赤らめる。その仕草に、胸がまた苦しくなる。咳払いでどうにか気持ちをごまかしたあと、ゆっくりと息を吸って、呼吸を整える。
 
「なあ日村。今日みたいな日が、また来たら」
「………うん」
「俺を呼べ。………そばに、いるからよ」
 
 一瞬、日村の目が丸くなる。しばし瞬きもせず、こちらを見つめていたが、やがて目が潤み、何かを堪えるように瞬きを繰り返した。
 その表情に打たれた気がした。
 そっと日村の手を握る。本命チョコだとか特別だとか、今はどうでもよかった。ただ、安心してほしい。その思いだけが、指にこもる。
「……うん。呼ぶ……」
 かすれた声でそう言い、指先がぎゅっと力をこめる。

 自分のなかで「好き」とは違う感情が、静かに芽生えていく。温かくて、柔らかくて、守り育てたいもの。

 日村のマグカップから湯気が消えるまで、もう一度だけ抱きしめた。自分のグラスでは、氷がすっかり溶けて、透明な上澄みが浮いていた。
 
「氷、入れなおす?」
「このままでいい」

 いつの間にか、二つの紅茶は同じ温度になっていた。

 ◇

 帰り際、一緒に母親の遺影に手を合わせる。

「お袋さんの手帳、何て書いてあんだ?」
  ふいに思い出して訊いてしまう。
「したいこと、書いてあんだろ?」
「ああ、色々。例えば……」
  春、夏、秋、冬。季節ごとのリストを日村が読み上げる。 「疲れそうな事ばっかり書いてあるよね」
  ふっと笑い、遺影を懐かしむように見つめる。彼女の母親がどんな人だったのか、ぼんやりと想像する。
「でも、それ、実現できたら……いいよな?」
 そう言うと、日村は「え?」と目を丸くした。
 彼女が八歳のときに書かれた「娘とやりたいこと」は、数ページにもわたっていた。生きていれば、そのページはもっと増えていたはず。無念を晴らしたいわけじゃない。ただ、手帳を開くたびに、少しでも満たされてほしいと思った。
 ……それに、これからも関わる理由ができる。
 忘れていた“特別感”が、顔を出す。
 日村は少し考え、やがて微かに口元をほころばせる。

「何から実現する?」

 付き合ってくれるんでしょ、と視線を投げてくる。その目に、もう脆さはないように感じた。
「今の季節で、できることから」
「じゃあ……“落ち葉と集めた松ぼっくりの焚き火でさつまいもを焼く”」
「付き合う」
  頷いた日村の瞳に、かすかに楽しそうな光が灯っていた。
 窓の外を風が通り抜け、これからの時間をそっと約束するようだった。