かさねる二年目 Chapter2

Chapter2

「──ハッ」

 目が覚めた瞬間、焼けるような日差しが視界を染めた。どこまでも青い空。肌を刺すような陽射しに、潮の香りが混じって鼻をくすぐる。
 足元には、白く乾いた砂──見知らぬ、けれどどこか異様に静かな海辺だった。
(……ここ、どこだ)
 重たい身体を起こして、あたりを見回す。岩陰には見知った顔ぶれ──斉木、才虎、燃堂、照橋さん達。
 最後に目を覚ました瞬が、状況を呑み込み始める。
 船が事故に遭い、俺たちは遭難した。スマホも流され、連絡手段はない。
 誰も大怪我していなかったことが、唯一の救いだった。

 けれど、頭に浮かぶのは別の顔。
 無意識に口の中で、彼女の名前を転がす。

 *

 時間は少し遡る。
 あの日、俺たちは才虎の大型客船で二泊三日の旅行に出る予定だった。「誰を誘ってもいい」という才虎の太っ腹な発言に甘えて、真っ先に日村の顔が浮かんだ。

 放課後、軽音の部室に向かっていた彼女を捕まえて誘ってみた。メンバーを伝えた瞬間、日村の顔がわずかに曇ったのが分かった。
「よく知らない人たちと泊まりは、ちょっと無理」
 言い方こそ穏やかだったが、即答だった。まあ……予想はしてた。ダメ元ってやつだ。
「楽しんできなね」と日村はあっさり背を向けた。もう興味を失ったとでも言うように。
 俺は笑って「土産話でも持って帰ってくるわ」と返したけれど、あの時、ほんの少しだけ胸の奥がチクリと痛んだのを誤魔化したのかもしれない。

 *

 まさか、こんな形になるとは。
 無人島に遭難して、誰にも連絡できない。

 日村が来なくて本当によかった。

 もし彼女が同じ船に乗っていたら、無事でいられた保証はない。そう思うだけで、喉の奥が詰まりそうになる。……あいつに何かあったら、絶対に自分を許せなかった。
 いかだを作って脱出を図る。手段は何でもいい。生きて帰って、日村に会いたい。無事に帰れば、日村はいつものように「大変だったね」って、さも他人事のように笑ってくれるかもしれない。

 その“日常”に戻れるだけでいい。
 それだけが、俺の希望だった。

 絶対、生きて帰って──日村に会ってやる。

 ◇

 救助されてからの数日は目が回るようだった。
 助けられた俺たちはすぐに病院へ運ばれ、検査を受けた。駆けつけた親父とお袋が泣きながら抱きしめてきて、俺はただ黙ってそれを受け止めた。
 その後は、警察の事情聴取。どうやら報道番組でも取り上げられていたらしく、実名こそ伏せられていたが、世間は思った以上に騒いでいたらしい。

 数日後、ようやく登校できた朝。
 昇降口で待ち構えていたクラスメイトたちに囲まれ、教室まで連行された。
 ──いや、待て。+組に…、日村に会わせてくれ。
 
 放課後になっても、担任がやけに長引かせたホームルームのせいで出遅れた。慌てて+組を覗いたが、既に日村の姿はなかった。部活だ。さすがに部室に押しかけることはできなかった。
(……仕方ねぇ、終わるまで待つしかねぇ)

 部活終了のチャイムが鳴った。
 視聴覚室の扉が開き、軽音部の部員たちがぞろぞろと出てくる。
 そして──
 日村が、ゆっくりと姿を現した。

 目が合った。日村が、立ち止まる。
 こちらを捉えて大きく見開かれる瞳。
 ああ、やっと会えた。
 そう思った瞬間だった。

 日村がムスーっとした顔をして、ふいに顔をそむけて踵を返した。まるで逃げるように。
「日村!? ちょっ……待て!」
 俺は慌てて追いかける。軽音部の連中の視線が突き刺さるが、どうでもいい。
(なんで……なんでそんな顔すんだよ)
 やっと戻ったのに。生きて、ちゃんと会いに来たのに。

 空き教室の前で、ようやく追いついた。荒い息を吐きながら、ようやく言葉を絞り出す。
「……日村、戻ったぞ……」
「……うん」
 応える声は小さく、顔を上げようとしない。その態度に胸がざわつく。
「……怒ってんのか?」
「怒ってない」
 語気は平坦。でも、分かる。嘘だ。絶対に怒ってる。怒りというより、何か、他の感情が渦巻いている気がした。
「……連絡、できなくて……スマン。朝も昼も、教室の連中に捕まってよ……遅くなっちまった」
「……別に」
 刺すようなその一言に、言いようのない冷たさがのしかかる
(……んだよ。俺だけか? 会いたかったのは)
 静かに頭を回転させる。どこで間違えた?
 旅行に誘ったときの、あの微妙な表情が脳裏に浮かぶ。
 そういえば、女子がいると伝えたとき──あいつ、少し間を置いてから断った。
「女子もいた、から……?」
 不用意に漏れた言葉に、日村の眉がピクリと動いた。
「……私が嫉妬で怒ってるって言いたいの?」
 声が低く沈む。腹の底どころか、氷の下から湧き上がるような響き。
 その表情が静かに歪んでいくのを、俺は見ていた。

「馬鹿にしてるの?」
「いや、ちが──」
「嫉妬なんかで……。こんな──ッ」

 そのまま、手を上げかける。けれど、ぎりぎりで止まった。
 泣きそうな顔で、何かを言いかけた唇が震え、やがて「もういい」とだけ吐き捨てて背を向ける。
 咄嗟に手を伸ばした。
「待てよ!」
 細い腕を掴む。睨むように振り返る日村。その視線には、冷たく鋭い棘が刺さっていた。昔なら、この視線に一瞬で本能が疼いた。けれど今は──違う。

「手、離さないと、本命チョコ……あげないよ」

 震えた声で言うその言葉は、まるで“逃げるための口実”だった。
 ──分かってた。
 でも、それでも。
(ふざけんな)
 歯を食いしばる。
 そんな“つもり”の関係なら、俺たち、最初からこんなに向き合ってねぇだろ。
(……ナメんなよ)
 ぐい、と腕を引き寄せた。

「いらねぇよ、そんなもん」

 驚いたように肩が震える。
「俺の何が気に食わねぇのか……何がそんなに怖ぇのか、言ってくれんなら、チョコなんかいらねぇ」
 目を逸らす日村。沈黙が重く降りる。掴んだ手に、つい力が入った。
「……いたっ」
 その声で我に返り、少しだけ力を緩める。でも、離さない。
「日村……頼むから……」
 沈黙のまま、時間だけが過ぎていく。
 やがて、日村が小さくため息をついた。
「……後ろ、向いて。……話す」
 手を離し、言われた通りに背を向ける。
 後ろで、日村がひとつ呼吸を整える音がした。

「土曜日、高校生が行方不明になったってニュース、見て……」
「……(ああ、サツも言ってたな)」
「最初は、嘘だと思った。でも、月曜に登校して、みんな照橋さんの名前呼んで、泣いてて、巛組を……のぞいたら、みんな…、いなくて……」

 声が震えだす。振り向きたい。けど、振り向けない。

 ──トンッ。
 背中に、何かが触れた。
 日村が額を、そっと俺の背に預けていた。

「ダメって分かってるのに……なんども考えて……、みんなは……くぼやすくんは、もう……って……」

 嗚咽ではなく、押し殺された呼吸と共に、小さな震えが服越しに伝わってくる。

「“もう”……こういうの、いや……」

 その一言が、胸を抉った。

 振り向こうと思った。けれど、日村はきっと拒む。
 彼女の両手を掴み、俺の腰に回させた。
 俺の身体を、後ろから包むようなその細い腕が、震えていた。
 熱を帯びた体温が、俺の心臓に染み込んでいく。
「すまねぇ、日村……」
 巻きついた手首に、そっと指を添える。
 その震えに、胸の奥がぎゅうっと締めつけられる。
(……無理に言わせた。俺は、何も分かってなかった)
 背後で、ぎゅっと腕の力が強くなる。

「……顔、見たら……もう、ダメだった……」
「……日村」
「ヤな態度とって……ごめん……」
(ああもう、──ダメだ) 

 ゆっくりと身体を向けて、日村と正面から向き合う。
 潤んだ瞳に、俺の顔が映っていた。

 言葉なんて、もういらなかった。
 そっと、抱きしめた。丁寧に、包み込むように。

 日村が俺の肩に顔を埋める。背中を、きゅっと掴まれる。
 その手に込められた“確かめたい”という願いに、胸が詰まった。

「おかえり、窪谷須くん……」

 ──ああ。
 この小さな背中が、俺の中でどれだけ大きな存在になってたか。
 もう二度と、泣かせたくねぇと、心から思った。

「……ただいま、日村」

 ◇

 気づけば、外はすっかり夜の帳が下りていた。
「帰るか」と声をかけると、日村がむすっとした顔で口を尖らせる。
「……怒ってる?」と訊くと、今度は即答だった。
「怒ってる」
 そう言って、ぎゅむっと俺の頬を片手でつまんで引っ張る。
「いってぇ……」
 されるがままの俺に、日村は左手をちらりと差し出した。手首の内側には、うっすらと赤く残る輪っかの跡。さっき、俺が強く掴んだせいだ。
 罪悪感に眉が寄る。だが、俺の頬はすでに両手でびよーんと引っ張られていた。
「…………さっきも言ったけど」
 指をゆっくりと俺の頬から離し、そのまま包み込むように掌を添える。日村の視線が、そっと重なる。
「こういうの、ほんとに、やだ……」
 小さく、唇の端が震える。
 その表情を見て、俺は真っ直ぐに頷いた。
「ああ。……俺も、やだ」
 短くても、真摯な言葉だった。それだけで、日村の表情が少しだけ緩んだ気がした。
 最後にもう一度、ぎゅっと抱きしめる。
 この温度が、確かに生きて戻ってきた証だと、心から思えた。

 ◇

 帰りの道すがら、互いに多くは語らなかった。けれど、隣を歩く彼女の呼吸に、ようやく安堵が混ざっているのがわかった。
(何か、してやりてぇ……)
 言葉じゃ足りねぇし、形あるもんで補えるとも思わねぇ。けど、それでも何か。
 そんなことを考えていたとき、日村が歩道脇の段差にひょいと上がって、バランスを取りながら歩き出した。ふとした瞬間に漏らすような声で、ぽつりと言う。
「ΨΨダムって、知ってる? ちょっと遠いけど、涼しいらしいよ」
「ん?おお……」
「なんか、面白いカレーとかもあるんだって。バイクで行けるし……」
 まるで誰かを誘ってるわけじゃない、ただの独り言みたいな口調。けれど、その“言い方”には確かに、“誰かと行きたい”気持ちが込められていた。
 その意図に、俺は気づかないふりなんてできなかった。
 よろけそうになる日村に、そっと手を伸ばす。すると彼女は自然な仕草で、その手を握ってきた。細くて、少し冷えた指。それでも、繋いだ手のぬくもりはしっかりと伝わってくる。
「……行こうぜ。一緒に」
 日村が一瞬だけ、目を細めて笑った。
「……うん」
 その返事が、まるで日常を迎えに来てくれたようで俺は心の底から、ほっとした。けれど、胸の奥ではもう一つの想いが脈打っていた。

 ──もう絶対に、この子の傍を離れねぇ