Chapter1
三月の半ば。春休みまであとわずか。昼休みの廊下で俺は+組の教室をこっそり覗き込んでいた。
目当てはもちろん、日村。
彼女はバンド仲間に囲まれながら淡々と何かを話していた。距離があるのに、声のトーンや雰囲気で“いつも通り”なのが分かる。
チャラそうなボーカルの男が、ドラム担当の女子──確か夢ちゃんって呼ばれてた──に頭を叩かれて笑っていた。斉木に雰囲気が似た、無口そうなベースの男が日村に紙を渡していて、それを一緒に覗き込んで話している。
(……なに話してんだ。気になる……けど今は無理か)
今の空気に割り込むのはさすがに場違いだ。そう思って踵を返しかけたところに、横から声が飛んできた。
「おやおや? 誰かと思えば窪谷須くんじゃないッスか〜。今日はチワワくんと一緒じゃないんスか? それとも、+組に何か用?」
鳥束だ。
チャラついた態度に毎度イラつく相手。斉木の知り合いじゃなきゃ、とっくにぶっ飛ばしてる。
「別に……気にすんな」
と、そのやり取りに気づいたのか、さっきのボーカルの男が日村の肩をつつき、俺の方を指差した。彼女がこっちを見て小さく頷いて近づいてくる。
「……どうしたの?」
その冷静な声に、鳥束が「ヤベッ」とか言いながら逃げていった。睨みもしてねぇのに。なんなんだその差は。ちょっと笑ってしまう。
「ちょっと……話したいことあんだけど」
「いいよ」
廊下の端へ移動する。間近で見る日村は少し驚いたような目をしていたけど、特に警戒はしていない。
「なぁ、三十日……空いてっか?」
「三十日……」
顎に手を当てて何か考える日村。
(予定、あんのか…?)
「……うん。大丈夫。空いてる」
「じゃ……映画、観に行かね?」
「うん。行く」
日村の返事は短くて静かだったけど、ほんの少しだけ、語尾が弾んで聞こえた。
その小さな音に、俺の鼓動は無駄に跳ねた。
◇
当日。
鏡の前で髪を整えながら、意気込みだけは完璧だった。
(今日は俺が日村をリードする。最高のデートにしてやる)
そう思って家を出ようとした直前。スマホに日村からのメッセージが届いた。
『バイクで来て』
……バイク? なんだ急に。
合流して理由を訊いても「ごめん、理由は後で話すから」としか言わず、先にバイクを走らせる日村。ついて行くと、着いた先はまさかのアウトドア用品のイベント会場だった。
「今日が最終日って、今朝知って……どうしても来たくて」
言いながら、少しだけ肩をすぼめる日村。
計画は完全に崩れた。けどその言葉に嘘はなかった。
配られていたパンフレットを嬉しそうに見つめる目に、俺は何も言えなくなった。
(これが惚れたもん負け……ってやつか)
「何でこんなイベント、急に?」
「たまにひとりでキャンプに行くから。新しいギア…道具が気になってて」
そう言って、ふと笑った彼女の横顔にまた心臓を掴まれる。
人混みの中を日村はどんどん歩いていく。こっちは必死でついていく。完全に“リードされてる側”だった。
そして──
はぐれかけた瞬間、思わず日村の手を掴んだ。
「っ……ああ、クソ……」
一瞬驚いたようにこちらを見る日村。
「ごめん、夢中になってて……」と、申し訳なさそうに眉尻を下げる。
繋いだ手は少し湿っていた。たぶん、俺の手汗のせいだ。でも日村は嫌がらず「ランタン、見に行ってもいい?」と尋ねてくれた。
その言葉に、少し救われた気がした。
それからの時間、ずっと手を繋いだままだった。
道具に触れるときは自然と離れたけれど、戻した後は、日村の方からまたそっと手を伸ばしてきた。
俺はもう、頭ん中ぐちゃぐちゃだった。
(これ、どう見えてんだ?……恋人、に見えてっかな)
(……でも明らかに俺が振り回されてるよな)
俺が日村の話を聞いてるんじゃなくて、彼女が“好きなものを語ってる時間に、たまたま俺がいただけ“。
そんな感覚にすらなるくらい、日村のテンションは少し高かった。
それでも、一緒に話を聞いたり、使い勝手を語ってくれたり、ギアに触れる日村の指を見ているだけで、なんか楽しかった。キャンプなんて今まで興味なかったけれど、日村と一緒に行けたら絶対面白いだろうな、と思ってしまう。
「これ、買おうかな」
そう言って、小ぶりのランタンを手に取る日村。声のトーンはいつも通りなのに、どこか浮き立ってるように感じた。表情には出ていないけど、俺は分かった。
この子、いま、嬉しそうだ。
──それが、たまらなく嬉しかった。
ふと、その隣にあったPOPが目に入る。
《誕生日プレゼントにオススメ!》と書かれた小さな札が、ランタンと同じモデルにくっついていた。
(……そういや、日村って、誕生日いつだっけか)
今まで聞いたことなかったな、と思う。
(いや、あとでいいか……)
今はランタンを嬉しそうに眺めるこの横顔を、目に焼き付けたい。
昼過ぎ。会場のフードコーナーでカレーを食べた。
スパイスの香りと炊き立ての米の匂いが食欲を唆る。隣のショップで買える材料で作られているらしい。
日村は「自分でも作れるかも」とか言っていた。「じゃあ、今度作ってもらおうか?」と冗談っぽく言いかけて、やめた。まだそんなことを言えるような、距離じゃない。
日村の分も俺が払った。最初は「自分で払う」と言ってたけど、俺だってこういう時ぐらいは漢気見せてぇ。(映画のチケット代浮いたからじゃねぇし)
隣でゆっくりカレーを食べる日村を見てるだけで、なぜか満たされた気分だった。
食後、日村はブラックコーヒーを注文して、ゆっくりとマグを傾ける。
ふと、その瞳の奥に、焚き火の炎が揺れているような錯覚があった。
ああ、この子はきっと、キャンプ場の静けさが似合うんだろうな。そのとき隣にいれたらすげぇ贅沢だろうな──と、ぼんやり思った。
日村がトイレに立った隙に、イベント限定のグッズコーナーを見に行った。せっかくだし何か“今日の記念になるもの”を残したくて。
見つけたのは、さっき日村が買ったランタンにそっくりなストラップ。赤とカーキの二色。さりげなくお揃いにできるタイプのやつだった。
買ったあと、「あ……」と気づく。
(いや待て、付き合ってもねぇのにお揃いを渡すのってどうなんだ? 引くんじゃねぇか?)
一瞬だけ迷った。でも、迷ってる暇もなく日村が戻ってくる。「ほれ」と、ストラップを差し出すと、少しだけ目を見開いて「かわいい……。ありがとう」と微笑んだ。
ストラップを受け取った日村は、無言のままじっと見つめた。ほんの少しだけ、眉が緩んだ気がする。ゆっくりと指先でくるくる回し、ふっと息を漏らすように笑った。
「ふふ」
なんだそのかわいい反応。
俺の中で、何かが弾けた。
……もっと何かしてやりたくなるだろ。
帰り道。
駐輪場までのわずかな距離。歩くたびに、彼女の手の甲が服の裾からちらっと見える。俺は無意識に自分の手をこすった。
(いけるか……?)
意を決して、そっと手を伸ばす。指先が触れた瞬間、彼女の肩が小さく跳ねた。けれど、離れなかった。
指を絡めてみると、ほんの少しだけ、彼女の歩幅が狭くなった。顔をそっと俯かせて、頰が赤くなっていた。
(おい、まじかよ)
バレンタインの日。顔が偶然近づいたとき、真っ赤になってたのを思い出す。意外と照れ屋なのかもしれない。
初デートでここまでしていいのか、と内心では葛藤が渦を巻いていた。でも、日村は俺の気持ちを知ってる。それをわかった上で、今日を一緒に過ごしてくれた。
だから、もう手を離せなかった。
手のひらをそっと握り返してくれた気がして、俺の記憶はその先しばらく曖昧だった。
愛車にまたがる瞬間まで、たぶん俺、ずっと顔がニヤけてたと思う。
帰りは、ふたりでバイクを並走した。
冷え始めた風の中、ゆっくりと彼女の家の近くまで走って、玄関先で別れ際。今日はありがとう、と彼女が言う。
そして、一泊あけたあと、また口を開く。
「……いい誕生日になった」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……え?」
日村は目をそらさず、静かにもう一度言った。
「誕生日……だったの。今日」
衝撃が、数秒遅れて心臓に届く。
「マジかよ……!?」
なんで言わねぇんだよ、って言いかけて、でも言えなかった。
「……来年は、ちゃんと用意する。ケーキも、プレゼントも、全部」
返ってきたのは、少しだけあたたかい笑顔だった。
日村が家に入っていく背中を見送ったあと、俺はしばらくその場に突っ立っていた。
◇
自宅に戻って、今日一日を思い返す。
予定なんて全部吹き飛んだし、デートっていうより“日村の趣味に同行”って感じだったけど。
なんだかんだで、最高に楽しかった。
会場で目を輝かせる横顔。
ギアの説明を真剣に聞く姿。
ランタンを眺めて、口元を少し緩めたあの表情。
触れた指の冷たさと、繋いだ手の体温。
あのクールな日村が。
俺の知らない顔ばかり見せてきやがった。
今日だけで、何回惚れ直したことか。
『誕生日おめでとう。プレゼントは今度渡すから』
メッセージを送信してしばらくすると、日村から画像が届いた。ペンケースのチャックに、あのストラップがついている。
──これがプレゼントでしょ、ってか。
(……あー、ちくしょう)
スマホを伏せて、天井を見上げる。
どうしてそんなこと言えるんだよ。
もう、来年のバレンタインなんて待ってらんねぇよ。
この気持ち、もっと早く、渡してぇ。
そっと一押し頂けますと嬉しいです!