うつろぐ一年目 Chapter4

 朝、昇降口の空気がいつもと違っていた。
 鼻の奥がツンとする。冷たい空気が、どこか甘くざわついている。
(……さみぃな)
 息を吸うたび、肺の奥まで冷えてくような感覚。澄んだ空気の中に、妙に甘ったるい匂いが混じっていた。
 騒がしい方向に視線を向けると、灰呂の周りに女子が集まっている。
「灰呂くん〜! これ、もらって〜!」
「え、えっ、ありがとうっ!」
 手には小袋がいくつもあった。チョコの包装紙が光に反射してキラついていた。
 
(……ああ、そうか。今日バレンタインか)
 
 浮かぶのは、日村の顔だった。あいつも……誰かに、渡すんだろうか。ふと、記憶の底から香りが蘇る。あの子の匂い──この場に充満する砂糖みたいな匂いとは真逆の、どこか凛とした香り。柑橘にも似てるし、線香のように落ち着く。温度の低い静かな香りだった。
 そのことを考えていたら、胸のあたりがざわついてきた。自分の気持ちがどこにあるのか、うまく掴めなくて、下駄箱の前に立ち尽くしていた瞬に話しかけてごまかした。
 女子に囲まれる灰呂を話題に出す。あんなにモテるのに彼女を作らない謎について、瞬が顔の左側に右手を添えながら言う。
「もしやアイツ…コッチなんじゃねーか?」
「ぷっ!!! あっはっは!! あの灰呂が!?」
 瞬の想像力に笑ってしまう。その声に気付いたのか、後方からひときわまぶしい声が響いた。
「ん? 僕がどうかしたのかい?」
 振り返れば、灰呂がにっこりと爽やかに笑っていた。二人に渡したいモノがあるんだ、と言いながら差し出してきたものがあった。
 丁寧にラッピングされた“友チョコ”。
 思わぬ贈り物に瞬と目を合わせた。
「……まさか…マジか……?」「ああ…」
 疑いが確信に変わりそうな香りが鼻腔を満たす。そして、思ってしまった。

 ──日村からのチョコが欲しい。

 自分でも驚くほど、率直にそう思っていた。やたらと鼻が効く日だった。香りに反応するたびに、期待と不安が交互に押し寄せてきて、どうしようもなく落ち着かなかった。

 ◇

 気づけば放課後だった。
 昇降口の下駄箱を前に、一度だけ深呼吸をする。甘い香りの気配は、薄い。そもそもこんなところで期待すること自体、おかしいのかもしれない。
 ゆっくりと扉を開ける。革靴が、きっちり並んでいるだけだった。
(……まぁ、な?別に……いいけどよ)
 言い訳の準備だけは山ほどある。
 “こういうのは苦手なのかも”
 “そもそも恋愛とかそういうのに興味なさそうだし”
 “誰にも渡してないって可能性も……”
 だけど、浮かんでくるのは逆のイメージばかりだった。誰かに手渡してる姿。笑ってる顔。渡してないならいい。渡すつもりがなかったなら、まだいい。
 ただ、自分が“その誰か”じゃなかったことが、こんなに刺さるなんて思ってもみなかった。
 ため息が漏れた。浅く、長く、白く。そのまま重たい足を引きずるようにして、帰路につく。

 ◇

 家の近くの小さな公園に差しかかると、風に乗ってふわりと香りが漂ってきた。いつもの花壇の匂い……に、何かが混じっている。嗅いだことのある、ひやりと澄んだ、柑橘に似た、あの──
(……この匂い)
 顔を上げると、そこにいた。花壇の脇、薄い夕日に包まれながら、猫の頭を撫でている人影。
 ──日村だった。

(うそだろ……こんな偶然、あるかよ)

 どうする? 話しかけないと不自然か。でも、余裕を見せねぇと。背筋を伸ばして、できるだけ自然に声をかけた。
「……オス。何やってんだ、こんなとこで」
 彼女が振り返る。制服の袖が少しめくれていて、手首が冷えそうだった。
「猫。おでこの毛並みが……変わってて」
 言われて見れば、確かに額のあたりが濃くて、“Ψ”みたいな模様に見えた。猫はゴロゴロと喉を鳴らしながら、気持ちよさそうに目を細めている。その隣には、猫用のおやつのパウチ。鰹節の香ばしい香りがほんのり漂っていた。
(猫でも貰ってんのに、俺には……)
 下駄箱での落胆が、不意に蘇る。つい、もう一度ため息が出た。自分でも分かるほど、あからさまだった。
「……疲れてるの?」
 日村が覗き込んでくる。瞳に映る自分の顔が、ひどく間抜けに見えた。
「いや、ハハッ……疲れてねぇよ(疲れなんかより、もっとしんどい感情だっつの)」
 一瞬じぃっと俺の顔を見た彼女が、ごそごそと鞄を漁りはじめた。
「疲れてるなら……」
(いや、聞けよ。てか中身ぐちゃぐちゃすぎんだろ)
 でも、その不器用な仕草すら、なんでか嫌いになれなかった。そして──
 彼女の鞄の中から、ふわりと甘い香りが立ちのぼった。朝、昇降口に漂っていた、あの匂い。
(まさか……)
 息が詰まる。ここにきてまた、期待してる自分が情けない。

「食べる?」

 日村が取り出したのは、小さな小袋に入った細長いチョコ菓子。ラッピングされた贈り物じゃなく、市販のファミリーパックのうちの一袋。ポッキーだった。
 それはただの“お裾分け”にすぎないと、理屈では分かっていた。でも、それでも。
「………食う」
 絞り出すような声だった。日村が一本、そっと手渡してくれる。
 ほんの一瞬、指先が触れた。そのかすかな熱が、チョコの表面に移った気がした。
 ポキッと折れた音のあと、甘さがじんわりと舌に広がる。ただの市販菓子が、信じられないほど優しく感じる。自分がどれだけ“その一口”を求めていたか、思い知らされた。
 ふと視線を向けると、彼女が袋から取り出した一本を見て、微妙な顔をしていた。先が折れていたらしい。
(……その顔、ズリぃよな)
 俺の中で何かが静かに決壊していく音がした。香りも、声も、距離も、全部が『恋』の形をしてるのに。
 それでもまだ、「友達」の顔をして笑ってる彼女が、少しだけ憎かった。

 ◇

 ポキンッ。

 乾いた音が静かに夜の公園に響いた。日村がチョコ菓子を噛みながら、ぽつりと口を開く。
「……というか、さ」
 少しだけ首をかしげるような話し方だった。
「バレンタインなのに、海藤くんと一緒に過ごさないんだね」

 ──は?

 何かが音を立てて崩れた。いや、実際崩れた。手に持ってた菓子が、ぽろりと滑り落ちていた。
「……なんつった?」
「え? ちがった? ごめん」
 日村は、まっすぐに俺を見る。からかっている様子はない。ただの事実確認のつもりだったのかもしれない。それが余計にタチが悪かった。
「いつも一緒にいるし。よく海藤くんの話するし。話してる時も……なんか距離が近い気がして」
 あまりに自然に告げるもんだから、こっちの頭が追いつかなかった。
 俺と、瞬が?
 まさか、今日、俺たちが灰呂に向けたあの疑惑。それがまさか、自分にブーメランしてくるとは。

 ……しかも、惚れてる相手から。

 否定した。何度も。必死で。しどろもどろになりながら、ようやく伝わったらしい彼女は「あ、ごめん」とだけ言った。今年のバレンタイン、地獄か?

「じゃあ、そろそろ帰るから」と日村がすっと立ち上がった。
(待て。……待ってくれ。行くな)
 無意識に、袖を引いていた。驚いた顔で見返されて、ようやく我に返る。
「いや、その……」
 ぽすんっ、と日村がベンチに腰を戻す。言いたいことは山ほどあるのに、何一つ言葉にできない。息だけが空回りして、口先だけが焦ったように動く。
「………誰かに、チョコ、あげたか?」
 なんでそんなこと訊くんだ、俺は。けど、気になってしまった。答えが怖いくせに、聞いてしまった。
「うん。軽音の女子で、お菓子いろいろ持ち寄って……バイキングみたいにして、男子に配った」
 日村が、少し照れたように言った。ポケットから出した空の小袋を見せてくる。
「……そっか。それは、部のやつ……」
 安堵の吐息が漏れる。胸の内側に張っていた薄氷が、静かに溶けていく。
「……つーことは、本命は、なし……ってことか」
 そう自分に言い聞かせるように呟いた瞬間、その意味がぐさりと刺さった。
 誰にも渡してない。つまり、誰も好きじゃない。
 “特別”ではない。今の俺は、まだ。
「窪谷須くんは……もらったの?」
 急に、さらりと聞かれた。息が止まりかける。
 灰呂から“友チョコ”は貰ったけど……。このタイミングで「男からチョコもらった」と言えば、それこそさっきの誤解が再燃しそうで。
「……いや。今年は、なかった」
 “は”がやけに自分でも情けなかった。日村は、それを聞いてふっと笑った。
「じゃあ今日は、特別に……」
 
 『特別』
 ──それは、何を意味してる?

 鞄をごそごそと漁る音がする。何だろうと見守るうちに、彼女の手が何かを見つけ、ぽんっと俺の手のひらに置いてきた。小さな四角いチョコだった。
「これもあげる」
 軽く言ったその声が、やけに耳に残る。その小さな重みを、手のひらの上で確かめる。たかがひと粒のチョコ。されど、この意味は?
「……なんで今、“特別”って言ったんだよ」
「ん?」
「いや……」
 苛立ちのような、戸惑いのような言葉が漏れた。聞いてどうするつもりだったんだ、俺は。
 でも、口が勝手に、次の言葉を吐き出していた。

「……来年は、オレにくれねぇか? “本命”チョコ」

 静かすぎる夜。吐く息が白く伸びて、すぐに溶けて消えた。
 日村は目を丸くして、ぽかんと俺を見た。
「……本命を?」
 そう言うと、ゆっくり、顎に手を添えて考え込む。
 
 遅れて自分の言葉の意味を理解してハッとする。
 やばい、やばい、やばい。……なに言ってんだオレ!!!
 思わず叫びそうになった瞬間──

 「いいよ」

 その声が、俺の思考を吹き飛ばした。

「……予約制のバレンタインって、面白いよね」
 ふいに視線が合った。あの春、校庭で初めて彼女を「視線で」覚えたあの日と同じ──柔らかくて、どこか遠くを見つめるような瞳。けれど、すぐに目を逸らして、猫へと戻っていった。俺の心臓は、まるで悪ふざけみたいに騒ぎ出す。
「は……予約制、確かにな」
 自分で言っておいて、乾いた笑いがこぼれる。
「てか、いいのか? ……本命だぞ」
 言いながら、日村の横顔を盗み見る。膝に乗った猫の頭をそっと撫でていた手が一瞬止まる。そしてまた、静かに毛並みに沿って動いた。
「……うん。べつに、チョコくら──」

 その瞬間だった。
 日村がふとこちらを向いた拍子に、距離が一気にゼロに近づいた。

 鼻先が、あと数ミリで触れそうになる。
 息が止まった。目が合った。
 ほんの少し動けば、たぶん、触れる。

「っ……!」
 日村が先に顔を逸らした。

「ご、ごめん……びっくりした……」
 顔を反対に向けたまま、聞き取れそうで聞き取れない声でつぶやく。
「……いや、俺も!  スマン……!」
 バカみたいに背筋を伸ばして、空気を吸い込む。肺の奥まで冷えた空気が流れ込む。横目でそっと彼女を見た。
「……!?」
 顔が真っ赤だった。日村が顔を両手でパタパタと仰いでいる。慌てた動きすら可愛すぎて、見てはいけないものを見てしまった気分になる。
(……何だよそれ、ズルいだろ……)
 こっちは、もうとっくに意識しまくってんのに。

 沈黙が続く。その静けさを破ったのは、猫の鳴き声だった。「……にゃあ」と絶妙な間の抜け方に、思わず笑ってしまいそうになる。
「帰ろっか……」
 日村が、前髪を整えながらぽつりと言った。
「……おう」
 火照った顔に、冬の風が吹き抜ける。冷たいはずの空気が、今だけやけに心地よく感じた。日村も、同じだったらいいが。

(でも……あれって、どういう意味だったんだ)
 帰り道。さっきの言葉が頭を巡る。
 『別に、チョコくらい──』
 あれは、ただのノリか。冗談か。面白がって“恋愛ごっこ”に付き合おうとしてるだけかもしれない。
(……冗談じゃねぇ)

 絶対、そんな遊びにはしねぇ。
 俺は、本気で──
 意気込みながら、ポケットの中のチョコを取り出す。
 包みを剥がして、パクっと口に入れる。次の瞬間──

「ッッ!!??」
 舌が焼ける。いや、燃える。いや、爆発する!

「めっっっちゃ辛ぇ!!!」
「……え?」

 後ろから聞こえてきた日村の声が、珍しく気まずそうだった。
「あ……。たぶん、それ……デスソース味かも」
「はあ!?!?!?」
 口の中で地獄が暴れている。
「軽音用に色んな味買ってて……味の確認せずに渡しちゃった……」
「確認しろよ!!」
 言いながらも、ジンジンとした辛味──痛みが容赦なく飛んでくる。
「うっ…! かれぇ……マジでぇ……!!」
「ごめんね……。はい、甘いの」
 日村がミルクチョコを口に放り込んできた。次から次へとチョコやら飴やらを取り出す日村。その鞄、どんだけお菓子入ってんだよ!
 俺の手のひらに二個、三個と、小さな甘いものをのせてくる。
「ちょっと甘いの食べてて。そこのコンビニで牛乳買ってくる…!」
 日村がパタパタと走り出した。

 ヒリヒリとした舌の痛みを、ゆっくりと甘いチョコで鎮めながら、遠ざかる後ろ姿を見つめた。
 あの日村が──無口で、全然接点のなかったあいつが。
 ……今は俺のために、走ってる。 

 ふと思い出す。
 日村が新学期に睨みをきかせていた視線を、相手を締め上げる鉄線のように感じていた。でも今は、あの柔らかい眼差しと不意に見せる笑顔に俺の心が絡め取られて、動けない。

 来年あいつから貰える“本命チョコ”の味を想像してみる。
 きっと、甘いだけじゃない。ちょっと予想外で……でも、ちゃんと心に残る味なんだろうな。

 この地獄の一撃みてぇな味じゃなきゃいいが。
 ……頼むぜ、マジで。