※無自覚両片想い
※じれったい距離感の夢主と窪谷須に斉木がイタズラする。
『ロッカー』
「……えっ?」
見えない力に背中を押されるようにして、彼女は誰かと一緒にロッカーの中へ滑り込んだ。扉が閉まる鈍い音がして、次の瞬間、視界が闇に塗りつぶされる。反射的に手を伸ばしたときには、もう取っ手の位置さえ掴めなかった。
「……閉じ込められた?」
自分の声が、狭い箱の中で乾いた反響になって返ってくる。足元のバケツが「カラン」と鳴り、心臓がその音に合わせて跳ねた。暗闇に目が慣れるより先に、肩が何かにぶつかって、身体がぐらりと傾く。
倒れる──
そう思った瞬間、腕が強く引かれた。
「っ、ごめ……っ」
謝る声は低く、近い。しがみついてしまった相手が誰か、息の匂いと体温で気づいた。
窪谷須くん。
隣のクラスの男子。廊下ですれ違うときに、軽く会釈を交わす程度の距離感。名前を呼ぶ機会も、まともに話す機会もほとんどない。そんな相手の腕を、彼女は咄嗟に掴んでいた。暗闇の中で、転びそうな体を支える“確かなもの”が、そこにしかなかったから。
「近……」
声に出したつもりはなかった。けれど、口の端からこぼれてしまうくらい、距離がない。顔がほんの数センチ先にある気配。息をするたびに、耳元へ彼の呼吸が触れた。温度のある空気が肌を撫で、くすぐったさに喉がひゅっと鳴る。
「……っ」
熱が、一気に上がる。暗いのに、頬の内側が赤くなるのがわかる。狭い空間で、体温が逃げ場をなくして、ふたりの間に溜まっていく。彼女は肩をすくめるみたいにして距離を作ろうとした──その数秒後だった。
腰のあたりに、何か硬いものが当たっている。
(え……ちょっと待って)
思考が白く飛ぶ。気づかないふりをすればいい。そうしてやり過ごせばいい。頭ではわかるのに、身体が先に固まってしまう。腕に力が入らなくなり、背骨が凍ったみたいに強張る。呼吸の仕方も、顔の向け方も、視線の置き場所も、ぜんぶ行き先を失った。
(やばい、やばいやばいやばい)
狭い。暗い。逃げ場がない。近すぎる。息も熱も、皮膚の震えさえも、隠せない距離で伝わってしまう。
何か言わなきゃ。離れなきゃ。
でも、どうやって。
彼も動かない。動けないのか、動かないようにしているのか、暗闇では読み取れない。沈黙だけが余計に彼女の鼓動を増幅させた。耳の奥で鳴る音が、自分のものか、彼のものか、もう区別がつかない。
ロッカーの壁が、さらに一段、近づいた気がした。
◇◆◇◆◇
──閉じ込められた。
窪谷須は、ロッカーの扉が閉まる鈍い音と、そのあとの沈黙で状況を理解した。手探りで取っ手を探し、力を込めてみるが、びくともしない。腕力には自信がある。ぶち破ろうと思えば、たぶんできる。……できる、が。
問題は力じゃない。いま、この狭い暗闇に“もう一人”いることだ。
「っ……!」
小さくバランスを崩す気配と、こらえきれなかったみたいな声。次の瞬間、柔らかなものが胸にぶつかってきて、窪谷須は反射で受け止めた。細い肩。震える指先。制服越しでもわかる体温。
隣のクラスの子だ。廊下ですれ違うと、ふわりと挨拶してくれる。目立つタイプじゃないのに、なぜか目に留まる──そんな彼女が、いま、窪谷須の胸元にしがみついている。
「……大丈夫か?」
声に出した言葉が、やけに近くで自分の耳に返ってきた。暗闇の中、息が触れる距離。彼女の吐く空気が甘く湿って、胸のあたりで揺れている。教室で感じたことのない匂いだった。洗剤と、髪の奥に残った何か、熱に近い、甘い匂い。
(落ち着け。平常心だ。これは事故。アクシデント。冷静に対処……)
頭の中で何度も唱える。けれど、現実がそれを許さない。彼女の手が窪谷須の制服をぎゅっと掴んでいる。爪が布越しに食い込むみたいに、必死な力。肩越しに伝わる細い腕の震え。額が胸に触れて、呼吸の波がそのまま流れ込んでくる。
少しでも体勢を支えたほうがいい。背中に手を回してやれば、彼女も楽になるはずだ。暗闇で転ばないように、支えるのは当然で──
(ダメだ。やったら終わる)
理性がぎりぎりのところで歯止めをかける。背中に手を回せば、抱きしめる形になる。抱きしめたら、たぶん、もう自分が何をしでかすかわからない。心臓の音がうるさすぎて、呼吸の数さえ狂う。
(やばい……普通に、やばい)
どうしてこんなに反応している。彼女の震えに、息遣いに、近さに。自分の身体が勝手に熱を持ち、制御が効かなくなる。しかも最悪なことに、硬くなってしまったそれが、彼女の腰のあたりに当たっている感触まである。
──終わった。
恥ずかしさと焦りで頭が真っ白になり、同時に、体の芯がじんじんと熱い。目を閉じれば閉じるほど、闇の中の感覚だけが鋭くなる。布の擦れる音、彼女の小さな息、狭い空間に溜まる体温。
この状態では、扉をぶち破るために体勢を整えることすらできない。肩を入れるにも、腕を振るにも、彼女を傷つけかねない。何より、動けば動くほど、いま当たっているものの存在をはっきりさせてしまう。
窪谷須は喉の奥で息を殺し、暗闇に向かって祈るように思った。
(誰か……助けてくれ……!)
◆◇◆◇◆
息が詰まる。狭い空間の空気が、誰かの体温に奪われていくみたいで、肺の奥がきゅうっと縮んだ。彼女はいま、俯いたまま窪谷須の胸に額を押しつけている。暗闇のせいだけじゃない。距離のなさと、熱の逃げ場のなさが、思考までぼんやり溶かしていく。
呼吸が浅い。吸っても吸っても足りない気がして、胸の内側が苦しくなる。耳の奥では、自分の心臓がうるさい。──こんなに鳴っていたら、きっと相手にも聞こえてしまう。そう思うだけで、さらに焦りが増した。
(無理……ちょっとだけ、顔、上げる……)
ほんの一瞬、空気を入れ替えるつもりで。額を押しつけたままでは息ができないから、ただそれだけの理由で、そっと顔を上げようとした。
けれど。
──ふわ、と何かが触れた。
「……っ」
何が起きたのか、理解するのに一拍遅れる。暗闇の中で、触れた感触だけが先に確かな輪郭を持った。柔らかくて、湿った、熱のあるもの。ほんの一秒か、もっと短い時間だったかもしれない。それでも、彼女ははっきりわかってしまった。
唇が──当たった。
しかも、偶然が作る“かすり”じゃない。確かに触れて、確かに押された感触が残っている。
「っ……あ……っ、や、ちが……!」
心臓が跳ね上がり、血が一気に熱へ変わる。頬から首筋まで、火が走ったみたいに熱い。違う。自分の意思じゃない。事故だ。完全に、ただの事故。そう言い聞かせるのに、身体が言うことをきかない。膝が震えて、足元が頼りなくなる。喉から、変な音が漏れたのが自分でもわかった。
顔なんて、絶対見られたくない。
いま自分がどんな顔をしているのか、想像するだけで胸が潰れそうになる。反射的に背を向けようとしたのに、動けなかった。狭すぎる。まだ窪谷須の制服を掴んだままの手がほどけない。逃げ場なんて、どこにもない。
「ご、ごめ……ちがう……」
声が震えて、言葉がほどけてしまう。謝っているのか、必死に否定しているのか、自分でもわからない。ただ、とにかくこの瞬間がなかったことになってほしい。暗闇に溶けて消えてしまいたい。
彼女は唇に残る熱を、息で追い払おうとするみたいに浅く呼吸しながら、ただ固まっていた。
◆◇◆◇◆
狭い。
窪谷須は頭ではわかっていた。ロッカーの中に二人、掃除用具まで一緒に押し込まれたらどうなるかくらい。けれど実際の幅と距離感は、想像を軽々と超えていた。肩をほんの少し動かすだけで、どこかが当たる。足元にはバケツ、雑巾、柄の長い道具。踏み外せば転ぶ。転べば、彼女が怪我をするかもしれない。
だから窪谷須は、動けなかった。
いや、正確には──動かなかった。
背中に手を回して支えれば、彼女はきっと楽になる。腕の震えだって止まるかもしれない。けれど、その動作は“抱く”のと同じ形になる。ここでそれをやったら、多分、理性が終わる。
「……っ」
彼女の髪が頬を掠めて、くすぐったい。息が近い。甘い匂いが、狭い空間の熱と混ざって、胸の奥を乱す。喉は焼けるみたいに熱いのに、身体は冷えたみたいに硬直していた。情けないほど、制御が利かない。
そんなときだった。
彼女がふいに顔を上げた。ほんの一瞬。ほんの少し姿勢を変えただけ。息をしやすくするための、ただの動きのはずなのに──
「……!」
柔らかな感触が、確かに唇に触れた。
時間が止まった、という言い方は大げさじゃない。あまりに突然で、何が起きたのか理解が追いつかなかった。いや、理解したくなかったのかもしれない。触れたのは一瞬。それでも、誤魔化しのきかない現実が、唇の上に残った。
目の前で、彼女が固まっているのがわかる。息が詰まる気配。震え。暗闇でも伝わるほど、顔が熱を帯びたのが感じられた。何か言おうとして、言葉にならずに飲み込んでいる。
(……まずい)
窪谷須は、自分の呼吸を整えようとして失敗した。落ち着け。落ち着け。そう思うほど、鼓動がうるさい。顔に出すまいとしても、耳まで熱いのが自分でわかる。
それでも、すぐに声を出せなかった。
下手に動いたら壊れそうだったからだ。言葉を交わせば、その瞬間から、戻れなくなる気がした。今日が“事故”じゃなくなってしまう気がして──それが怖かった。
「大丈夫。……事故だ」
ようやく出た声は、驚くほど低く、静かだった。平静を装った言い方で、彼女に言い聞かせるみたいに。自分にも言い聞かせるみたいに。
背中に回しそうになる手を、窪谷須は必死で握りしめた。握った拳が痛いくらいで、ようやく自分がここにいるのを保てた。
(頼む……動くな。俺も、動けねぇ)
怖かったのは、彼女が嫌がることじゃない。
──自分が、抱きしめたくなることだった。
◇
ロッカーから解放され、家のドアを閉めた瞬間、窪谷須はようやく息を吐いた。肺の底に溜まっていたものが、一気に抜ける。あの狭さ。あの距離。あの空気。全部が非日常すぎて、現実に戻ってきたはずなのに、頭がまだぐらぐらしていた。
バッグを放り投げ、畳まれた布団に顔を埋める。冷たい布の匂いがして、少しだけ落ち着く──はずだった。
思い出すまいと思うほどに、浮かぶのは彼女のことだ。
──真っ赤になった頬。
──耳まで染まった色。
──パニックになって俯く仕草。
そして、あの一瞬。
唇が、触れた。
「……」
窪谷須はごろんと仰向けになって天井を見つめた。まずい。あれは──反則だ。
もともと、かわいいとは思ってた。廊下ですれ違うときの、控えめな挨拶の声。白くて細い指先。たまに妙に優しく、甘い顔で微笑むところ。そういうのが、目についた。
でも今日は違う。
近さも、熱も、空気も、全部が違いすぎる。あの反応を知ってしまったら、もう知らなかった頃には戻れない気がした。
「……かわいすぎだろ……」
思わず声に出してしまって、窪谷須は自分で自分の顔を覆った。無理だ。思い出すだけで胸のあたりが変になる。にやけそうな口元を押さえても、頭の中には彼女がいる。
「落ち着け……女のことで頭いっぱいとか、漢じゃねぇ……!」
そう言いながら、結局スマホに手が伸びる。連絡なんて来てないとわかってる。わかってるのに、画面を点けてしまう。彼女の名前を探してしまう。
そしてまた、思い出す。
──唇が、ちゃんと、触れた。
「…………だめだ」
その日は布団の上でごろごろ転がって、枕を抱きしめて、何度も思い出して、そのたびに悶えて、最後は掛け布団の中へ潜って小さく呟いた。
「かわいい。まじで……むりだろ……」
理性は未だに、ぎりぎりのところで踏みとどまっていた。
◆◇◆◇◆
帰宅して部屋のドアを閉めた瞬間、彼女の膝から力が抜けた。玄関の冷たい床に、そのまま座り込んでしまう。息を吸うと、ようやく自分の家の匂いが肺に入ってくるのに──頭の中は、まだあの狭いロッカーの暗闇に置き去りだった。
息も詰まるような密室。肌に直接触れていたわけじゃない。それなのに、そこにある体温が熱すぎて、思い出すだけで鼓動が早まっていく。
──服越しに感じた、筋肉の硬さ。
──不意に耳元で聞こえた、低い吐息。
──ぐらついた体を支えようとしたときの、逡巡した気配。
誰にも見られていない距離で、あれほど近くにいた。手を伸ばそうと思えば、いくらでも伸ばせたはずなのに。──窪谷須は、触れてこなかった。
(……やさしい人だ)
それがありがたくて、胸の奥が少しだけほどける。ほっとしたはずなのに、その“触れてこなかった”という事実が、逆に彼の存在を濃く焼きつけてしまう。
力強い腕。広い肩。狭い暗闇の中で、彼女は否応なく「男なんだ」と身体ごと知らされた気がした。しかも距離が近い。近すぎるのに、何もしてこない──だからこそ余計に、意識が逃げ場を失っていく。服の下に隠された輪郭が、熱と一緒にじわじわ伝わってきて、呼吸が詰まりそうになる。
息をするたび耳元で触れた吐息が、低くて、深くて。音ではなく温度みたいに、体の奥へ染み込んでくる。思い出すだけで頭がふらふらした。
(……色気に当てられる、って、こういうこと?)
彼女は思わず両手で顔を覆った。やばい。頬が熱い。耳まで熱い。なにか言おうとしたら、きっと声が裏返る。冷静に思い返したいのに、胸の内側だけが勝手に騒ぐ。
ずっと一緒にいたいような気もして、反射的に逃げたいような気もする。その矛盾が、情けないほど生々しい。たぶん──もしあそこで彼に手を出されていたら、拒めた自信はない。怖いのは、それを自分が知ってしまったことだった。
(……あー、もう……)
心の中で何度もこぼす。誰にも言わない。言えない。こっそりとした安堵と、誠実さが残した妙な高揚が、胸の奥に熱として居座っている。
彼女は床に座り込んだまま、ゆっくり息を吐いた。吐いても吐いても、まだ熱が残る。それが消えるのを待つみたいに、指先で自分の頬の火照りをそっと押さえた。
◆◇◆◇◆
登校途中、窪谷須は何気なく考えていた。たぶん、彼女はいつも通りだ。昨日のことなんて、なかったみたいに平然としているに違いない。むしろ「気のせい」で片づけてくる可能性すらある。
だから自分も、いつも通りを装う。そう、それが漢だ。ただのハプニング。何もなかった。そう言い聞かせながら、足取りだけは妙に慎重になってしまうのを、窪谷須は自覚していた。
そして下駄箱の前。靴を入れようとして、屈んだそのとき──ふと視線を感じて顔を上げた。
彼女がいた。
こちらを見ていた。目が合った、その一瞬。
……ぱぁっと、彼女の頬が赤くなる。耳まで真っ赤に染まっていくのが、はっきりわかった。色素の薄い瞳が見開かれて、その中には、まっすぐ窪谷須だけが映っている。
(──えっ?)
次の瞬間、彼女は何も言わずに顔をそらし、そのまま小走りに去っていった。視線に耐えきれなかったみたいに。逃げるみたいに。窪谷須は呆然と、その場に立ち尽くした。
(なんだ、今の……)
思考が追いつかない。けれど数秒遅れて、脳内が勝手に再生を始める。
昨日の、あの距離。熱。息遣い。唇──。
何度も繰り返し流して、必死に“事故”に押し込めていた記憶が、いま見た赤い顔のせいで、さらに鮮明に上書きされていく。
(……可愛すぎるだろ……)
心臓が跳ね上がった。立っていられなくなって、窪谷須は荷物を下駄箱の脇に置く間もなく、その場にしゃがみ込んだ。制服の裾を握りしめ、ぐっと俯く。
(やべ……顔……絶対、真っ赤だ。無理……)
自分でもわかる。耳の熱さが、もう隠しようがない。──なんだ、この反応。ずっと意識していたのは……自分だけじゃなかったのか。
もしそうなら。
昨日の密室より、いまの一瞬のほうが理性を削る。たった目が合っただけで、たった数秒で、心臓がこんなに暴れるなんて。
胸の奥が熱くなる。嬉しさと、照れと、どうしていいかわからない焦りがごちゃ混ぜになって、喉の奥に詰まった。
窪谷須は顔を上げられないまま、ひとつ深く息を吐いた。気合いが足りてねェんだ、しっかりしろ。漢だろ──そう言い聞かせる。
……でも。
(……やばいな、これ……)
どうしようもなく、かわいかった。
◆◇◆◇◆
「……無理だった……」
彼女の口からこぼれた声は、誰にも届かないくらい小さかった。靴音だけが廊下に淡く反響して、遠ざかっていく。足は勝手に動いていた。もう後ろを振り返る余裕なんてない。振り返ったら、きっと全部が崩れる。
朝、家を出るときからずっと自分に言い聞かせていた。
昨日のことは事故。何でもない。ただのハプニング。気にしない、大丈夫。きっと窪谷須くんだって、何とも思っていない。
そう言い聞かせて、鏡の前で何度も瞬きをして、表情を整えてきた。息の角度まで整えるみたいに。ちゃんと「いつも通り」を演じるつもりだった。
──でも。
無理だった。
下駄箱で目が合った瞬間、思い出してしまった。あの狭い空間の温度。息がかかる音。肌に触れる布越しのぬくもり。そして、触れてしまった唇。思い出すだけでも体温が上がるのに、昨日、布団の中で眠れなくて考えてしまった「もしも」まで、容赦なく頭の中に蘇ってきた。
もし、彼の首にそっと手を回していたら。
もし、背中に彼の手が添えられていたら。
もし、あの唇が——意味を持って塞がれていたら。
「……うわ……っ」
恥ずかしすぎて、胸の内側が焼けそうだった。全部、勝手な想像なのに。自分でも引くくらい、ぐるぐる考えてしまっていたくせに。いざ本人と目が合っただけで、頭の中が真っ白になった。
顔も、目の色も、睫毛が落とす影すら見えてしまった。見えてしまったからこそ、もうだめだった。
(男の人の顔……)
その言葉が胸の奥で勝手に形になって、さらに熱が増す。どんどん顔が熱くなって、立っていられなくなった。逃げるしかなかった。息が上がって、肩が小さく跳ねる。自分の体を自分で持て余している感覚が、また恥ずかしさを連れてくる。
(……早退、しようかな……)
今日は無理かもしれない。教室に戻っても、どうせうまく笑えない。ずっと「昨日」が、頭から離れてくれない。消えてほしいのに、消えない。むしろ、触れた熱だけが何度も鮮明になる。
(……どうしよう……)
足を止めたくても止められないまま、彼女は息を整えようとした。けれど、整う前にまた胸がぎゅっと締まる。
──でも、本当は。
逃げる前に、もう少しだけ目を合わせていられたらよかった、とも思っている自分がいる。
それがいちばん困る。いちばん、認めたくない。
彼女は唇を噛んで、視線を落としたまま、さらに足を速めた。自分の心臓の音が追いかけてくるみたいで、朝の廊下がやけに長く感じられた。