『きみの好きな味』
春。大学の入学式の日、私が見上げたのは、満開の桜じゃなかった。
「すまない。怪我はないか」
人波から頭ひとつ抜けた、大きな男の人だった。
式典会場へ続く道は、真新しいスーツを着た新入生と、その家族でいっぱいだった。春風が吹くたびに満開の枝が揺れて、薄桃色の花びらがひらひら舞い落ちる。アスファルトの上を転がっていく花びらは綺麗だったけれど、そのときの私には眺めている余裕なんてなかった。先に着いている友達へ『今どこ?』とメッセージを打ちながら歩いていたからだ。
その直後だった。早足で横切った女性と肩がぶつかって、身体がぐらりとよろける。反射的に踏み出した先で、今度は反対側から来た誰かにぶつかった。硬い壁にでも当たったみたいな衝撃で押し戻されて、そのまま尻もちをついた。
「あいた……」
新品のパンプスが片方、踵から抜けた。頭の上から聞こえた低い声に顔を上げると、最初に目に入ったのは、濃紺のスーツに包まれた広い肩だった。
随分、体格がいい。
背が高いだけじゃない。肩幅も広くて、ただ立っているだけなのに周りの人よりずっと目立つ。
見上げる私へ差し出された手も、やっぱり大きかった。長い指に、厚い掌。よく見ると、スーツ姿にはちょっと似合わない硬い豆がいくつも残っている。
「立てるか」
「あ、はい。ありがとうございます」
その手を掴んだ。次の瞬間、ぐい、と身体が持ち上がる。こっちが踏ん張る暇もないくらい軽々と引かれて、勢い余って一歩近づいた。
目の前に、厚い胸板があった。
慌てて視線を上げる。顔を見るには、思っていたよりずっと顎を上げないといけない。
「大きい……」
考えるより先に、口から出ていた。彼が黙って私を見下ろす。
「あっ」
数秒遅れて、自分が何を言ったのかに気づいた。
「背が高いなって思って、つい……。ごめんなさい」
言ってから、自分でも何を謝ってるんだろうと思った。でも真正面からじっと見られると、どうにも落ち着かない。黒い瞳は静かで、別に怒っているようには見えなかった。ただ、私が言ったことをそのまま受け取って、どういう意味だろうと考えているみたいだった。
いたたまれなくなって頭を下げると、彼はほんの少し間を置いて、ひとつ頷いた。
「そうか。では失礼する」
「……はい」
それだけ言うと、彼は本当に何事もなかったみたいに歩き出した。あれだけ背が高いから、人波に紛れてもすぐには見失わない。濃紺の背中が、行き交う人たちの向こうへ少しずつ遠ざかっていく。
その肩に、桜の花びらが一枚落ちた。
――では失礼する。
ずいぶん古風な言い方だな、と思った。それなのに、妙に迷いのない低い声だけは、式典が始まってからもしばらく耳に残っていた。
◆
「あのときは……武士と出会っちゃったと思ったよね」
「武士という身分は明治時代に廃止されているが」
牛島若利は左手のスプーンでハヤシライスを口へ運びながら、生真面目な顔で答えた。
「うん。そういう意味じゃないんだけどね」
「そうなのか」
「そうなのです」
まあ、確かに武士はハヤシライスを食べないけれど。
声には出さずにそう返して、私はフォークに巻きつけたナポリタンを口へ運ぶ。太めの麺を噛むと、ケチャップの甘酸っぱさと炒めた玉ねぎの甘みが広がった。おいしくて思わず頬が緩む。
大学の近くにある、古い喫茶店だった。焦げ茶色のカウンターは長い年月でつるつるに磨かれていて、赤いビロード張りの椅子は、擦れた縁から少しだけ中の布が覗いている。淹れたてのコーヒーの香ばしさに混じって、今はもう誰も吸っていないはずの煙草の匂いが、壁や天井のどこかにうっすら残っていた。
――入学式の日。
友達と合流した私は、式典会場でもあの大男を見つけた。
『あ、さっきの武士』
『え、武士?』
友達が怪訝そうに眉を寄せた、その直後。壇上へ上がったのは、さっき私を軽々と立たせた男だった。
新入生代表、牛島若利。
名前を呼ばれて壇上に立つ姿を見た瞬間、私は思わず目を丸くした。あんなに落ち着いて見えた人が、自分と同じ新入生だとは思っていなかった。
しかも、そのあとのオリエンテーションでは学部まで同じだと分かった。もちろん、それだけですぐ仲良くなったわけじゃない。ただ、履修する講義がよく重なった。
『あ』
『ああ』
最初は、本当にそのくらいだった。顔を合わせれば挨拶をする。講義がよく重なるうちに、少しずつ話すことが増えていった。
牛島は、最初に思っていたよりは喋る人だった。ただ、必要なことしか言わない。
『この教授の講義、長いよね〜』
『他の講義と同じ九十分だが』
『そういう意味じゃなくてですね』
冗談は通じるときもあれば、まったく通じないときもある。
最初のころは、沈黙が続くたびに何か喋らなきゃ、と少し焦っていた。今日の課題とか、教授の話とか、天気とか。何でもいいから次の話題を探して、頭の中だけ忙しくしていた。
初夏のある日も、昼前の講義が終わって、そのまま牛島と学食へ行った。向かい合って食べ始めたものの、会話はあっという間に途切れた。
「三限なに?」
「社会学だ」
「私も」
「そうか」
終わった。
さて次は何を話そう。そう思いながら向かいを見ると、牛島は何ひとつ困った様子もなく、黙々と昼食を食べていた。つまらなそうでもないし、気まずそうでもない。ただ普通に、私と同じテーブルにいる。
それを見ていたら、自分だけ必死になっているのがちょっと馬鹿らしくなった。私もスマホの通知を確認して、牛島はそのまま食事を続ける。たまにどちらかが思いついたことを話して、また静かになる。
それで別に、何も困らなかった。
数日後、講義室で一人座っていると、机の横に大きな影が落ちた。
「ここは空いているか」
「空いてるよ」
鞄を退かすと、牛島は隣に座った。前にも後ろにも空席はあったけれど、そのときの私は特に何とも思わなかった。
講義が始まるまで、牛島は資料を読み、私はスマホを眺める。ときどき、紙をめくる乾いた音だけがする。
それが、なんとなく心地よかった。
気づけば、沈黙を埋めようとは思わなくなっていた。黙っていても気まずくならない相手って、案外少ない。
「――タイムスリップの可能性は……」
「ない」
「ないかー」
私が笑うと、牛島は口の中のものを飲み込んでから、静かにこっちを見る。
今日ここへ来たのは、二年生に進級してから初めて牛島と顔を合わせたからだった。お互い午前中で講義が終わると分かって、それなら昼ご飯を食べよう、ということになった。
「この店はよく来るのか」
「うん。入学してすぐ見つけたの。いい店でしょ」
「ああ。初めてだが、懐かしい気分になる」
「でしょ」
自分の好きな店を気に入ってもらえたのが嬉しくて、自然と頬が緩んだ。すると牛島も、ほんの少しだけ口元を緩める。初対面のころならたぶん気づかなかった。でも一年も隣にいれば分かる。
これが、若利くんの笑顔だ。
カウンター席は少し狭かった。ただでさえ身体の大きな牛島が隣に座ると、どうしても距離が近くなる。反対側にもお客さんがいるせいで、今日はいつもより少しこっちへ寄っていた。
肩が触れそうだな、と思ったちょうどそのとき、奥のテーブル席が空いた。
「ねえ、若利くん。あっち移っていいか訊く? ここ、狭いでしょ」
「いや」
牛島はハヤシライスを見たまま答えた。
「このままでいい」
「……そう?」
まあ本人がいいならいいか、と、それ以上は気にせずナポリタンを口へ運んだ。
◆
海外遠征で数日講義を休んだ彼に、ノートを貸した。
「助かる」
「いえいえ。むしろ、字が汚くてごめん」
「いや。読める文字だ。問題ない」
「よ、読める文字……!?」
何という言い草だろう。褒められたのか、それともただ事実を言われただけなのか、よく分からない。でも、あまりにも牛島らしくて、結局笑ってしまった。
翌朝。講義室で席についた私の前へ、牛島が紙パックをひとつ置いた。
「昨日の礼だ」
「え?」
見慣れたパッケージのミルクティーだった。
「わざわざいいのに」
「君はこれをよく飲んでいるだろう」
購買で売っている、ごく普通の紙パックだ。確かによく買う。朝の講義前とか昼休みとか、ちょっと甘いものが欲しくなると、なんとなく手に取っていた。
でも、それを牛島に話した覚えはない。
「……よく見てるね」
「ん? そうか」
本当に分かっていないらしい。牛島は少し首を傾げただけで、すぐに席へ鞄を置いた。
私は手の中の紙パックを見下ろした。いつも自分で買っているものなのに、その日はなんとなくすぐ開けるのが惜しくて、しばらく机の上に置いたままにしていた。
そうやって月日が過ぎるうちに、牛島若利は私にとって、すっかり「若利くん」になっていた。
ただ、テレビをつけたとき、その若利くんが画面の中にいることだけは、いまだに慣れない。
ユニフォーム姿でコートに立って、何千、何万という人の歓声を浴びている。実況では彼の経歴が紹介され、観客席では私の知らない人たちが「牛島選手」とか、「ウシワカ」とか、その名前を叫んでいる。
そういう光景を見るたびに、なんだか変な感じがした。
テレビの中で世界を相手にボールを叩き込んでいる人が、数日後には何事もなかったみたいな顔で私の隣に座って、『この範囲は試験に出ると思うか』なんて訊いてくる。
画面の向こうにある遠い世界と、私のごく普通の大学生活。本当なら全然違うはずの二つが、若利くんを通すと当たり前のようにつながってしまう。
それが、いつも少し不思議だった。
「そういえば、あんたって牛島くんとよく一緒にいるよね」
二年生の夏休み。
テイクアウトのアイスコーヒーを一口啜るなり、友達が言った。この日は二人で図書館に来て、涼みながらレポートを書いていた。
「そうかな?」
「そうだよ。講義もよく被るし、ご飯も一緒に食べてるじゃん」
「学部が同じだからじゃない?」
「同じ学部の男子、他にもいるでしょ」
言われてみれば、確かにそうだ。
牛島にはバレー関係の知り合いもいるし、大学に入ってからできた友人とも普通に話している。忙しいわりに、ちゃんと友人関係を築いている。
だから私は、自分だけが特別に近いなんて、ちっとも考えたことがなかった。
よく一緒にいる。
そう言われて初めて、改めて考えた。
講義室で顔を見つければ、空いている隣の席へ行く。昼時に会えば、そのまま一緒に食べる。姿がなければ今日は遠征かなと思うし、数日ぶりに会えば、ごく自然に「おかえり〜」と声をかける。
いつから、こんなふうになったんだろう。
特別な約束をした覚えはない。どっちかが「一緒にいよう」と言ったこともない。ただ、会えば自然と隣にいる。
それだけ。
◆
「牛島くーん!」
夏の暑さもだいぶ落ち着いてきた、秋の頃。
弾んだ声につられて、何となく振り向いた。十数メートルくらい先の廊下で、牛島が何人かの学生に囲まれている。
「この前の試合、観たよ!」
「最後のスパイク、すごかった!」
「ああ。ありがとう」
「次の試合も観るね!」
どうやら、先日のSVリーグ戦の話らしい。その瞬間、ふと思い出した。
そういえば私、まだ何も言ってない。
試合は最初から最後までテレビで観ていた。コートを蹴るシューズの音。腕にボールが当たる乾いた音。牛島が高く跳んで、振り抜いた左手から放たれたボールが相手コートに叩き込まれた瞬間には、テレビのスピーカーが割れそうなくらい歓声が上がった。
画面越しなのに、牛島の打つボールだけ、なんとなく音まで違う気がした。
何万人もの人が、牛島若利を見ている。名前を呼んで、プレーに息を呑んで、点が決まれば歓声を上げる。
学生たちに囲まれた牛島を見ているうちに、ふっと言葉が浮かんだ。
――先、越されちゃった。
いや、別に早い者勝ちじゃない。試合の感想なんて、誰から聞いたっていいはずだ。牛島だって、そんな順番をいちいち気にするような人じゃない。
なのに。
輪の中には知らない女の子もいる。楽しそうに笑いながら若利くんを見上げているのが、なぜだかちょっと面白くなかった。さっき飲んだものが、喉のあたりに引っかかったような変な感じが残る。
何なんだろう、これ。
そう思ったとき、牛島が顔を上げた。ぱちりと目が合う。
「あ」
声をかけようと口を開くと、牛島は私に向かって小さく頷いた。でも次の瞬間には、周りの学生へ何か言って、その場を離れていった。
直後、校舎にチャイムが響いた。
「やっば」
次の講義は、始まってすぐに出席確認がある。私は慌てて講義室へ走った。
講義が終わって教室を出ると、廊下は次の授業へ向かう学生たちの声と足音でいっぱいだった。その流れから少し外れた壁際に、見慣れた大きな人影がある。
「今、いいか」
「……若利くん?」
思わず足を止めた。
「次、講義があるんじゃないの?」
「今日はこれで終わりだ」
「そうなんだ」
「ああ」
牛島はそこから動かず、まっすぐ私を見る。
「先ほど、何か言おうとしていなかったか」
「先ほど?」
「廊下で目が合ったときだ」
一瞬、何のことか分からなかった。でもすぐに、学生たちに囲まれていた彼と目が合ったことを思い出す。
「あー……うん。この前の試合、お疲れ様って言おうかなって」
「そうか」
「遅くなったけど、お疲れ様。観たよ」
「ああ」
「すごかった」
言った瞬間、もうちょっと何かなかったのか、と自分で自分に呆れた。
第三セットのスパイクがすごかったとか、サーブが決まった瞬間には思わず声が出たとか、終盤で相手に追いつかれたときなんてテレビの前で祈るように手を握ってたとか。
言いたかったことは、いくらでもあったはずなのに。出てきたのは、たった一言。
すごかった。
小学生みたい。
恥ずかしくなって視線を逸らしかけたとき、牛島が少しだけ間を置いて答えた。
「ありがとう」
いつもと変わらない、低く落ち着いた声だった。でも、なんとなく少しだけ嬉しそうに聞こえた。
「……それを訊くために待ってたの?」
「ああ」
「次に会ったときでもよかったのに」
「そうだな」
あっさり頷いた。じゃあ、もう用は済んだのかな。そう思ったのに、牛島は動かなかった。
「だが……」
周りを学生たちが通り過ぎていく。誰かの笑い声。階段を駆け下りる靴音。開いた窓の向こうからは、運動部の掛け声が聞こえる。秋の風が入ってきて、牛島の前髪を少しだけ揺らした。
「君が何を言おうとしていたのか、気になった」
とくん、と心臓が大きく鳴った。
「……え」
「だから待っていた」
牛島は、それ以上何も付け足さなかった。照れた感じもないし、何か意味を持たせようとしているようにも見えない。
ただ、気になったから待った。それだけなんだと思う。
たぶん彼は、もう何度も試合の感想を聞いている。知らない人からも、友人からも、同じようにバレーをする人からも。さっきだって、あんなにたくさんの人に声をかけられていた。
それなのに、私が何を言おうとしていたのかだけは、次でいいとは思わなかったらしい。わざわざここで待って、訊きに来た。
「……そっか」
喉がきゅっと詰まって、それしか言えなかった。
「ああ」
牛島はいつもどおり頷いた。本当に、いつもどおり。なのに私のほうだけが、さっきまでと少し違ってしまった気がした。
その日の帰り道。駅へ向かう人の波に紛れながら、ふと、あのミルクティーを思い出した。
――君はこれをよく飲んでいるだろう。
あのときは、よく見てるな、としか思わなかった。講義の前によく買ってるから。たまたま目についただけ。それくらいにしか考えていなかった。
でも。
もしかしたら。
私が思っていたよりずっと前から、若利くんはちゃんと私を見ていたのかもしれない。
それから私は、少しだけ困るようになった。講義室に入って牛島の隣が空いていると、ほっとする。
「おはよう」
「ああ。おはよう」
たったそれだけなのに、朝から少し気分がいい。嬉しい。でも、ちょっと落ち着かない。
キャンパスの向こうに背の高い男の人を見つけると、若利くんかな、と思う。違う人だと分かると、なぜかちょっとがっかりする。牛島から話しかけられれば嬉しいし、姿を見かけたのにタイミングが合わず話せなければ、その日はほんの少し物足りない。
たぶん、どれも前からそうだった。ただ私が、それに名前をつけていなかっただけだ。
名前を知ってしまったら、今までみたいな顔で若利くんの隣に座れなくなる気がしていた。
◆
いつもの喫茶店で、私はメニューを眺めていた。
「どうした」
「え?」
「なぜメニューを睨んでいる」
「……睨んでないよ」
「そうか」
「……どうしようかなと思って」
黒い文字を目で追う。ハンバーグ。オムライス。ハヤシライス。ナポリタン。
何度読んでも、全然頭に入ってこない。考えているのは、別のことだった。
隣に座る若利くんは、私のことをどう思ってるんだろう。
友達。
たぶん、それで間違ってはいない。大学で顔を合わせて、一緒に講義を受けて、ご飯を食べる。たまに連絡も取る。
どう考えても、友達だ。でも、その言葉が前より少しだけ窮屈に感じる。
この前、彼を囲んでいた女の子たちと同じところに、自分まで並ぶのは嫌だと思ってしまった。
テレビの中の「牛島選手」を知っている人なら、きっといくらでもいる。強烈なサーブを打つことも、世界を相手にスパイクを決めることも、日の丸を背負ってコートに立つことも。
でも私は、ハヤシライスを食べる若利くんを知っている。武士の冗談を真面目に受け取ることも、講義で分からないところがあると少しだけ眉間に皺を寄せることも、眠くなりそうな教授の話を聞きながら姿勢だけはちゃんとしていることも、口元を緩ませた時の表情を、知っている。
それで、もっと知りたいと思ってる。
誰も知らないような大げさな秘密じゃなくていい。バレーボールとハヤシライス以外に好きなものはあるのかとか、どんなときに笑うのかとか、苦手なものはあるのかとか。
そういう小さなことを、もう少しずつ知っていきたい。
「君はいつものナポリタンかと思ったが」
牛島の声で我に返った。
「今日は違う気分なのか」
「……かもね」
気持ちをごまかすみたいに、もう一度メニューへ目を落とす。すると隣から、「俺はナポリタンにする」と聞こえた。
「……え?」
「ナポリタンを注文する」
「若利くんが?」
「ああ」
「ハヤシライスは売り切れ?」
「売り切れかどうかは分からない」
「ああ、そう」
珍しい。まあ、そういう気分の日もあるか。
今日は牛島の反対側にもお客さんが座っている。そのせいで彼は少しこっちへ寄っていて、二人の肩は布越しに触れていた。シャツとカーディガン越しに、じんわり体温が伝わってくる。
前に、テーブル席へ移ろうかと訊いた日のことを思い出した。
――このままでいい。
あのときは何とも思わなかったのに、今はその言葉が妙に引っかかる。
「……なんで今日はナポリタンにしようと思ったの?」
訊いてから、何でもないふりをして水を飲む。
「君がいつも食べるからだ」
「あー。人が食べてるものって、食べたくなるよね」
「……それだけではない」
コップを置く手が止まった。牛島が言葉の途中で止まるなんて、珍しい。
顔を上げると、眉間に小さな皺が寄っていた。講義中、答えの分からない問題を前にしたときと同じ顔だ。
何て言えばいいのか、考えてる。
「君の好きな味を知りたい」
一瞬、店の音が遠くなった。
コーヒーカップがソーサーに置かれる音も、厨房から聞こえるフライパンの音も、後ろの席の話し声も、急にずっと遠くへ行ってしまったみたいだった。
「好きな味?」
どうにか声を出す。
「……私の?」
「ああ」
牛島は目を逸らさない。黒い瞳の中に、自分の姿が小さく映っている。
ふっと、ミルクティーのことを思い出した。
――君はこれをよく飲んでいるだろう。
あのときから、この人は私の好きなものを見つけていた。それで今度は、自分から知ろうとしている。
急に目を合わせていられなくなって、私はメニューへ視線を落とした。
ナポリタン。
そのすぐ上に、ハヤシライス。
心臓だけが、さっきから全然静かになってくれない。
「君は何を食べる?」
「私は……」
一拍置く。たぶん、顔が赤い。それをごまかしたくて、なるべくいつもどおりの声を出した。
「ハヤシライス」
牛島が一度、瞬きをした。
「そうか」
それから、ほんの少し口元を緩める。
私が知ってる、若利くんの笑い方だ。
店員が注文を取りに来る。
「ナポリタンを一つ」
「私はハヤシライスで」
注文を書き留めた店員が厨房へ戻っていく。しばらくすると、熱した鉄板でケチャップが焼ける甘酸っぱい匂いが流れてきた。炒めた玉ねぎの甘い匂いに、溶けたバターの香りも混じる。
隣では牛島が、いつもの静かな顔で料理を待っている。
肩はまだ、触れたままだった。
離れようと思えば、ほんの少し身体を傾けるだけでいい。
でも、私は動かなかった。
牛島も、動かなかった。
入学式の日、私はこの人と偶然肩をぶつけた。
あのときは、まさかもう一度話すなんて思っていなかった。名前を知るとも、隣で講義を受けるとも、一緒に昼ご飯を食べるようになるとも、ミルクティーをもらうとも、私の言葉を聞くために待っていてくれるとも知らなかった。
あの日は、ただ偶然ぶつかっただけだった肩が、今はこんなに近くにある。
私たちは古い喫茶店の狭いカウンターで肩を触れ合わせたまま、お互いの好きな味が運ばれてくるのを待っていた。
そっと一押し頂けますと嬉しいです!