松川夫婦の11月22日

昨年のいい夫婦の日にXで掲載していたSSです。乗せ忘れてました。
めっちゃ短いです。800文字くらい。

『11月22日』

 ケーキ屋の紙袋が、指先にほのかな温度を残していた。
 仕事帰りの冷たい風の中に、そのぬくもりだけがやけに優しい。
「いい夫婦の日だしな」と独りごちて、玄関の鍵を回す。
「おかえり」
 ドアの向こうから、いつもの声。けれど今日は、少しだけ弾んで聞こえた。
 紙袋を見つけた瞬間の奥さんの表情は、期待と照れの入り混じった、彼女特有のふわっとした笑顔だった。
 ああ、買ってきてよかった。その反応を見たくて、忙しい合間を縫って行列に並んだんだ。
「一静、私からも……ね」
 小さな箱を渡される。リボンをほどく指先が、なぜかほんの少し震えた。出てきたのは、一枚の白黒のフィルム。
 ──エコー写真。
「……マジか」
 言葉ってこんなふうに喉で止まるのか、と自分でも驚いた。胸の奥が一瞬で熱く、そしてじんわり広がっていく。
 試合で勝った時のような高揚とは違う。もっと、静かで、じっくり沁みてくる喜びだ。
「今日、分かったの。……エヘヘ」
 照れたように言う奥さんの目が揺れる。そのまま抱きしめたくなるのを、なんとか堪えた。泣かせてしまいそうで。
「びっくり、した?」
「そりゃあもう。……うれしいよ。すごく」
 続いてキッチンから漂ってきたのは、チーズが溶ける芳ばしい匂いだった。皿の上にはチーズインハンバーグ。
 俺の大好物。わざと今日に合わせて作ってくれたらしい。
 ケーキまで用意して、俺が喜ばせるつもりで帰ってきたのに。蓋を開けてみれば、全部ひっくり返されている。幸せの上書きをされてしまった気分だ。
 テーブルの向こうで、彼女が小さく微笑む。
「……敵わないな」
 ──本当に。
 エコー写真をもう一度そっと見つめる。
 そこに宿る、小さな命の影。これから始まる日々を思うと、胸の奥がじん、と温かくなる。
 いい夫婦の日。
 たぶん今日から、それはもっと特別な意味になる。