『溺愛彼氏』
彼女は、自分がかわいいことを知らない。
教室の隅で静かに本を読んでいるときも、名前を呼ばれて少し遅れて顔を上げるときも、褒められて困ったみたいに笑うときも。
全部、わかっていない。
だから厄介だった。
そういう無防備さに気づく男は、これまでにもいた。おとなしそう。優しそう。断らなさそう。勝手にそう決めて、彼女のそばへ寄ってくる。
美化委員で一緒だったやつ。
図書室で本を取ってやっていたやつ。
クラス会を理由にメッセージを送ってきたやつ。
どれも、恋になる前に潰した。芽のうちなら簡単だ。彼女に聞こえない場所で、「あの子だけはダメ。許さないよ」と少し釘を刺す。
「目が合ったら逃げられちゃった。私、何かしちゃったかな……」
そんな風に彼女が気にしていれば、眉尻を下げて「どうしたんだろうね」と合わせておけばいい。髪を撫でて、安心するよう微笑めばいい。
彼女は俺を疑わない。
俺の言葉を、いちばん柔らかい場所にしまう。
「私をかわいいとか言うの、倫太郎くんくらいだよ」
濡れたアスファルトの帰り道。紫陽花を背に彼女が呆れたみたいに笑った。湿り気を含んだ夕方の風が制服の裾を揺らして、彼女の髪からは甘いシャンプーの香りが零れた。雨上がりの空気に混じると、それは普段より少しだけ濃く、近く感じられる。
「俺だけでいいの」
「なにそれ」
「他のやつに言われたい?」
「そういう意味じゃないよ」
彼女は困った顔をする。その顔もかわいい。誰かに見られたら困るくらい、かわいい。
「倫太郎くんって、なんか……甘いよね」
「そう?」
「うん。すぐかわいいって言う」
「かわいいじゃん」
彼女は耳を赤くしながら小さく笑って、俺の隣を歩く。
自分の周りから誰が消えたかなんて、知らない顔で。
誰かの気持ちが始まる前に終わったことも、昼休みに彼女を見ていた男を俺が目だけで黙らせたことも、全部知らない。
知らなくていい。
彼女の世界に、余計な男はいらない。
「でもね」
「ん?」
「倫太郎くんが何回もかわいいって言うの、ちょっと嬉しい」
彼女は照れたみたいに目を伏せた。畳まれた傘の石突きで小石を避ける仕草まで、他の誰にも覚えられたくなかった。
「私モテないからさ。私をそういうふうに見てくれるのも、好きになってくれるのも、たぶん……倫太郎くんだけだよ」
その言葉で、体の奥が静かに満たされた。
ほら、ちゃんとそうなってる。
俺の言葉で、自分を測るようになっている。俺の目で、自分の価値を確かめるようになっている。
「……倫太郎くん」
「ん?」
「好きだよ」
夕陽が彼女の頬を淡く染めていた。雨粒を乗せた紫陽花よりも、ずっと胸に残る色だった。
俺は彼女の小さな手を取った。少し冷たい指が、すぐに俺を握り返す。
「俺も。大好き」
彼女は安心したように笑った。
それでいいんだよ。
誰がこの子に気づいたって、この子のところまで届かなければ意味がない。誰がこの子を好きになりかけたって、恋になる前に消えれば同じこと。
この子が俺を好きでいる。
この子に届く場所で、かわいいと言うのは俺だけでいい。
彼女がその世界を信じて、俺の隣で笑っている。
それが、全て。
悪いことをしているとは思わない。
だって、本人が俺を好きなら、それでいいじゃん。