「大丈夫? 珍しいね、クロちゃんが酔うの」
「……俺の企画が大成功しまして」
「それはおめでとうございます」
彼女は自販機で水を買い、キャップを開けてから渡してくれた。
重力に負けそうになった俺は、彼女に誘導されるまま、道の端に置かれたベンチへ腰を下ろした。水を一口含むと、ため息が出る。ぬるくなりかけた喉に、軟水の冷たさが落ちていく。胃のあたりに残っていたアルコールの熱が、少しだけ薄まった気がした。
彼女も隣に座った。距離は近すぎず、遠すぎない。その距離感が、もどかしい。あと少し近ければ責められるのに、ちゃんと遠いから逃げ場がない。
「あ、観たよ! スペシャルマッチ! ウシワカ選手、凄かったね〜! 木兎選手も。娘がビーム出してたよ」
ほら、と彼女がスマホを見せてくれる。画面の中で、娘ちゃんがボクトビームのポーズを決めていた。小さな足を踏ん張り、真剣な顔で腕を伸ばしている。その凛々しさに笑いそうになって、誰が撮影したのかを考えかけて、やめた。
「ホント、皆さんすげえのよ。おかげで俺の評価も上がっちゃいましてね」
「それで今日は祝賀会的な?」
「そ。そっちは?」
彼女がこんな時間に外にいる。だいたいは察しがつく。それでも訊いてしまう。仕事で生かせるこの癖が、今は恨めしい。早く帰りたいのに、会話を広げてしまうのは、もはや脊髄反射だった。
彼女も飲み会だったそうだ。スペシャルマッチは店内のテレビで観たらしい。娘とS太は『パパと娘のふたり時間』を楽しんでいるという。今どき子育てに積極的な父親は珍しくもないのに、感心してしまう。ちゃんと父親をやっているのだと思うと、妙に眩しかった。
「いい男になったもんだねえ、あいつも」
「ありがたいです」
彼女はそう言って笑った。嬉しいのに、見ていたいのに、目を逸らしてしまう。飲み会帰りのはずなのに、酒や煙の気配がほとんどない。いつもの彼女の匂いがした。
「クロちゃんもいい旦那さんになると思うけどね」
彼女の口からそれを言われると、なかなかくるものがあった。薄いナイフの切っ先を向けられた気分になる。悪意がないぶん、避けようがない。彼女は本気でそう思っているのだろう。俺の何を見て、そう思うのか。
「俺はダメ。仕事一筋」
「もったいないなあ。ま、今は結婚しなくてもいい時代だもんね」
ふふ、と小さく笑う声が鼓膜を震わせる。もう一口水を含みながら、街行く人を眺めた。彼女が何か話して、俺も何か返している。会話が脳を通過しない。何の話をしているんだ、俺たち。
信号の音、酔客の笑い声、タクシーのタイヤがアスファルトを撫でる音。全部が水の中みたいに遠い。
ぼんやりしていると、人が二重に見えた。
「よかったら飲み直さない? って誘おうと思ったけど……クロちゃん、だいぶ酔ってるね」
「いやあ〜、みっともない次第ですよ」
天を仰ぐ。息を吸って、吐いて、顎を引く。ぐわん、と脳が揺れた。これは本当にだめっぽい。
「タクシー拾おっか。今日は電車、やめときなね」
「……スマセン」
「いいよ。こういう時くらい頼りなさい」
彼女はさっと立ち上がり、道路を走るタクシーに向かって「すみませーん!」と手を伸ばした。居酒屋か。思わず、ふっと笑ってしまう。
「あ、迎車か……」
彼女は手を引っ込め、次のタクシーに向かってまた腕を伸ばす。その横顔を、街灯や看板の照明が照らしていた。視界のぼやけも手伝って、彼女の背景が金色にきらきら光って見える。なのに、彼女の輪郭だけはぶれなかった。白いブラウスの袖、揺れる髪、耳元の小さな金色。夜の中で、そこだけが焦点を結んでいる。
いくつかタクシーを見送り、ようやく一台が停まる。
「クロちゃん、捕まったよ!」
彼女が振り返り、駆け寄ってくる。立ち上がろうとした瞬間、視界が白く弾けた。
──クロちゃん! あそぼう!
「うわっ」
思わず腕を上げた。顔を庇ったのか、目の前の幻を払おうとしたのか、自分でも分からなかった。
そのまま膝から力が抜ける。
身体が予期しない方向へ崩れていく。
初めて彼女がぶれて見えた。飲みすぎか、はたまた疲労か。
飲み屋街の喧騒まで、遠ざかっていく──
「クロちゃん!!」
どん、とぶつかるように身体が受け止められた。次の瞬間、音が戻ってきた。通り過ぎる車のクラクションが耳に響く。
「クロちゃん……っ、しっかり!」
髪の香りが鼻を掠めて、意識が現実に引っかかった。彼女が俺の身体を支えている。細い腕で。ブラウス越しの体温が近い。思っていたよりあたたかい。そのことに、ひどく狼狽えた。
「いや、ごめんっ! なんか、グラっときたわ……っ」
「大丈夫? ゆっくり立って」
耳元で柔らかい声がすると、また力が抜けそうになった。なんとか体勢を戻し、立ち上がる。彼女は俺の肩に手を添えたまま、心配そうに瞳を揺らしていた。そんな目で見上げられると、背筋がむず痒くなる。腕を伸ばしそうになる。
ああ、もう。
情けなさに、羞恥より先に苛立ちが湧いた。自分に対してだ。三十にもなって、酔いと疲労を言い訳に、こんなところでぐらついている。
深呼吸をして、どうにか整える。
「……もう大丈夫」
嘘をついた。
彼女は訝しそうに見上げてくる。何か言おうとして、けれど「そっか」とだけ零した。それから目を逸らしながら、「タクシー、待たせてるから」と肩から手を離す。
俺はとっさに、その手を取った。
「……ちょっと待って」
「えっ?」
彼女が目を見開く。困惑している。俺も同じ顔をしていると思う。なぜ手を取ったのか、理解が追いつかなかった。
耳の奥で、どくどくと血が鳴る。
警告かもしれない。頭が、止まれと言っているのかもしれない。
「……クロちゃん?」
「酔い冷ましさせて」
「クロちゃ──」
彼女の頬へ手を伸ばした。
その瞬間、彼女の瞳孔が揺れた。薄い唇が小さく震える。
怯えではなかった。拒絶でもなかった。
ただ、予想していなかったものが目の前に差し出された時の、ほんの一瞬の空白だった。
──わたしの旦那、S太なの。
──クロくんだいすき〜!
息が止まった。
だめだ。
頬へ伸びていた俺の手は、軌道を変えて、彼女の髪を一束すくい上げた。親指の腹でそっと撫でると、優しい香りがした。それは、妻であり、母親である彼女の香りだった。俺が気安く触れていいものではない。そう思うほど、指先が熱くなる。
髪の束に、そっと鼻を近づける。目を閉じて、深く息を吸った。膨らんだ肺の中に、彼女の気配が少しだけ留まる。甘いのに、香辛料のような爽やかさがある。すう、と身体の中に溜まっていた熱が逃げていく。
こんな時に俺は、あのシャンプーのCMの曲名は何だったか、と記憶を巡らせていた。思い出した瞬間、声にならないものが喉の奥で震えた。
唇が髪に触れると、夜風が俺の頬を撫でた。そして、彼女の香りと共に離れていく。
「……ありがとう」
「……クロちゃん」
「さーて、帰りますか!」
ニシッと歯を見せてから、タクシーへ向かう。俺が乗り込むのを見届けようとする彼女の肩に手を置き、「せいやっ」と車内へ押し込んだ。
「クロちゃん!?」
「運転手さん、この人から行き先聞いてください。あ、お代はこれで〜。じゃっ! お願いします!」
「えっ、お、お金!? ちょっと! クロちゃん!」
バタン、と扉が閉まる。窓越しの彼女の顔は、完全に抗議していた。彼女は何か言いかけて、それから諦めたように運転手へ向き直る。そのまま車がゆっくり走り出した。
俺は立ち尽くしながら、遠ざかるテールランプを見送った。赤い光が夜の中で小さく滲み、やがて角を曲がって消える。指先には、まだ柔らかな髪の感触が残っていた。けれど、それも夜風に少しずつ攫われていく。
「……もう大丈夫」
今度は、嘘じゃなかった。
◆◇◆
黒尾から連絡が来なくなって、半年が経った。
彼女が夫に訊いても、「黒尾は忙しいからなー」としか言わない。夫は本当にそう思っているのか、それとも何かを察しているのか、分からなかった。ただ、黒尾鉄朗という男が忙しいのは事実だったし、夫の言葉には変な説得力があった。
昼休みにも会わなくなった。
以前は偶然のように道で会い、ランチへ行くことがあったのに、今はそれもない。昼を食べる暇もないくらい忙しいのだろうか。
娘の誕生日の朝、彼女はキッチンに立っていた。
娘が食べたいと言っていたバースデーランチの準備をしている。玉ねぎを炒める甘い匂いと、焼けたパンの香ばしさが部屋に広がっていた。リビングでは娘が朝からそわそわして、何度も鏡の前で髪飾りを直している。夫はそんな娘を見て、すでに顔がゆるんでいた。
ピンポーン、とチャイムが鳴る。
夫が玄関へ向かった。「宅配」と聞こえた気がした。
「パパ、それなにー?」
娘が夫の足元にくっつきながら訊く。
「荷物。黒尾から」
「クロくんから!? みせてみせて!」
「え、クロちゃん!?」
思わず、包丁を置いた。夫はリビングへ戻ってくると、小さな箱を掲げた。
「おう。この子の誕生日、覚えてたんだなあ〜。さすが黒尾。デキるなあ」
「パパちょうだい!」
「はいはい」
夫がほい、と渡すと、娘は待ちきれない様子で包装紙を剥ぎ取った。バリバリという音が、朝の部屋に響く。
「あーあ、せっかくのラッピングをそんなワイルドに……」
夫は呆れた声を出しながら、顔にはかわいいと書いてある。彼女は笑いそうになりながら、娘が散らかした包装の残骸に混じっていたカードを拾い上げた。
指先が、少し止まる。
黒いカード。
そこに金色の英字が印刷されていた。光を受けると、細い線がきらりと揺れる。その色を見た瞬間、あの夜を思い出した。
切実な顔で、髪をすくわれた夜。
頬に触れられると思った瞬間、身構えた自分。動けなかった自分。黒尾が途中で止まったこと。髪に触れた唇と、すぐに離れていった夜風。
何も起こらなかった。けれど、何もなかったとは言えない。あの一瞬だけ、記憶の中のクロちゃんではない、黒尾鉄朗という大人の男が目の前にいた。怖かったわけではない。ただ、許してはいけない距離が、ほんの少しだけ近づいた。黒尾はそれを、自分で止めたのだ。
「クロちゃん……」
彼女は目を伏せてから、ふっと口元に弧を描いた。
懐かしさとも、寂しさとも、ありがとうとも違う。名前のつかない感情だった。けれど、それは嫌なものではなかった。
「ママ、パパ、みてー!」
「おおっ……、鞄か?」
「わかんなーい!」
「ポシェットだよ」
「ぽしぇっとぉー!」
娘はプレゼントに興奮し、早速肩に掛けて鏡を見に行った。その後ろを、夫がスマホを持ってついて行く。
小さな身体に少しだけ大人びたポシェットが揺れている。娘が鏡の前でくるりと回ると、三日月の留め具が、娘の動きに合わせてきらきら光った。彼女はその光を見つめながら、もう一度だけ、黒尾の笑った顔を思い出した。
ひとしきり娘の写真を撮り終えた夫がやれやれ、とダイニングの椅子に腰掛ける。
「あれ、いいやつっぽいよなぁ。ちゃんと礼しないとな」
「だね」
「どこのブランドだっけか?」
「これだよ」
彼女は夫にカードを渡した。
夫は受け取り、黒地に金色の英字で書かれた文字を目で追う。
「ええっと……」
夫の声が、朝の光の中でゆっくり形になる。
「Stay Gold」