どうにもならない恋心に思い悩む黒尾鉄朗(30)の話

『Stay Gold』

 昼休みの一時間は、仕事の予定表の中でぽっかり空いた空気穴みたいなものだった。外に出た瞬間、六月の東京はもう少しだけ夏の顔をしていて、アスファルトの照り返しが革靴の底からじわじわ上がってくる。ネクタイを緩めながら、会社近くの店へ向かっていた。午後の会議で使う資料の数字が頭の端に残っていて、何を食うかも決めきれないまま交差点を渡った。そのときだった。
「……クロちゃん?」
 聞き覚えのある呼び方に、足が止まった。いまの俺をその名で呼ぶ人間は、ほとんどいない。振り返ると、歩道の端に女の人が立っていた。白いブラウスの袖が風に揺れて、耳元の小さなピアスが昼の光を拾っている。顔を見た瞬間、記憶の底で錆びついていた扉が、音もなく開いた。
「……え、もしかして」
「やっぱり! 黒尾鉄朗くん!」
 彼女はそう言って、からっと笑った。笑うと頬に小さな笑窪ができる。その癖があまりに昔のままで、俺は数秒だけ言葉を失った。
「いやいやいや、よく気づいたねえ」
「だって! その寝癖、そのまんま!」
 ひどい再会第一声である。けれど、彼女が声を立てて笑うものだから、こっちまで笑ってしまった。俺の髪型は成長ではなく継続らしい。
「昼飯?」
「うん。クロちゃんも?」
「そ。じゃ、せっかくだし」
「え、いいの?」
「いいもなにも、こんなとこで会ったら行くっしょ」
 近くの店に入り、向かい合って座った。テーブルの上には、水の入ったグラスが二つ。氷がからん、と鳴る。その音ひとつで、あり得ないほど懐かしい気分になった。彼女はメニューを覗き込みながら、ふと顔を上げる。
「やっぱり長いこと会ってないと、違って見えるね」
「そりゃまあ、二十年近く経ってますからねえ」
「人見知りだった面影、もう無いねえ」
「お嬢さんは変わらないけどね」
「お嬢さんって……、やだな、わたしもうおばさんだよー」
 なんせ三十ですからー!
 そう言って、彼女は手のひらで空気をぱたぱたとはたいた。大げさで、軽くて、少し照れ隠しみたいな仕草だった。
 スマホで注文を済ませたあと、彼女は画面を伏せた。その上に置いた左手の指が、きらりと光る。金色の輪が、昼の白い照明を細く弾いた。
 ああ、やっぱりね。
 そう思った。思っただけだ。顔には出していない、たぶん。言葉にもしていない。三十にもなれば、そのくらいはできる。……はずだった。
「あ、ふふ。結婚してるよ。一応」
 視線に気づかれていたらしい。意外と鋭い。彼女は遠慮がちに左手を見せてくれたあと、すぐに膝の上へ下ろした。見せびらかすのではなく、事実をそっと置くような動きだった。
「クロちゃんは?」
「独身デス」
「意外! 仕事が楽しいとか?」
「まあ、そんなとこ」
 それは事実だった。好きな業界で、自分に合った仕事をしている。忙しい。激務だ。けれど環境には恵まれていたし、実現したいことも山ほどあった。色恋がまったく無かったわけじゃない。ただ、仕事を最優先にする人間に、結婚は難しい。相手に寂しい思いをさせる未来まで想像できてしまうなら、最初から深く踏み込まない方がましだと思うようになった。
 注文したランチが運ばれてきて、そこからは仕事の話になった。彼女もそれなりに忙しく働いているらしい。若手の面倒を見る立場にもなりつつあって、昔は遠足の班分けで泣きそうな顔をしていたくせに、人間は変わるものだと思った。いや、違う。変わったところと、変わらないところが同居しているのだ。
 小学校の話もした。通学路の角にあった駄菓子屋、土管があるアニメみたいな空き地、校庭の桜、雨の日の図書室。あの頃は大したことだと思っていなかったものが、いまになって妙にきれいな色を帯びている。これが思い出補正ってやつか、とハンバーグを噛みながら思った。焦げ目の香りとソースの甘さに混じって、昔の夕方の匂いまで蘇る。くすぶっていたものが肋骨の内側をくすぐって、危うくにやけそうになり、咳払いで誤魔化した。
「なんか懐かしい曲流れてんね。CMのやつ?」
「……ほんとだ。シャンプーのCMのだ。一時期、使ってたんだよね。いい香りだったなあ。もう廃盤になっちゃったから、似た香りのシャンプー、めっちゃ探した」
 彼女が言うには、花束とスパイスを混ぜたような香りだったらしい。どちらも自分の生活に馴染みがなくて、すぐには想像できなかった。けれど、彼女が動くたび、髪から淡く漂う香りがある。甘やかで少し重たいのに、吸い込むとすうっと視界が晴れるような匂いだった。昼の店内に満ちる油とソースの香りの中で、その匂いだけが細い糸みたいにこちらへ届く。
「あ、今さらだけど……。わたし、クロちゃんにプライベートなことばっかり訊いてるよね。言いたかったらでいいからね。ごめん、懐かしくて、つい……」
「ぜーんぜん! 気にする間柄じゃないっしょ、俺ら」
「ありがと」
 彼女は目を細めて、ふわりと微笑んだ。柔らかくて、明るくて、こちらの力を抜いてしまう笑い方だった。かわいい、と思ってしまった自分の頬を、心の中で一発殴りたくなった。
「あ、そうだ! クロちゃんに会ったって旦那に報告しないと!」
「え?」
 自制も虚しく、”旦那”という響きに頬を殴られた。
「覚えてる? わたしの旦那、S太なの」
「S太ァ!?」
 追撃の平手打ち。
 忘れるわけがない。家が近所で、よく三人で遊んだ。俺が都内の小学校に転校してからも、しばらくは手紙や年賀状をくれていた。新しい学校で研磨やクラスメイトと遊ぶようになっても、どこかに残る寂しさを、あいつからの年賀状が少しだけ紛らわせてくれた。当時はスマホもSNSもなかったから、中学に上がる頃には少しずつ繋がりが薄れて、そのまま途切れた。
 あいつが、彼女と結婚していたのか。
 うわ、複雑。
「あいつも中高はいろいろあったからね〜。クロちゃんに会えたら喜ぶと思う!」
「いろいろねえ。ぜひ、お膳立てしてくれますか」
「もちろん。積もる話もあるだろうしね」
 にこりと笑った拍子に、指輪と同じ金色のピアスが揺れた。

 その日をきっかけに、俺たちは連絡先を交換した。そこから、幼馴染夫婦との交流が始まった。と言っても、彼女よりもS太と連絡を取ることの方が多かった。当然だ。彼女は幼馴染とはいえ既婚者で、俺が気軽に連絡していい女性ではない。月に一度くらいS太と飲みに行き、職場の近い彼女とは、昼休みにばったり会えばランチをする。それでちょうどよかった。そう思っていれば、余計なものに名前をつけずに済む。
 激務で特定の女性と付き合うことにも慎重になった今、恋愛に発展しない彼女との時間は、ささやかな癒やしだった。肩の力が抜けて、息がしやすくなる。そういう相手だった。
 再会した時、変わらないと言ったのは、半分本当で半分嘘だ。彼女は昔よりきれいになっていた。自分をおばさんだなんて彼女は笑っていたけれど、朝日を滲ませたような笑顔はあの頃のままだ。それでも確かにアップデートしている。何も褪せていない。変わっていないのに、変わった。なんて厄介なお嬢さんでしょうね。
 S太と飲んだあとは、大抵、楽しいと飲みすぎるあいつを家まで送り届けた。たまに上がらせてもらって、少しだけ飲み直すこともあった。そんな時に出くわす娘が、記憶の中の彼女に瓜二つだった。四歳。髪の柔らかさも、笑った時の頬も、少しだけ人見知りしたあと急に懐くところも、昔の彼女そのものだった。
「クロくん、かっこいい」
「お、見る目あるねえ〜」
「えへへ、クロくんだいすき〜!」
 無邪気に抱きつかれるたび、俺は天を仰いだ。
 小さな腕の温度が、笑えないくらい懐かしい。子ども特有の甘い匂いと、風呂上がりの石けんの香りがふわりと鼻先を掠める。隣で彼女が「仲良しだねえ」と微笑ましそうに笑う。その顔を見ると、どこかが薄い紙みたいに裂けた。
 帰り道、夜風を浴びながらアスファルトを歩いた。街路樹の葉が乾いた音を立てる。コンビニの明かりが遠くで白く滲み、酔いの残った視界の端で、やけに眩しく感じた。
「同じ顔で言われちゃあねえ……」
 ありもしない記憶を捏造してしまう。ランドセルを背負ったあの頃の彼女が、夕方の公園で振り返り、「クロちゃんだいすき」と笑う顔。そんなこと、一度だって言われたことはない。ないのに、想像の中では妙に鮮明だった。
 だめだ。
 酔っている。だいぶ。

「どんまい、クロ」
 研磨の家で話すと、家主はこたつに溶けたまま、いつもの平坦な声で言った。笑いもしない。低く鳴る暖房の音と、ゲーム画面の電子音だけが部屋に残っている。モニターの光が、研磨の横顔を青白く照らしていた。人の失恋未満の話を聞く顔としては、あまりにも温度がない。
「『幼馴染同士の一途な純愛』でもなかったんだ。チャンスあったじゃん」
「ハッキリ言わないでくれます?」
 彼女とS太は、社会人になってから偶然再会して、そこから付き合い始めたらしい。しかも、俺と彼女が再会した場所と同じ近辺で。彼女から聞いた時、まさに研磨が言ったことを心の中で叫んだ。タイミングさえ合えば。あの日、俺がそこにいれば。そんな未練が、しつこい油汚れみたいにこびりつく。
「不倫はやめときなよ。あ、でもクロならうまくやるか」
「しません!!」
 思ったより声が大きくなった。自分で自分に言い聞かせたみたいで、余計にまずかった。研磨は少しだけ眉を上げる。俺はこたつの天板に肘をつき、息を吐いた。
 彼女の家庭を壊すことはしたくない。S太も、娘ちゃんも、彼女も、もうみんな大事な人たちだ。問題は俺の気持ちだけなのだから、こちらで処理をしなければならない。
 関係を変えたいなんて、思わない。仮に変わったところで、自分には彼女を大切にできない。したいとは思う。きっと、めちゃくちゃ大事にしたくなる。けれど、そのためには仕事と天秤にかけなくてはならない。俺には実現したいことがある。そのために今、踏ん張っている。
 恋人か仕事かなんて、選べない。選べていたら、俺はとっくに結婚している。そう言い切ることで、自分の薄情さも、臆病さも、まとめて仕事のせいにしている。分かっている。全部。
「いっそ言っちゃえば楽になるんじゃない? 昔好きでした、とかさ。今の部分には触れずに」
「そんなことはねえ……」
 言ってんのよ、とっくに。
 二回目に会った時、ファミレスで言った。ハンバーグを切る彼女の手が止まって、ソースの上でナイフが小さく光った。彼女は「うっそー!」と口元を手で覆い、それから「なんか嬉しいなあ、光栄ですっ」とカラリと笑った。その反応だけで、いろいろ悟った。
 そこに照れはあった。驚きもあった。けれど、こちらの熱に触れて火傷するような気配は、少しも無かった。
 今の自分がどれだけ女性の注目を集めようと、仕事で評価されようと、肩書きが増えようと、彼女の中では俺は『人見知りで引っ込み思案なクロちゃん』のままだ。会っていなかった二十年は、彼女にとってはただの空白でしかない。思い出を温める期間ではない。思い出補正なんてものは、思い入れがあったものにしか適用されないのだ。
 うなだれる俺をよそに、研磨は「あ、配信の時間だから」とゲーミングチェアに座った。ディスプレイの電源が入り、ヘッドホンを装着した瞬間、幼馴染の研磨は『世界のコヅケン』へ変身する。切り替えの速さが腹立たしいくらい見事だった。
 帰ろうと玄関へ向かった時、「クロ」と呼ばれた。振り向くと、研磨がヘッドホンを片耳だけずらしている。画面の中ではコメントが滝みたいに流れていた。
「次のコラボ……考えとくから」
「……マジすか」
「忙しくしてた方がいいでしょ」
「研磨ぁ……っ」
「泣きそうな声出さないで。配信中だから」
 そう言いながら、研磨は少しだけ笑った。分かりにくい優しさだった。昔からそうだ。淡々とした顔をして、必要な時にだけ手を伸ばしてくる。俺は靴を履きながら、喉の奥に残っていた苦いものを飲み込んだ。

 それからは、世界のコヅケンとのコラボ企画、スペシャルマッチ企画の第二弾に向けて、各地に散った妖怪たちを集める日々が続いた。交渉、調整、移動、また交渉。国内で済むならまだいい方で、海外にも飛んだ。空港の硬い椅子で仮眠を取り、時差のせいで胃が妙な時間に鳴り、ホテルのベッドでは資料を胸元に落としたまま寝落ちした。朝にはスーツケースの中身がぐちゃぐちゃになっていて、洗面台の鏡に映る自分の顔は、寝不足や疲労どころではない荒れ方をしていた。
 忙しいと、彼女とは物理的に距離ができた。昼休みに偶然会うこともなくなり、連絡先の画面を開く回数も減った。考える時間が削られると、心にかかっていた靄も少しだけ晴れたような気がした。気がしただけかもしれない。それでも、立ち止まる暇がないというのはありがたかった。余計なものに名前をつける前に、次の仕事が手首を掴んで引き戻してくれる。
 とにかく企画を成功させる。それだけに集中した。

 ボロボロになりながら迎えたスペシャルマッチ当日、会場の熱気は凄まじかった。テレビも配信サービスも数字が良く、SNSの反響も大きい。妖怪世代と呼ばれた選手たちが、ベテランとして若手を牽引しながら活躍する姿は、特に話題になった。
 コートの上で跳ぶ彼らは、年齢を重ねてもなお眩しかった。青白い照明の下で、ボールが弾けるたびに歓声が湧く。床を蹴る音、シューズが擦れる高い音、観客席から立ち上る熱気。俺は裏方として見守りながら、何度も鳥肌が立った。
 ああ、やっぱりこの仕事が好きだ。
 自分が手放せないものの重さを、歓声の中でまざまざと思い知らされた。

「──では、企画の成功を祝して。功労者の黒尾くんに……乾杯!!」
 上司の音頭で打ち上げが始まった。黄金色のジョッキを持ち上げ、喉へ流し込む。冷たいビールが、乾ききった身体に染みた。胃のあたりがじわりと熱くなり、指先の力が抜ける。
 みんなが口々に「黒尾さんさすが!」だの「黒尾さんの交渉力マジすげえ!」だの言ってくれていた、気がする。けれど、その声はどこか遠かった。
 達成感はある。確かにある。身体の隅々まで仕事の疲労で満ちていて、それは悪い疲れではなかった。なのに、芯のあたりだけがひどく重い。
 ふう、とひとつ息を吐いた。すかさず後輩が「黒尾さん、さすがに疲れましたか」と声をかけてくる。
「そうねえ。酒飲んだらなーんか脱力しちゃってねえ〜」
 適当な返事をすると「燃え尽き症候群みたいっすね」と笑われた。
 そうか。俺は灰か。
 それでも、灰の下で残り続ける熾火がひとつ。

 解散後、二軒目に誘われたが、さすがに断った。もう一杯飲めば、笑って朝まで付き合えたかもしれない。けれど、今夜はそれができなかった。
 冷たい夜風を浴びながら歩く。火照った頬に風が当たり、アルコールの熱が少しずつ剥がれていく。見上げた空には三日月が浮かんでいた。満月より淡く、優しい光だった。
 二軒目についていけば、酔った上司に連れられて朝までコースだっただろう。なんだか今は、朝日を見たくなかった。眩しくて、目が焼けてしまいそうだった。

 ──クロちゃん。

 糸をほどいたような声が聞こえた気がした。だめだ。大して飲んでいないはずなのに、アルコールが悪さしている。いや、酒だけじゃない。疲労と達成感と、ずっと見ないふりをしていたものが、身体の内側で一緒くたに溶けている。
 ──クロちゃーん?
 花の香りがする。それと香辛料。綿を詰められたような頭を、少しだけクリアにする香り。吸い込むたびに喉の奥が熱くなる。
 帰ろう。
 早く。風呂に入って、水を飲んで、それから眠る。眠ってしまえば、たぶん大丈夫だ。朝になれば、また仕事の顔に戻れる。黒尾鉄朗として、ちゃんと立てる。

「クロちゃん!」
「──っ!?」

 目の前に、華奢な影が立ち塞がった。顔を上げると、目が合う。街灯の光が彼女の髪の輪郭を薄く照らし、耳元の金色が小さく揺れた。
「やっと気づいた、クロちゃん」
 朝日を滲ませた笑顔。目が焼けるような、琥珀の余韻。
 あ、やばい。
 せっかく仕事で固めていたものが、足元から静かにほどけていく。
 力が、抜ける──