訳あり男の松川くんと結婚する話

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 墓参りから帰って二日後の夜、リビングでひとり、矢巾が送ってくれた飲食店のURLを開いた。
「この店は……最近できたのか」
 店のホームページかと思ったが表示されたのはSNSの動画だった。一分ほどの映像の中で薔薇色のローストビーフが切り分けられ、薄切りのバゲットにはパテ・ド・カンパーニュがたっぷりと添えられている。さすがチャラ男、いい店を知っている。彼女も喜びそうだ。
「一静くん、帰ってたんだ」
「うん、さっきね」
 時計の針が八時を指したころ、彼女が仕事部屋から出てきた。名前を呼ばれると、いまだに少しくすぐったい。
「今日は遅かったね」
「うん……最近、空き部屋が増えてきてさ」
 彼女は力なく肩を落とし、ため息交じりに答えた。俺が気づいただけでも、今月に入って三度目のため息だ。婚約者の命日の朝と、昨日と、今。昨日はトイレの前で腹に手を当て、うんざりした顔をしていた。姉がいる身としては、なんとなく察する。
「あのさ。次のホテル、俺が予約してもいい? いいビストロを教えてもらったから、その近くに泊まろう」
 スマホの画面を差し出すと、彼女が自然に顔を寄せてきた。
「どれどれ……うわ、おいしそう!」
 期待していた反応につい口元が緩みそうになる。
 店を教えてもらったのは矢巾と昼飯を食べ終えたあとだった。
「なあ、矢巾。いい店知らない?」
「奥さんとですか? 記念日とかですか?」
「奥さん以外に誰がいんの。最近、疲れてるみたいだからさ。うまいもの食べて、元気出してもらいたい」
「まじすか。松川さん、すっかり愛妻家じゃないすか!」
 そう言われた瞬間、反射的に否定しかけた。夫婦だから、支え合いだから、と。なぜか言葉にできなかった。
「予約していい?」
「あっ……う、うん。お願いします!」
 動画に見入っていたのか、焦ったような返事が返ってきた。そのままビストロとホテルを予約する。ホテルは普段より少しいい部屋を選んだ。彼女に内緒でロゼワインと、好きなパティスリーのフルーツタルトも用意するつもりだ。
 結婚記念日にはまだ早い。それでも、ため息月間に入った彼女の気分を少しでも晴らしてやりたかった。
 それも本音だが、もう一つ、風邪をひいた彼女を置いて婚約者の墓参りへ行ったことへの罪悪感もあった。
「体調、大丈夫なの?」
「平気平気。喉のイガイガと、ただの微熱だし。行ってきなよ」
 あの日彼女はからりと笑った。そのあと、玄関で靴を履く俺の背後からマスク越しのため息が聞こえた。気だるげな息は布の内側に留まっていたはずなのに、じっとりとした湿気が背中へまとわりついたようで、落ち着かなかった。
 予約完了のメールを確認していると、矢巾からまたメッセージが届いた。ほかにも評判のいい店や、ワインを飲むならここがいいと、こちらが頼んだ以上の情報が次々と送られてくる。
 読むたびにふっと口角が上がった。いい後輩を持ったと思う。どれも彼女が喜びそうな店で、センスがいい。今後の店選びに困ったときは参考にさせてもらおう。
 スマホを眺めながらにやけるのをこらえていると、彼女が訝しげな視線を向けてきた。何でもないと言う代わりに、大げさに眉を上げておどけてみせる。

 軽く夕食を済ませ、シャワーを浴びてリビングへ戻ると、彼女はソファでテレビを流し見しながらマニキュアを塗っていた。薄いラベンダー色の小瓶を傍らに置き、息を止めるような顔で爪へ刷毛を滑らせている。マニキュアのつんとした匂いと、甘いボディクリームの香りが混じっていた。たったそれだけの姿なのに、目が離せない。
「ねえ」
「あ、ごめん。臭い?」
「いや、平気。そんなにきつくないし。酒、飲むか聞こうと思っただけ」
「ごめん、あと五秒で終わる。……よし、終わった」
 彼女は爪にふうと息を吹きかけ、小瓶の蓋を閉めた。
「お酒はやめとく。今、生理中だし」
「そっか。……なら、ココアでも作ろうか?」
 生理と言えばココア。もはや慣用句。
「ああココア、まだあったかなあ」
 彼女は立ち上がって台所へ向かった。塗りたての爪を気遣いながらお茶の引き出しを開けると、残念そうに眉尻を下げる。
「切らしてた」
 このまま寝ると言いだしそうな空気を察しつつ、追加のビールを取るために冷蔵庫を開けた。ついでに何かないかと中を見渡す。
「お」
「何?」
「温めた豆乳はいかがでしょうか。はちみつ入りで」
 ドアポケットに豆乳があった。シチューを作るために買っていたものだ。腹痛に効くのかは知らないが、温かいものなら何も飲まないよりはいいだろう。
「飲みたいかも。……一静くん、作ってくれるの?」
 彼女の目がほんの少しの遠慮を含みながら、光を集めていく。
「作るよ。せっかくきれいに塗ったマニキュアが落ちたら嫌でしょ」
「もう乾いてるけど……」
 その小さな声は聞こえなかったことにして、棚から鍋を取り出した。豆乳を火にかけると、開いたままの引き出しに茶色い蓋の瓶が見えた。
「シナモン入れるとうまいかもよ」
 何かの番組で冷えた日にいいと聞いた覚えがある。何より、香りがいい。さて、彼女の反応はいかに。
「お願いします……!」
 訊いて正解だった。彼女の目が一瞬だけ小さくきらめいた。

 彼女がマグカップに息を吹きかけると、シナモンの独特な甘香が鼻先をくすぐった。立ち上る湯気に一足早い冬を感じて目を細めると、矢巾に教えてもらった飲食店の動画を思い出した。クリスマスは彼女にうまいものを食べさせたい。いや、一緒に食べたい、が正しいか。
「おいしい」
 ホット豆乳をひと口飲み、彼女が表情をほころばせた。
「作ってくれてありがとう。すごく温まる」
「そりゃよかった」
 助け合いですから、と言いかけてやめた。
 彼女はまた小さく「おいしい」と言いながら豆乳をすすり、テレビの音に引かれるように画面へ視線を戻した。
「じゃ、俺も」
 缶ビールのプルタブを引く。ぷしっと泡が弾け、青く苦い匂いが鼻を刺した。ごくりと飲めば、炭酸の刺激が喉を叩き、苦みが軽く尾を引く。
「あー、うまい!」
「本当にいい飲みっぷりだよね」
「この喉越しがたまらないんですよ」
「私も飲みたくなったかも」
 最近こういう時間が増えた。以前は一緒に食事と片づけを終えれば、どちらかが自然に席を立ち、自分の部屋へ戻ることが多かった。今も基本は変わらないけれど、リビングに残る時間は少しずつ長くなっている。彼女がカップを片手にテレビを見て、俺が車の雑誌をめくる。ソファに並んで座ることもあれば、ダイニングで向かい合って雑談することもある。俺がくだらない冗談を言えば、彼女が突っ込んだり、乗ってきたりする。
 ああ心地いい。酒もうまい。
「もう一本、飲もうかなあ」
「ご機嫌じゃん」
「そりゃあ」
 幸せだから、と続けかけて、やめた。
「何かいいことあった?」
「ありまくりだよ」
「へえ……」
 彼女の声が訝しむような低さになった。さっきまでバラエティ番組を見て笑っていたのに急に温度が下がった。何事かと身構えてしまう。彼女はしばらく俺を見定めるように眺めていたが、ふいと視線を外した。
「もし結婚したい人がいるなら、ちゃんと言って。離婚には応じるから」
「は……え?」
 離婚。
 缶を持つ手に、無意識に力がこもった。何を言われたのか一瞬分からなかった。
「……離婚」
 彼女はテレビを見たまま小さく繰り返した。
 どうして、そんな話になる。
「えっと……何か、誤解してると思うんだけど」
「誤解?」
「なんで離婚なんて言いだすの。俺には、全然そんなつもりないけど……」
 彼女がこちらを向いた。まだ何かを探るような目で見ている。
 そうだ。彼女は、もともと警戒心の強い人だった。十数年ぶりに再会して入ったカフェでも、奥のソファ席ではなく、すぐに立てる椅子席を選んでいた。彼女の中で、今、何かを恐れたときの防衛本能が働いている。俺の言動を、悪い方へ受け取っているのだろう。
 ひとつ息を吐き、まずは自分を落ち着かせる。
「俺は今の生活が好きだから、やめたくないよ」
 彼女の目が、ゆっくりと見開かれていく。マグカップを包む指先に少しだけ力がこもったのが分かった。
「でも、最近の一静くん、ご機嫌すぎる。それに、いいことがあったのか聞いても、はぐらかすし……」
 記憶を辿る。そういえば、スマホを見ながら笑っていた俺に、いいことがあったのかと尋ねてきたことがあった。そのときは、まだ内緒だとはぐらかした。メッセージの相手は矢巾だ。にやけていたのも、彼女の反応を想像したからだった。けれど彼女から見れば、俺の行動は十分怪しかったのだろう。
「ごめん」
 素直に謝ることにした。
「誤解させてごめん。でも、君が想像してるような、結婚したい人なんていないよ。本当に」
「……そうなの?」
「そうだよ。嘘じゃない」
 彼女が小さく「うん」と頷き、警戒を孕んでいた目が少しだけ緩んだ。
「じゃあ、はぐらかした理由を聞いてもいい?」
「それは……」
 ここでたじろげばまた疑われる。せっかくのサプライズは台なしになるが、離婚を回避するにはもう明かすしかない。
「最近、君がため息ばかりついてたから、その……今度ホテルに泊まる日にさ」
「うん」
「サプライズを用意するつもりだったんだ」
「え? サプライズ?」
「……もうサプライズじゃないけど。せめて、詳しいことは内緒にさせて。君の好きなものを用意した、とだけ言っておく」
「そう、だったんだ」
 彼女の目に安堵の色が戻り、頬が少しずつ桃色に染まっていく。胸に手を当ててほっと息を吐いたかと思えば、今度はおろおろし始めた。
「ごめんね。せっかく考えてくれたサプライズ……。というか、私、そんなにため息ついてた?」
「出てたよ。重いのが三つ」
「ごめん。本当にごめん」
 今度は彼女が頭を下げた。ひとまず離婚の話は取り下げてもらえたらしい。
「でも、ありがとう。……気にかけてくれて」
「……夫婦だからね」
 その言葉を口にした途端、心の底からほっとした。それほどまでに、俺はこの生活を手放せなくなっているらしい。
 彼女はマグカップを両手で包んだまま立ち上がり、自室へ向かった。その途中で小さく息を吐く。ため息ではない。張りつめていたものをほどくような、細く温められた息だった。
 その背中を見送っていると俺がこの生活を手放せない理由が、ようやく輪郭を帯びてきた気がした。広い家も、家賃のかからない暮らしも、いつか買いたい車も、ありがたい。ありがたいけれど、違う。彼女がこの家で安心したように息を吐く。その気配が、知らないうちに俺の帰る場所になっていた。
 テーブルの上に伏せたままのスマホへ、ふと目をやる。さっきまで見ていた料理の動画も、矢巾から届いた店の候補も、画面を閉じれば消えてしまう。それなのに、彼女がマグカップを抱えていた手の形やマニキュアの色、豆乳の白い湯気、微かに染まった頬が、まぶたの裏に焼きついて、離れない。