◆
「お願いします――えほっ」
「はい。おかけになってお待ちください」
老婆のようにかすれた自分の声に小さな咳が交じる。受付の女性は顔を上げることもなく、慣れた手つきで問診票を受け取ると、すぐにディスプレイへ視線を戻した。
近所の耳鼻科に来ていた。夏のうだるような暑さから一変し、ようやく訪れた秋に浮き立つ暇もなく、冷たく乾いた風と朝晩の寒暖差にあっさり調子を狂わされた。今朝から頭が重く、喉もいがらっぽい。微熱もある。
「松川さーん」
「はい」
返事は自分でも驚くほど濁っていた。看護師に促されるまま診察室へ向かう。松川さん、と呼ばれることにも慣れてきた。
今日は結婚後初めて迎える松川くんの亡くなった婚約者の命日だ。昨夜の彼はどこか気もそぞろだった。
「明日、行ってくるね」
「うん。気をつけて」
「泊まりだけど、嫌だったらちゃんと言って」
「ええ? 本当に大丈夫だってば」
夕食の席で茶碗を片手に正面へ座る松川くんは、眉を八の字に下げながら私の顔色を窺っていた。私は何かを誤魔化すように、あっけらかんと返した。
墓参りの日には婚約者の実家に一泊すると聞いたときはさすがに驚いた。泊まって何をするのだろう。どうして泊まるのだろう。不快だったわけではなく、純粋に気になった。婚約者のご両親とは、彼女の葬儀の日に初めて顔を合わせたと聞いていた。亡くなる直前に両家顔合わせの日取りを決めたばかりだったというから、生前から親しかったわけではないはずだ。
けれど、何も聞けなかった。亡くなった人のことには、あまり深入りしたくなかった。
「近況報告してきなよ」にっこり笑った私に、松川くんはわずかに口元を引きつらせた。それから「そうするね」と答え、何かを飲み込むように口を閉じた。
今朝、ふっくらと咲いた色とりどりのスプレーマムを抱えて家を出た彼の背中が、いつもより遠く感じられた。
「――えっと、妊娠の可能性は……あり?」
耳鼻科の先生が問診票を見ながら尋ねる。
「はい。あり、です。……まだ可能性ですけど」
前回の生理からまだ一か月も経っていない。先生は「はいはい」と軽く答えながら、さらさらとペンを走らせた。何を書いたのか気になったけれど、そこにあったのはミミズのような走り書きだけだった。目を凝らしてみても、熱で綿を詰められたような頭では到底読み解けなかった。
診察はすぐに終わった。受付で会計を済ませて処方箋を受け取ってクリニックを出る。数歩先にある薬局へ入り、消毒液の奥に白檀に似た香りが漂う待合室でソファに腰を下ろした途端、全身から力が抜けた。
熱に浮かされたような倦怠感のせいで何をする気にもなれない。それなのに今日は家に帰ってもひとりだ。薬を飲むために何か食べ、洗濯物を取り込み、風呂も掃除しなければならない。どれも後回しにできることなのに、そう思うだけでうんざりした。
面倒くさい。もやもやする。
同居人がいることのありがたみを実感する。松川くんは普段から担当分の家事をきちんとこなしてくれる。今日が命日でなければ、率先して家事を片づけ、看病までしてくれたと思う。
結婚する前ならこの程度の風邪は解熱剤を飲んで大人しくしていれば治っていた。自分の面倒は自分で見るしかなかったから、どれだけしんどくてもそれなりに動けていた。それなのに、すっかり分担制の楽さに慣れてしまった。長年の一人暮らしで培ったタフネスが消え失せていたことに、弱ってから気づくのだからどうしようもない。
壁に掛けられたテレビから甲高い笑い声が響いた。ホテルのビュッフェ特集らしく、人気芸人とベテランタレントが皿に盛った料理を何かに例え、冗談を交えながら面白おかしく食べている。
今ごろ松川くんも昼食をとっているのだろうか。婚約者の気配が色濃く残る家で、ご遺族と一緒に。
薄暗く重たい食卓で喪に服すような顔をしながら寿司や重箱に詰められた料理をつつく情景が浮かんだ。けれど、松川くんならそんな空気にはしない気がする。かといって、無理に笑いを取ろうとする人でもない。
ふと想像してみる。松川くんが二人の出会いから思い出を少しずつ手繰り寄せ、ご両親が彼の知らない娘の姿をぽつりぽつりと足していく。懐かしさに目を細め、ときには笑い合うのだろう。それでも会話が途切れれば、誰も触れられない空席のようなものが、食卓のそばに置かれている。場が悲しみに沈みきらないように、松川くんはきっと、静かに空気を温め続けるのだ。
「……疲れそう」
それを毎年続けるのは途方もなく疲れそうだ。風邪っぴきのだるさに引き摺られて、そんなことを思ってしまう。
「――男の子だって!」
薬を受け取って外へ出ると弾んだ声が聞こえた。正面のビルの前で、スマホを耳に当てた妊婦が誰かに報告している。
二階のガラス窓に並ぶ文字を目でなぞると、産婦人科クリニックと書かれていた。初めて知った。自宅から徒歩五分、いつものコンビニへ行くときに何度も通っていたはずなのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。
妊娠したらこのクリニックのお世話になるのだろうか。
そう思った瞬間、下腹のあたりがほんの少しだけ重く感じられた。もちろん気のせいだ。
「来るのかなあ、うちにも」
家へ歩きながらマスクの中で呟いた。子どもを持つかどうかについては結婚前に話し合っている。その話題になったとき、松川くんは撫でるような優しい声で答えた。
「協力する。子どもがいたら楽しいだろうし、正直、嬉しいと思う。……でも、君と二人きりの人生も悪くないと思ってるよ」
こちらの不安を拾い上げるような言葉に心底ほっとしたことを覚えている。同時に、少しだけ怖くもなった。
「私は……欲しい、かな」
孫を待つ両親を喜ばせたいから。親孝行がしたいから。そう理由づけておけば聞こえはよかった。
けれど本当は、子どもができれば、この結婚がもっと確かなものになる気がしていたのだと思う。助け合いという言葉だけで繋がった不安定な関係に、誰にもほどけない結び目が欲しいのかもしれない。子はかすがい、という言葉を都合よく思い出す。その考えが正しいかどうかは分からない。それでも、あまりきれいな理由ではないことは分かる。
そんな後ろめたさから妊活のために肌を合わせる日は、自宅ではなくホテルで過ごしている。互いに予定を確認し、場所を決め、食事をして泊まる。どこか事務的で、事務的だからこそ、本当の理由を見透かされずに済むような安心感もあった。
ホテルを選んだのにはもう一つ理由がある。
以前、松川くんに頼まれてネクタイを取りに入った部屋で、小さな写真立てを見つけた。もともとは私の両親の寝室だったが、二人が長野へ移住してからは空き部屋になっていた。結婚を機に家具を処分して、松川くんが一人暮らしで使っていたベッドや収納を運び込んだ今では、すっかり彼らしい静謐さを湛えた空間になっている。
写真に人は写っていなかった。淡い光を受けた湖面と、遠くに霞む山並み。ただの風景写真なのに、不気味なほど美しかった。誰と見た景色なのかは想像するまでもなかった。
そこにあの人は写っていない。けれど、いるような気がした。
だから自宅ではなくホテルを取ろうと提案した。場所を変えても肌を合わせている最中には、うっすらと何かの気配を感じることがある。無防備になって感覚が鋭くなるせいだろうか。彼の熱に満たされたあと、ひやりと一匙の冷気がこめかみに触れる。そんなことが何度かあった。
それでもあの写真と同じ屋根の下にいるよりはましだった。
結婚と同時に始めた妊活ももうすぐ一年になる。なのに生理は毎月予定どおりにやってくる。両親に孫ができたと報告できる日はまだ先になりそうだ。意外にも、結婚前はあれほど騒いでいた母が何も言ってこないため、少なくとも外から急かされることなく続けられている。
「ここ、どう? 最近できたところだから、絶対きれい」
「いいね。……あ、今ならウェルカムドリンクがつくみたい」
「よし、決まり。朝食ビュッフェはどうする? 食べる?」
松川くんとちょっとしたお出かけのつもりで宿泊先を探す時間は、思いのほか楽しい。こうして二人で過ごす予定を立てるのも悪くないと思う一方で、胸の片隅に引っかかっていることがある。
最近、松川くんの機嫌がやけにいい。
別に悪いことではない。むしろ、いいことだと思う。
先日は「——ちゃん」と名前を呼ばれて振り返れば、車の雑誌を広げ、掲載されているSUVを指さして尋ねてきた。
「この車、どう思う?」
「いいんじゃない? かっこいい」
「だよね。ああ、でも、こっちのメーカーも捨てがたい……悩むなあ」
眉間に皺を寄せて腕を組んでいるのに、誰が見ても嬉しそうだった。普段の松川くんはもう少し落ち着いていた気がする。そんな彼のはしゃぎように、私は少し戸惑っていた。
何より気になるのは、スマホを見ながらふっと笑うことが増えたことだ。画面の向こうにいる誰かを見て、笑っているのかもしれない。
あまり干渉するのもどうかと思っていたが、とうとう見過ごせなくなった。画面を伏せながら唇の端を震わせる松川くんにさりげなく尋ねてみた。
「いいニュース?」
「ん? ああ、まだ内緒」
まだって、何だ。
恋でもしたのだろうか。
恋をすることまでは、お互いに禁じていない。妊活を続けるあいだはほかの相手と身体の関係を持たず、誰かと正式に付き合うならその前に話す。あとは、今の生活を崩さず、周囲にも知られないようにする。それが二人で決めた最低限の線引きだった。
だから、すでに誰かと付き合っているとは思わない。それでも、まだ本人も恋と呼んでいない気持ちが誰かへ向き始めているのかもしれない。
婚約者を亡くしてからの数年間、松川くんは誰とも付き合っていなかったらしい。けれど、私との生活を通じて恋に前向きになった可能性はある。
もし彼に新しく結婚したい相手ができたなら――。
頭をよぎったのは結婚前に決めた離婚の条件だった。至って単純なものだ。
結婚したい人ができたら、婚姻を解消する。
鍵を回して玄関のドアを開けると、嗅ぎ慣れた家の匂いの底に、かすかな花の香りが残っていた。ハーブに似た青く澄んだ香り。今朝、松川くんが抱えていたスプレーマムの花束だ。
花言葉は、何だっただろう。
ぼんやりした頭では思い出せないまま、花の香りだけが家の中に静かに残っていた。