財閥の御曹司が願いを言えと迫ってくる話

「おい貴様、願いを言え」
 またか、と思った。
 三年生になってから、クラスメイトの才虎芽斗吏くんは暇さえあれば私のところへやって来て、願いだの望みだのを訊いてくる。世界的な財閥の御曹司に「何でも叶えてやる」と迫られるなんて、少女漫画ならそろそろ恋が始まってもよさそうな展開だけれど、残念ながら私は彼に見初められるようなおもしれー女ではないし、そもそもなぜここまで構われているのかも分からない。
 そして今は、その謎を解こうと思えるほど心にも頭にも余裕がなかった。進路希望の紙がいつまでも白紙のまま鞄に入っているし、家に帰れば考えることがある。そのうえ才虎くんに話しかけられると、教室中の視線まで集まってくる。
「俺様のリムジンで家まで送ってやろう。光栄に思え」
「結構です」
「なぜだ!」
「……むしろなんで?」
 周囲から忍び笑いが聞こえてますます居心地が悪くなる。
 才虎くんはこちらが本気で困っていることにも気づかず、今日も当然のように私の机へ片手をついた。はじめは「日曜。時計広場に一時」とか言い出すのかと思ったけれど、そんなかわいいお誘いとは程遠く、昨日は最高級の品物を買ってやると言われ、その前は進学費用を援助してやると言われた。金額を想像するだけでも怖い話なのに、本人はコンビニで飲み物でも買うような顔をしている。
 なんなんだ。何が狙いなんだ。
 意味不明なちょっかいをかけ続けていれば私がパンチのひとつでも繰り出すと思っているのか。私をおもしれー女に仕立てたいのか。あなたに「調子こいてんじゃねえ」とか言える度胸、私にはないんですが。
「おい、早く行くぞ」
「行けないよ。進路相談室に行くから。先生も待ってるし」
「は? そんなもの、リスケしろ」
「なんでよ……」
 才虎くんが顎を引きながらこちらを睨んだ拍子に、左耳のピアスが金色にキラリと光った。

 彼と初めて話したのは二年の終わり頃だ。三年生の卒業式の伴奏を担当することになって音楽室のピアノを借りて練習していた。うちにあったピアノは処分していたから、放課後になると先生が音楽室の鍵を渡してくれて、ありがたかった。
 そこに彼が入ってきたのだ。
 隣のクラスの男子(それも一時期学園を賑わせた御曹司)が入ってくるなんて予想外もいいところで、私は鍵盤に指を置いたまましばらく放心していたことを覚えている。
 送迎の車がくるまでの間暇つぶしをしていた才虎くんは、適当な席に腰を下ろして、私の演奏を眉を顰めたり首を捻ったりして明らかに物足りなさげな顔をしながら聞いていた。私にはお耳の肥えたお坊ちゃんを満足させる腕なんてありませんよ、と心の中で皮肉を言いながら練習する羽目になった。
 しばらくすると才虎くんはピアノの上に置かれた連弾用の楽譜を取って私の隣に座った。戸惑いながらも、なんかいい匂いがすると思ってしまったのが少し悔しかった。
 左側の彼が先に楽譜を見ながら鍵盤を叩きはじめた。なんだこの状況はと思いつつも、その音を追いかけるように私も指を動かした。ふたりで奏でた曲名はホール・ニュー・ワールド。私の一番好きな曲だった。

 それ以来特に話しかけてくることはなかったのに、進級して数日も経たないうちに「願いを言え」と言い出すのだから、才虎くんは春休みの間に御曹司からランプの精に転生でもしたのだろうか。
「ねえ、才虎くん」
「何だ。送られる気になったか」
「なってない。なんでそんなに願いを聞くの?」
 初めて訊いてみると才虎くんの表情が一瞬だけ固まった。いつもなら即答する人なのにその間が意外で、私は何度か瞬きをした。
 才虎くんは腕を組んでから釣り上がった細い眉と眉の間に、小さなシワを作りながら言った。
「……俺様の目につくところで陰気な顔をされると鬱陶しい、からだ」
 言われた意味を理解するまで少しだけ時間がかかった。
「そんな顔、してない……と思うけど」
 声が思っていたより弱くなった。
 たしかに悩みはあれど外では普通にしているつもりだった。友達とも喋るし笑える。それでも人目を盗んで小さく息を吐くことはあったかもしれない。それが鬱陶しいと思われていたなんて。もっと早く気づきたかった。
 才虎くんの片方の眉がわずかに動いた。
「常にそうだと言っているわけではない」
「……そっか」
 それ以上話したくなくなって私は机へ視線を戻した。才虎くんはしばらく立っていたけれど、私が帰り支度をしながら何も言わないからやがて「明日までに考えておけ」と吐き捨てて教室を出た。
 机の中を空にして、ペンケースを手に持つとファスナーの引手についたランプの形をしたチャームが放課後の夕陽を反射して金色に光った。
 拝金主義の魔神さんは他にご主人様を見つけてください。
 心の中でそう呟きながら鞄を担いで席を立った。

 私の願いも虚しく、翌日の放課後も才虎くんはやってきた。
「おい貴様。ちゃんと願いを考えてきたのだろうな」
「…………」
 どうせ明日も来る。その次の日もそのまた次の日もこの人は私の顔を見るたび、また何かを言うのだろう。陰気な顔をしていると言われたことを思い出してしまい、ため息をつきたくなった。
 いい加減、めんどくさい。
「本当に、何でも叶えてくれるの」
「当然だ。俺様は才虎芽斗吏だぞ」
 そこまで言うなら遠慮する必要もない。
「あっち行って」
「…………なんだと?」
「しばらく私に構わないで」
 才虎くんの緑色の瞳が揺れた。怒るだろうと思った。窪谷須くんや燃堂くんに言い返された時と同じように、わなわなと肩を震わせるだろうと思った。
 ところが彼は物言いたげな口を真一文字に閉じると、腕を組み、しばらく私を睨んだ末に顔を逸らす。
「……いいだろう」
 そのまま教室から出ていった。
「……行っちゃった」
 大丈夫だろうか。報復されるのではないか、という考えが一瞬だけよぎったけれどその翌日は丸一日絡んでくることはなかったし、特におかしな事も起きなかった。
 次の日もその次の日も私は少しだけ警戒していたけれど、才虎くんは話しかけてこなかった。同じ教室にいるから目が合うことはあるし、向こうもこちらに気づいてはいる。それでも近づいてこないと分かると、次第に肩の力を抜けるようになった。
 数日が経ったころ、静かで助かるという気持ちの隣に、別の考えが浮かんだ。話しかけてこない才虎くんは、今も私の願いを叶えている最中なのかもしれない。
 だとしたら約束は守る人なんだ。
 なんだか意外だった。

 ◆◇◆◇

 あの女の顔を覚えたのは偶然だった。
 村田に鞄を持たせて教室へ向かう途中、前を歩いていた村田が廊下の角から出てきた女と肩をぶつけ、抱えていたプリントを床へ散らかした。ぶつかられた女はよろめきながらしゃがみ込む。
「すみません」
「おい、気をつけろよ!」
 謝ったのは女の方だった。以前の俺なら、俺様の進路を塞いだ庶民が謝罪するのは当然だと思っただろう。だが不本意にも燃堂や中分け貧乏どもならどうしたか、という考えが頭を過ぎり、ぶつかられた側が先に頭を下げることが引っかかった。しかもあの女は俺様の顔すらまともに見ず、プリントを拾うと何事もなかったように去った。

 庶民一人のことなど、すぐに忘れるはずだった。ところが二年の終わり頃、迎えの車が渋滞で遅れると連絡が入り、暇潰しに校舎を歩いていると、音楽室からピアノの音が聞こえた。扉を開けると、鍵盤の前に座っていたのはあの女だった。俺に気づいてその指が止まる。
「構わん。続けろ」
 試しに弾かせてみれば特別上手いわけではない。高校生としては悪くないが俺様が今まで聞いてきた一流奏者と比べれば話にもならない。ところがこの女の弾き方には覚えがあった。
 幼い頃に親父に連れられて行った演奏会。国内でも指折りのホールは満席で舞台上には一人の女がいた。世界中から一流を呼びつけられる環境で育った俺様が、子どもながらに黙って聞いていた数少ない演奏だった。
 目の前の女の演奏は、それとはまるで違う。技術も音の厚みも及ばない。ただ癖の一部が似ていた。
「……違うな」
 そう漏らしたところでそれ以上深く考える気はなかった。俺様の方が上手いのではないか。その程度だった。
 車の到着連絡はまだなかった。ピアノの上に置かれていた連弾用の譜面が目に入り、気まぐれに女の隣へ座った。
「え、あの……」
「合わせろ」
「へ? なんで——」
 返事など待たずに鍵盤へ指を落とした。女は一瞬戸惑ったものの、鳴った音を拾ってそろそろと俺様の演奏に重ねてくる。
 初めは追いつくことばかりに気を取られたやけに硬い音だった。それが曲が進むにつれ少しずつ滑らかになっていく。やがて緊張が解けたのか女は鍵盤を見たまま小さく笑った。
 なぜかその瞬間だけ、次に落とすはずの指がほんのわずかに遅れた。
 演奏の出来など今となってはほとんど覚えていない。
 残っているのは、その横顔だけだった。

 卒業式の日にも女を見かけた。伴奏を終えて周囲に労われている間は普通に笑っている。それなのに一人になった途端、さっきまでの笑顔が消えた。
 三年になって同じクラスになってからも同じだった。友人とは普通に喋るし成績も悪くない。それなのに進路の話になると、女の所作には決まって違和感が生じる。
「この前の模試さー。判定がCだったの。志望校変えた方がいいかなー」
「うーん。まだ頑張ればいけるんじゃない?」
「それ親にも同じこと言われた〜」
「ふふ。そんなに心配しなくていいと思うよ」
 友人を励ます何の変哲もない場面。だが女は進路希望の紙を腕で覆い隠しながら話している。「それよりも——」と話を逸らしながら紙を鞄にしまう。その一瞬に見えた第一志望の欄は空白だった。三年になっても志望校を迷う者は珍しくない。しかし、単に決めかねているだけなら、あそこまで必死に隠す理由もない。話題に上るたびに見せる顔も気に食わなかった。
 俺様は女について黒服に調べさせた。数日後に渡された報告書には、本人の経歴と家族構成、それから母親の経歴が特記事項に記されていた。旧姓をもとにした芸名には聞き覚えがあり、写真を見れば幼い頃にホールで弾いていたピアニスト本人だった。現在は活動休止中と書かれていた。
「やはりそうか」
 女は幼い頃から母親にピアノを習っていたという。音楽室での既視感の正体は分かった。
 ただ別の疑問は残った。あれほどの母親を持ち、幼い頃から一流の音楽に触れられる環境で育った女が、なぜあんな顔をしている。
 ——何がそんなに不満なのだ。

「喜ぶがいい。我が才虎財閥の本社でインターンを募集している。紹介してやろう」
「え、なんの話?」
「俺様の紹介ならそのまま就職することも可能だろうな」
「急になんなの……」
「なら志望大学はどこだ? 俺様が教員どもに推薦状を書かせてやることもできるが?」
「いらない。怖いんだけど」

 何を提案しても頷かない。俺様に借りを作りたくないという強がりや遠慮にも見えない。本当に欲しがっていない。
 なら、何が欲しい。
 何を与えれば、音楽室で見たような顔をする。
 答えが分からないのが気に食わなかった。だから願いを言わせることにした。リサーチして先回りで与えてやってもいいがそれだとあの女は先のような嫌悪感を露わにするだろう。本人が望めば話は早い。

「…………なんだと?」
「しばらく私に構わないで」

 俺様に用意できないものなどそうあるはずがない。
 それなのに返ってきたのが「あっち行って」だった。
 苛立ちに奥歯を噛み締めながら、同時にモヤモヤと得体の知れない感情が胃に落ちる。この俺様を遠ざける願いなど考えてもいなかった。
 だが約束した以上は守った。「できない」なんて言えるわけがない。それは負けを意味するからだ。才虎一族の者が負けることは決して許されない。
 数日間あの女へ話しかけなかったが、同じ教室にいる以上、視界には入る。
 友人と話して笑っている。俺様と目が合うと一瞬肩を強張らせる。それでも俺様が近づかないと分かるとまた元へ戻る。
 そして時折、やはり表情が曇る。そのたびに腹が立った。
 なぜ俺はあいつが暗い顔をしていると嫌なのだ。
 前は鬱陶しいからだと言った。それなら見なければいい。庶民一人を無視することなど簡単だ。なのに気づけば視線が向いている。
 まさか俺が、あの女を——。
 いや。あり得ん。俺様があんな庶民の女。
 照橋心美ほど美しいわけでもなくピアノの腕だって並だ。有名なのは母親であって本人ではない。家柄に至っては比較するまでもない。
 俺様が特別気にする理由などない。
 それなのに音楽室で笑った顔だけはやけに記憶に残っている。
「……くだらん」
 この胃の底に感じる例えようもない燻りも、全部、くだらない。

 ◆◇◆◇

 才虎くんに話しかけられなくなってからもう何日経っただろう。最初は静かで助かっていたのに、今では同じ教室ですれ違っても何も言われないことの方が少し不思議になっていた。
 その日は家へ帰る気になれなかった。特別な連絡があったわけではなくて、ただ朝から母の調子が悪く、出かける前に父が薬の時間を確認していた。なんだか嫌な予感がしていた。帰ればまた廊下から聞こえる母の湿った声を気にして過ごすことになる。その後の父の柔らかすぎる低い声に胸が痛くなる。思い出すと足が向かなかった。
 本屋を一周して、駅ビルを意味もなく歩いて、それでも時間はほとんど進まなかった。外へ出ると日が落ち始めていて、駅前の照明が一つずつ灯っている。
 いよいよ行くところがなくなってしまったので通話アプリを開いて、履歴に並ぶ友達の名前をタップしかけたところで指が止まった。
「ご来店、誠にありがとうございました。今後ともご贔屓頂ければ——」
「味が落ちたな。もう二度と来ん」
「そ、そのような……!!」
「二度は言わないぞ」
 物騒なやり取りが聞こえて見てみれば、才虎くんがいた。足元にはコックコートやスーツを着たおじさん達が地面におでこを擦り付けている。
 なんだこの場面。こわっ。
 そそくさとその場を去ろうとしたけれど、向こうも私に気づいたらしい。少し離れた高級鉄板焼レストランの前でこちらを見たまま立っている。逃がすつもりはなさそうな視線に射すくめられ、足が動かない。そういえば、彼の中であの願いはまだ遂行中なのだろうか。
 才虎くんはもうおじさん達の懇願など聞こえないのか、こちらだけをじっと見ている。少し迷ってから声をかけた。
「才虎くん」
 呼ばれた彼の眉が僅かに上がった。こちらへ来る足取りがいつもより少しだけ速い気がした。
「何をしている」
「ただの、暇つぶし」
「こんな時間にか」
「…………」
 答えられずにいると才虎くんは私の顔を見た。以前のように「陰気な顔」と言われる気がして、ついつい心の準備をしてしまう。
 彼はやれやれと言いたげなため息をついてから私に言った。
「付き合ってやってもいいが、どうする?」
 予想していなかった言葉にぱちぱちと何度も瞬きをする。
 才虎くんが私の暇つぶしに付き合ってくれる。
 待って、財閥の御曹司と何をして過ごせばいいんだ?
 音楽室の時はピアノがあったからギリギリなんとかなったけれど、夜も近い隣町で高校生が暇をつぶせる場所なんて限られている。ボウリングやカラオケは下手だから避けたいし、ゲームセンターもお小遣いを溶かしてしまう。かといって彼に奢られるのも嫌だ。
 ううむと頭を悩ませていると、才虎くんと話してからさっきまで感じていた胸の内側の圧迫感が少しだけ和らいでいることに気付いた。ならちょっとだけ付き合ってもらうのも、悪くないかもしれない。
「ファミレスとか、どう? お茶にしない?」
「ふぁ、ファミレス……だと!?」
 私の提案に衝撃を受ける才虎くんに「やっぱりね」と思う。行ったことがないんだろうし、行きたくもないんだろう。
 ファミレスもダメなら本当に行くところがないし、才虎くんが提案する場所も避けたい。正直ちょっぴり興味はあるけれど、私には分不相応だろうし、とても疲れそうだと思った。
 どうしようかな。もう大人しく帰ろうかな。嫌だけど。
 そんな風に思い始めると才虎くんは目を伏せたまま大仰にため息をついて、絞り出すような声を出した。
「いいだろう。貧乏人御用達のファミレスとやらに付き合ってやる……!」
 なんだか申し訳ないけれど、冷や汗をかきながら歯を食いしばる才虎くんはちょっとだけ面白かった。

 近くのファミレスに入った。空いている席に向かい合って座ると、才虎くんはメニューを開くこともなく、足を組みながら珍しいものを見るように店内を見渡していた。
「才虎くんはお腹空いてない、よね? さっきレストランにいたんだし」
「そうだ。まあ腹が減っていたとしても俺様がこんなところで食う訳がないがな」
「……ああそう。私もとりあえずドリンクバーでいいかな」
 私がそう言うと才虎くんはドリンクバーが分からないような顔をしたので「あれだよ」とマシンを指差すと彼はまた理解不能な顔をした。
「客が自分で取りに行くのか!?」
「そうだよ」
「なぜこの俺様が給仕を……!」
「やり方が分からないなら私が取ってこようか?」
「黙れ。……俺様を見くびるな」
 そう言って立ち上がったものの、数分経ってもマシンの前で眉間に皺を寄せたままの才虎くんを見て笑いそうになった。なんとかいれたコーヒーを片手に戻ってきた彼に睨まれたので、キッと口元を引き締めた。
「才虎くんの口に合うかな」
「合うわけねえだろ。だがバリスタ競技会の優勝者監修と書いてあったからな……」
 プロの監修なら我慢してやろう、と言いながらカップに口をつけると「あっづ!!」と叫んで舌を出した。
「なんだこれ熱すぎるぞ!!」
「そ、そんなに? ていうか……」
 めちゃくちゃ猫舌じゃん。
「フッ……あはは!」
 堪えきれなくて吹き出してしまった。やばい、怒られる、と思って咄嗟に口元を手で隠して才虎くんの方を見ると、彼はなぜか目を丸くして固まっていた。けれど、すぐにふっと目を逸らして「クソッ」と悔しそうに呟いた。プライドを刺激してしまったかと思って「ごめん」と謝ると才虎くんは「フンッ」と鼻を鳴らして完全にそっぽを向いた。
 頬が微かに染まっていた。
 なんだろう。
 ちょっとだけ、ほんの少しだけ、かわいいとこもあるんだと思ってしまった。

 家のことも進路のこともその間だけは考えなかった。追加で注文したポテトを食べて(才虎くんは「食うわけねえだろ」と一蹴して食べなかった)、才虎くんの浮世離れした話を聞き、彼が庶民の常識にカルチャーショックを受けるたびに笑った。こんな時間が楽しいと思ったことに、自分でも少し驚いた。

 帰りはリムジンで送ると言われた。前なら絶対に断っていたけれど今日は素直に乗ってみた。ボックス型のふかふかのシートは座り心地がいいし、車内は上品な匂いが漂っていた。音楽室で彼が隣に座ったときにも同じ香りがしたことを思い出し、なんだか落ち着かなかった。
 家の少し手前で車を止めてもらい「楽しかった、ありがとう」とお礼を言うと才虎くんは「当然だ」と満足そうに鼻を鳴らした。
 車を降りても才虎くんは窓越しにこちらを見ていた。心なしか表情が柔らかい気がして、私もつい口元が緩んだ。彼に軽く手を振って、家へ向かって歩いた。

 帰宅するとリビングの壁掛け時計は十時を指していた。電気はついていたけれど、耳に届くのは秒針が進む音だけだった。
 ふうと小さく息を吐き、自分の部屋に入ってベッドに腰を下ろすと、ほどなくノック音とともに「帰ったのか? 今いいか?」と父の声がした。いつもなら「もう寝るから」と言って出ないのだけれど、なんとなく今日は気持ちがふわふわと軽いから「いいよ」と答えた。
「おかえり。遅かったな。夕飯は?」
「食べてきた。……お母さんは?」
「さっき寝たとこだ」
「そっか。お父さん、お疲れさま」
 父は疲れた顔をしていたけれど、私の声を聞くなり力を抜きながら目を細めた。正面から優しい顔を向けられると逃げてしまった私は申し訳なさでいっぱいになる。なるけれど、「母さんのことは気にするな。大事な時期なんだから父さんに任せておきなさい」と頭を撫でられると安心してしまう。こんな時間に帰宅しても、父はいつも「受験生だから外で勉強していた」ことにしてくれるから、私はついつい甘えてしまう。
「おやすみ」を言い合って父が部屋を出た後、私は鞄から進路希望の紙とペンケースを取り出した。ファスナーの引手につけていた金色のランプのチャームがキラリとデスクの照明を反射した。
 才虎くんのピアスと帰り際の柔らかな表情を思い出して、心に絡みついていたものが、ほんの少しだけほどけた気がした。

 ◆◇◆◇

 車が走り出してからも彼女が声を出して笑っていた顔を思い出していた。音楽室のときとは違い今日は俺様を見て笑った。目の前の人間が舌を火傷したところを見て笑う神経は理解できんが、少なくとも退屈ではなかったらしい。
 俺様は何も買い与えていない。特別な場所へ連れて行ったわけでもない。ただ一緒にいただけだ。それで「今日はありがとう」か。
「……悪くないな」
 こぼれた言葉は誰にも拾われないと思っていた。だが、バックミラー越しに運転手と目が合った。心の中で聞いてんじゃねえと悪態をつくと同時に、襟元が妙に暑くなった。

 彼女の方から俺に声をかけ、暇潰しに付き合えと言ったのだ。「構うな」という最初の願いは撤回されたも同然だろう。そう判断し、それ以降は教室でもたびたび話しかけるようになった。
 内容は「今日はどこで暇を潰すつもりだ」「今日はいつもどおり帰るよ」といったものや、朝や放課後に挨拶を交わす程度だった。どれも大した話ではない。それでも、煩わしいとは思わなかった。
 ある日、放課後の教室で彼女が電話している声を偶然聞いた。
「うん……大丈夫。今日は早く帰るから」
 声はいつも通りだった。だが電話を切ったあと、眉根を寄せてしばらく画面を見たまま動かなかった。
「母親か」
 俺が彼女の席の前に立ち、話しかけると彼女の肩が跳ねた。そのままゆっくりと顔を上げると訳ありげに瞳を揺らしていた。
「……聞いてたの?」
「聞こえただけだ。……話してみろ」
「え?」
「悩んでいるんだろう。貴様のその顔を見れば誰だって気付く。この俺様が解決の糸口を見つけてやろう」
 彼女の前の席の椅子を引き、腰を下ろした。頭の中には、以前調査させた報告書の内容がある。彼女の悩みの原因には、もうほとんど見当がついていた。それが、時折見せる浮かない顔の正体なのかを確かめたかった。
「全然そんな、大したことじゃないよ……」
「そんな風には見えないが?」
「…………」
 彼女は指先で鞄のファスナーや小さなマスコットを弄りながら目を逸らしたが、俺が引き下がらないことを早々に理解し、少し迷ったあと、唇を薄く開いて話し始めた。
「私のお母さん、ピアニストだったんだ」
「ああ」
 知っている。その演奏活動を休んでいることも。
「いまは活動休止中なんだけど、芸能人も来るような大きなホールで演奏して、いつもたくさんの拍手とお花をもらってた。でも去年、手の病気が分かって思うように指が動かなくなったの。鍵盤に手を置くだけで震えることもあるんだって。お母さん、ピアノが大好きだったから、弾けなくなって、すごく落ち込んで……それで……」
「そうか」
 彼女がうつむき加減に言い終わると、またあの浮かない顔になったがすぐに小さく笑顔を向ける。それでも唇の端が微かに震えていた。
 やはり彼女の悩みの原因は母親にあったか。
 母親のケアに悩んでいるのなら、俺様が名医を世界中から集められるし、精神面も専門家を紹介できる。母親の療養によって彼女が家事を一手に担っているのなら使用人を寄越してやればいい。俺様にかかれば解決できないことは何一つない。
 だがそれらを提案してやったが、彼女は静かに首を横に振った。
「……そういうことじゃない」
「何がだ」
 彼女は答えなかった。俯いたまま唇を噛み、やがて鞄を肩にかけて立ち上がる。
「ごめん、分かんない」
 それだけ言ってその日は帰っていった。
 俺の嫌いな顔をしながら。

 腹が立った。
 なぜ必要なものならいくらでも差し出せるのに頼らないのだ。
 お前は何を抱えているんだ。
 俺様はこいつの問題を知っているつもりで、何も知らないのか。
 誰にも言えないことがあるのなら、俺に言え。
 この俺様に話せない理由がどこにある。

 ◆◇◆◇

 私が家に帰ると母がリビングで泣いていた。
 最近では珍しいことでもないのに、その日の声はいつもより切迫し、細く引きつっていた。冷たいフローリングに膝をついてわななく母の隣で、父がその背を擦りながら母の言葉にゆっくりと肯いている。私は少し離れた廊下で立ち止まり、リビングに入れずにいた。
「ピアノが弾けないなら、私には何もない」
 消えそうな母の言葉が聞こえて頭の中が真っ白になった。
 ——私とお父さんは?
「また弾けるようになるさ」という語尾の揺れた父の低い声が聞こえて耐えきれなくなった。部屋に入り、扉に背を預けると、重量に抗えず、腰がズルズルと落ちていった。そのまま膝を抱えて座り込む。
 ——願いを言え。
 こんな時に才虎くんの声が頭を過ぎった。
 彼は医者も専門家も紹介すると言ってくれた。正直言うとありがたかった。今の状況から少しでもいい方に向かえるのなら、力を借りた方がよかったかもしれない。けれど、母が回復して、またピアノを弾けるようになれば、それで全部元通りになるとはどうしても思えなかった。
 スマホを取り出して通話アプリで友人の名前を探す。
 電話をかけようとして、また指が止まる。
 ——かけられない。
 もうずっとみぞおちの近くで溜まった鉛のようなものが、舌の根元まで迫り上がってきては、また胃の奥へ落ちたりを繰り返している。
 私の進路希望の紙は白紙のまま。
 もう鞄から出すのも億劫だった。

 翌日の放課後、私は音楽室へ向かっていた。足が勝手に前に出ていた。
 どういうわけか音楽室の扉は開いていた。そのまま入って誰もいないことを確認すると緩慢な足取りでピアノの前に立った。ピアノを弾けば少しは何も考えずに済むかもしれない。でも何度弾き直しても曲に入り込めずに途中で手が止まる。鍵盤の上に指を置いたまま、しばらく動けなかった。
 扉の方から足音が聞こえた。入ってきたのは才虎くんだった。
「何をしている」
「……ピアノ、弾いてただけ」
 もう彼が突然現れても何も驚かなくなっていた。慣れって面白いな、と他人事のように思う。
 才虎くんはこちらへ来てもすぐには何も言わなかった。近くの席に座って、言葉を探しているのか、じっとこちらを見据えている。
 今日は何を言われるんだろう。鏡を見なくても私はまた「陰気な顔」をしている自覚はある。笑った方がいいのかな。でも今はちょっと無理だな。才虎くんも察して出てってくれないかな。
 なんて考えてみるけれど、彼が期待に応えてくれるのは私が願いを口にした時だけだ。
「つらいのか」
「たぶん」
「助けが必要か」
「……分かんない」
 自分でも分からない。助けてほしいのか、放っておいてほしいのか。
「何でも言え。俺様に叶えられないことはない」
 前にも何度も聞いたような台詞なのに、今日は少し違って聞こえた。
「…………何もいらない」
「は?」
 医者や専門家の紹介はいらない。
 インターンもいらない。
 私が欲しいのは。
 いや、私の願いは——最初からそんなものではなかった。
「話を、聞いてほしい。……何もいらないから」
 才虎くんは少し黙ってから平らな声で「それが望みか」と訊いた。私は「そう」と言いかけて、喉がつかえてただ頷くしかできなかった。
「はっ……欲のない女だな」
 彼はふうと息を吐きながら呆れたように言い、席を立って私の隣に座り直した。
「まあいい。お安いご用だ。話せ」
 私は鍵盤から手を離し、膝の上で指を組んだ。どこから話せばいいのか分からず、何度も唇を開いては閉じる。才虎くんは急かさなかった。いつもなら私の煮え切らなさに苛立ちそうなのに、今日は腕を組んだまま、ただ待っている。やがて、今まで誰にも言えなかったことが、途切れながら少しずつ口からこぼれ始めた。

 ——ピアノが弾けないなら、私には何もない。
 母の言葉は記憶の中で少しも鈍らず、思い返すたびに私の胸を鋭く刺した。
 自分が嫌になった。母が私たちを大切にしていることくらい分かっている。調子のいい日は明るく笑うし、私の進路だって心配してくれる。家族が嫌で泣いているわけでもない。ピアノは母にとって仕事だけではなく、自分そのものに近いものだったのだと思う。
 全部分かっている。それでも、どうしようもなく悲しくて、虚しかった。
 一年前に手の病気が分かってから母は少しずつ変わった。鍵盤へ向かう時間が減り、やがてピアノを見ることすらつらそうになった。
「……もう見たくない」
 そう言って、家のピアノを処分した。
 本当は嫌だった。幼い頃から母と並んで何度も弾いた。間違えて叱られたことも、褒められて嬉しかったこともある。私にとってはただの楽器ではなかった。
 でも言えなかった。
 母の方が苦しそうだったから。

 一瞬息が詰まって声が止まった。重ねた指に無意識のうちに力が入り、爪が皮膚へ食い込む。才虎くんの視線が私の手元へ落ちた。
「どうした」
「なんでもない」
「……まだあるのか?」
「うん」
「なら、続けろ」
 才虎くんが腕を組み直す。廊下の向こうを誰かの足音が通り過ぎ、聞こえなくなってから私はもう一度息を吸った。

 ——両親は進路を好きにしていいと言う。
 遠くてもいい。自分の行きたい場所を選べと言う。
 本当は父と母が出会った遠方の音楽大学に通いたい。
 それなのに進路希望の紙が目の前にあると母の声と父の顔がよぎってペンを持てなくなる。
 家にはいたくない。
 でも離れると逃げたような気がする。
 母を支えるのは私だけではない。父がいる。通院も薬も父が見ている。それでも、私だけ家の外へ出て新しい生活を始める姿を想像すると、胃のあたりが重くなる。
 進学、別居、——逃避。
 どれも本当で、どれが一番本当なのか分からない。

 全部吐き出してしまえば何かが変わる気がした。母が治るわけでも、進路が決まるわけでもない。それでも、誰かが知ってくれているだけで今よりも少しくらいは息がしやすくなるかもしれない。
 才虎くんはしばらく私を見ていた。
「ごめん、こんな……家の話……」
「構わん。この俺様がわざわざ時間を割いてやっているのだ。一分一秒も無駄にするな」
 いつもの偉そうな言い方だった。その同情も憐れみも一切ない声音にこれ以上ないくらい安心した。
 それなのに、目の奥にじんとした痺れが走って、目の縁にぬるい水が溜まっていく。
 隣の才虎くんの身体がこちらを向いた。手が持ち上がり、私の頬へ触れる寸前で一度止まった。けれど、迷っているように見えたのはほんの一瞬で、やがて彼の掌が私の右頬を包んだ。
 目の前にぐ、と眉間に寄った皺と密かに上下した喉仏が見えた。私の顔を覗き込む才虎くんの緑色の瞳が、一瞬だけ揺れた。
「全部吐き出せ。……聞いてやるから」
 右目から涙がこぼれた。けれど雫は頬を伝わらず、彼の手へ滲んでいった。掌から移る熱は安心するほど優しいのに、鼓動は速くなるばかりだった。そのちぐはぐさがおかしくて、私は涙をこぼしたまま笑った。