『アイドリング・クラッチ』
放課後の校舎裏から、途切れ途切れにギターの音が聞こえていた。廊下の端まで来た俺は、窓から外を覗いて辺りに人目がないことを確かめると、そのまま階段を下りた。帰るなら正門は逆方向だし、こっちへ来る用事なんか一つもねえ。それでも最近、気づけばこうして遠回りしていることが増えていた。
校舎の角を曲がる手前で足を止める。ここなら向こうからは見えにくいし、音もちゃんと聞こえる。古いベンチに腰掛けた彼女は、膝にエレキギターを載せていた。アンプには繋がっていないから、聞こえてくるのは弦を弾く乾いた音だけだ。何小節か進んでは止まり、左手の位置を確かめて、また最初へ戻る。さっきからずっとそれを繰り返している。
「……何やってんだ、俺」
誰にも聞かれないくらいの声で呟いて、壁へ背中を預けた。軽音楽部の彼女が時々ここで練習していると知ったのは偶然だったが、こうして何度も見に来ているのはもう偶然じゃない。そこまで分かっているくせに、やめる気になれねえんだから我ながらどうかしている。
たぶん、好きなんだと思う。
そこまで認めるのには結構かかった。けど、認めたところで何かが変わるわけでもなかった。クラスも違う。軽音部に知り合いもいねえ。話した回数なんて片手で足りる。なのに、姿を見つければ目が追う。ギターの音がすれば、帰り道を変えてまでここに来ている。
「おーい亜蓮! こんなとこいたのかよ!」
「っ!?」
背後から飛んできた声に、心臓が止まりかけた。振り向けば、校舎沿いの通路を、瞬がこっちに歩いてくる。しかも遠慮の欠片もない声量だ。俺は反射的に彼女の方を確認した。ギターの音は続いている。まだ気づいてねえらしい。
「バッ……声でけえよ!」
「え? なんでだよ。斉木たち先に帰っちまうぞ」
瞬が不思議そうに首を傾げ、「何見てたんだ?」とそのまま俺の横から校舎裏を覗こうとする。まずい。そう思った瞬間には身体が動いていて、俺は瞬の肩を掴んで強引に向きを変えていた。
「いいから行くぞ」
「ちょ、亜蓮!? お前さっきから何——」
「なんもねえって!」
背中を押して歩かせながら、もう一度だけ振り返る。ベンチに座った彼女は相変わらずギターへ視線を落としていて、俺たちの騒ぎなんか気にも留めていないようだった。それを確認して、ようやく肩から力が抜ける。
別に、見られて困るようなことをしていたわけじゃねえ。ただ女がギター弾いてるところを見ていただけだ。そう言えば済む話なのに、瞬に「あの子誰だ」と聞かれるところを想像しただけで落ち着かなくなる。まして燃堂や斉木にまで知られたら、明日からどんな顔をして学校へ行きゃいい。
まだ誰にも言いたくなかった。
向こうが俺をどう思ってるか以前に、顔を覚えているかどうかさえ怪しいのに、俺だけが好きだなんて知られるのは、何つーか……死ぬほど恥ずかしい。
「はあ……」
「なんだよ、亜蓮」
「……なんでもねえ」
情けなくてため息がでる。
喧嘩なら相手が何人いようがやることは分かる。殴られそうなら避ける。殴るなら倒れるまでやる。それだけだ。なのに好きな女に話しかけるとなると、どうにも勝手が違う。……どうすりゃいいんだよ。
「じゃあな、亜蓮」
「おう、また明日な」
瞬と解散したあと、夕陽を照り返すアスファルトを眺めながら歩いていると、初めて言葉を交わした日のことを思い出した。
きっかけだけなら、最悪だった。
学校から少し離れた路地で、他校の連中に絡まれた。向こうは何人かいて、こっちは俺一人だったが、喧嘩になっちまえば人数なんか大した問題じゃなかった。転校してからは普通の高校生としてやっていくと決めていたはずなのに、売られた喧嘩を買った途端、身体は昔と変わらず動いた。気づけば数分も経たないうちに、全員が地面に転がっていた。
「……クソ」
倒れた連中を見下ろしたところで、勝った気分になんかなれなかった。またやっちまった。それだけだった。幸い人通りもなかったし、騒ぎを見ていた奴もいない。さっさと帰って何事もなかったことにしようと歩き始めて、しばらくしたところで肩にあるはずの重みがないことに気づいた。
「やっべ、鞄……」
指定鞄を路地の端へ放り出したままだった。慌てて引き返して角を曲がったところで、俺は思わず足を止めた。ほかに人影のなかった路地に、PK学園の制服を着た女子がいた。
そいつは呻きながら動けずにいる男の脇へ腕を差し込み、道路の端までずるずる引きずっていた。小柄ってほどじゃねえが、伸びている男なんて女子には相当重いらしい。何歩か進むたびに顔をしかめ、それでも手を離さず運んでいる。
何やってんだ、この女。
呆気に取られて見ていると、向こうが俺に気づいた。夕陽を反射した琥珀色の目とまともにぶつかって、咄嗟に肩が強張る。
「PK学園の生徒?」
「え」
「手伝って。重いから」
「……は?」
「そこにいる人、こっちに運んで」
俺が固まっている間に、彼女はまた男を引きずり始めた。
「車通るから。このままだと危ないし」
「あ、ああ……」
言われるがまま、近くに倒れていた奴を持ち上げた。ついさっき俺が殴り倒した男だ。本人がダウンしていることだけが救いだった。ここで意識がはっきりして「お前が殴ったんだろ」と言われたら、冗談抜きでどんな顔をすりゃいいのか分からねえ。
二人で連中を路肩へ寄せていく。俺なら一人運ぶくらい大したことはないが、隣じゃ彼女が相変わらず苦戦していた。踵が引っかかりそうになるたび踏ん張り、「重……」と低い声を漏らしながら、それでも途中で放り出そうとはしない。最後の一人を移し終える頃には、彼女は腰に手を当てて長く息を吐いていた。
「つかれた……」
「お、おう」
何と言えばいいのか分からなかった。礼を言うのも違う気がする。こいつらを転がしたのは俺で、俺が片づけるべきだった。むしろ何も知らねえこいつに始末させてる時点で、礼なんか言う資格があるのかも分からなかった。
彼女が路肩に置かれていた自分の鞄を拾い、それから辺りを見回した。
「まずは——警察に電話かな。それとも学校……」
「っ!」
警察。その一言を聞いた瞬間、背筋が冷えた。停学だの何だのって話以前に、転校を機に普通の高校生になろうとしてきた俺が、喧嘩で警察沙汰なんて笑えねえ。
「が、学校に連絡した方が……いいんじゃねえか?」
「そう?」
「ああ。ほら、学生同士の喧嘩かもしれねえだろ。警察より先に学校に言った方が、その……話、早いんじゃねえか」
我ながら苦しい。彼女は何も言わず俺を見たあと、視線を横へ滑らせた。その先には、俺が放り投げたPK学園指定の鞄がある。鞄を見て、制服姿なのに手ぶらな俺を見る。また鞄へ視線が移って、今度は少し長く俺の顔を見る。
ああ、これバレてる。
口の中が一気に乾いた。どう言い訳する。絡まれただけだと言うか。正当防衛だとでも主張するか。そもそもこいつに説明したところでどうなる。考えがまとまらないまま固まっていると、彼女は小さく頷いた。
「そっか。学校側も喧嘩くらいで警察沙汰にはしたくないか」
「あ、ああ。まあ……そうだろうな」
「どこの学校だろ」
それだけだった。彼女はしゃがみ込み、倒れている男の制服についていた校章を確認すると、スマホで学校名を調べ始めた。その間、彼女は何も喋らなかった。ただ目の前で負傷している連中をどうにかすることしか考えていないのかもしれない。
「ここみたい」
彼女がスマホ画面を見せてくる。校章が制服のそれと一致する。
「お、おう」
「電話してみる」
「ああ……」
逃げたかった。鞄だけ拾って、このまま帰っちまいたかった。なのに足が動かなかった。自分が殴り倒して、そのまま置いていった連中を、たまたま通りかかった女子が道路の端へ運んで、学校まで調べて連絡しようとしている。
その姿を見ているうちに、今まで考えもしなかったことが頭に浮かんだ。昔もそうだったのかもしれない。喧嘩して、勝って、相手を転がして、それで終わりだと思っていた。その後で誰かが救急車を呼んだのかもしれないし、学校や家族に連絡した奴もいたのかもしれない。散らかった物を片づけたり、血を拭いたりした奴だっていたかもしれない。
俺は一度だって、そんなところまで考えたことがなかった。
倒した後のことは知らねえ。勝手にどうにかしろ。それで済ませてきた。
それが急に、どうしようもなく恥ずかしくなった。喧嘩に負けたことはねえ。それなのに、こんな惨めな気分になったのは初めてだった。
「もしもし。すみません、生徒さんが——」
彼女が電話している横で、俺はこっそり自分の鞄を拾った。持ち手を握る指に力が入る。電話を終えたら何か言わなきゃならねえ気がした。けれど、謝れば何に対して謝っているのかバレるし、礼を言えばそれも同じだ。結局、何一つまともな言葉が浮かばない。
「学校の人、来るって」
「……そうか」
「……」
彼女の沈黙が居た堪れない。
「……じゃあ俺、帰るわ」
「うん。気をつけて」
引き止められもしなければ、責められもしなかった。俺は逃げるみたいにその場を離れ、家までほとんど振り返らなかった。それでも帰り道でも、家に着いてからも、あの路地のことが頭から離れなかった。
どうして何も言わなかったんだ。
鞄を見れば、俺があの場に関係していることくらい分かったはずだ。それでも問い詰めもせず、責めもせず、自分で学校へ連絡していた。いい奴なんだろうか。あの状況で、俺が誰を殴ったとか、何をしたとか、そんなことはどうでもよかったのか。
その答えらしきものを知ったのは、数日後だった。
昼休み、廊下を歩いていると、向こうから見覚えのある女子が近づいてきた。あいつだと気づいた瞬間、心臓が変な跳ね方をした。この前のことを聞かれるかもしれない。みんなには黙っておいてやる、なんて恩を着せられるかもしれない。何を言われてもすぐ返せるように、俺は無意識に姿勢を正した。
距離が縮まって、彼女が顔を上げた。目が合う。あの日は気まずさでまともに顔を見る余裕なんかなかったが、こうして見ると、茶色い瞳は思っていたより明るかった。
「…………」
「…………」
そのまま、普通にすれ違った。
「え」
思わず振り返ったが、彼女は何事もなかったように歩いている。振り返りもしないし、足を止めもしない。俺だけが廊下の真ん中で立ち止まっていた。
「……マジかよ」
拍子抜けした。でも安心もした。これであの日のことを蒸し返される心配はない。警察だのなんだのって騒ぎにもならねえ。
なのに、何でだ。
面白くなかった。理由はうまく言えねえが、とにかく面白くなかった。
顔くらい覚えてるはずだ。目だって合った。それで終わりってことは、俺なんかに興味がねえってことなのか。頭では分かる。分かるのに、胸の内側がざらついたままだった。
しかも厄介なことに、さっき一瞬見ただけの顔が、やけにはっきり頭に残っていた。俺を見上げた目元と、長い睫毛。その程度のことを思い返している自分に気づいて、さらに嫌な予感がした。
……かわいいじゃねえか。
「いやいやいや」
誰も聞いていないのに声が出た。頭を振って歩き出す。たまたまだ。一回ちゃんと顔を見ただけだ。そもそも向こうは俺にまるっきり興味がねえ。だったらこっちだって気にする必要なんかない。
そのはずだった。
なのに、その日の授業中にも顔が浮かんだ。帰り道でも思い出した。それから廊下ですれ違えば気づくようになり、気づけば目で追っていた。どのクラスなのか知った。軽音部にいることも知った。友達といる時でも自分からべらべら喋る方じゃなく、相手の話を聞いていることが多いのも、笑うと普段よりずっと表情が柔らかくなるのも、少しずつ勝手に覚えていった。
校舎裏でギターを弾いていることを知ったのも、その延長だった。最初に見かけた日は本当に偶然だったのに、二度目からは偶然じゃない。今日はいるかもしれないと思って来ている。
それが今じゃ、もう何度目かも分からねえ。
翌日の放課後、俺は懲りもせず同じ場所に立っていた。
彼女がまた昨日と同じところで演奏を止めた。首を傾げながらコードを押さえ直し、何度か指先を動かしている。それを見ながら、今日こそ話しかけるか、とまたいつもと同じことを考える。
けど、何を言う。
あの日の礼なんか今さら変だし、「俺が倒した奴ら片づけてくれてありがとな」なんて自白以外の何物でもない。ギターに詳しいわけでもないから、気の利いたことは言えねえ。クラスが違う以上、授業の話をするのも不自然だ。
結局今日も無理か。そう思って離れようとしたところで、弦の音が止まった。
何となく嫌な予感がして顔を上げる。
彼女がこっちを見ていた。
完全に目が合っている。
「……窪谷須くん?」
「っ!」
一瞬、本当に頭の中が真っ白になった。
俺の名前を知っている。
あの日、あんなに何もなかったみたいに通り過ぎたくせに。
「お、おう」
「今日は一人なんだ」
「えっ」
「何してるの?」
彼女が首を傾げた。逃げ道がねえ。ここを通りかかったなんて言えば済むと思ったが、そもそもこの先は校舎の裏手で、用もなく来る場所じゃない。
いやそれよりも。
昨日、俺がいたの気づいてたのかよ。
ぶわわ、と爪先から頭のてっぺんまで一気に火が出そうになった。
「いや、その……通りかかったっつーか」
「ここ、行き止まりだけど」
「…………」
詰んだ。
何で喧嘩売られた時より追い詰められてんだよ俺は。
「ま、迷った」
「校内で?」
「……悪ぃかよ」
「別に」
彼女は少し不思議そうな顔をしただけで、それ以上追及しなかった。そのままギターへ視線を戻す。助かったと思ったはずなのに、あっさり話を終わらせられると、それはそれで少し物足りなく感じる。
何なんだよ、俺。
せっかく向こうから話しかけてきたんだ。このまま帰ったら、今度いつ話せるか分からねえ。何か言え。何でもいい。そう思って何秒か迷った末、ようやく口を開いた。
「……それ」
「ん?」
「ギター。練習してんのか」
「うん」
「そっか」
「…………」
終わった。
会話が。
喧嘩なら十人、二十人でもどうにかなるのに、何で女子一人を前にして「そっか」しか出てこねえんだよ。曲名でも聞け。部活のことでも何でもあるだろ。頭の中じゃいくらでも思いつくのに、口からは一個も出てこない。
俺が自分の不甲斐なさに耐えていると、彼女は弦へ指を置いたままこっちを見た。
「興味あるの? ギター」
「……え?」
「聞く? まだ練習中だけど」
何を言われたのか理解するのに少しかかった。さっきまで隠れて聴いていた音を、今度は向こうから聞くかと尋ねられている。
「いいのか?」
「うん。別に」
彼女はそれだけ言うと、またギターを構えた。乾いた弦の音が、夕方の空気へゆっくり流れ始める。
少し迷ってから、俺は近くの壁へ背中を預けた。
今度は角の向こうに隠れる必要がない。見つからないように息を殺す必要もない。ここにいていいと言われて、堂々と彼女の音を聴いている。それだけのことが、何だか信じられなかった。
彼女は演奏に集中していて、こっちなんかほとんど見ていない。それでいい。むしろ今は、その方がありがたい。
なのに壁に預けた背中がやけに落ち着かない。夏でもないのに、やたらと暑い。
弦の音が止んで、彼女がふと顔を上げた。目が合う。ただそれだけで、口の中が乾いた。
「……何か変な顔してる」
「……うるせえ」
短くそう返すのが精一杯だった。彼女はふっと笑って、それ以上何も言わず、また視線をギターへ戻す。
ただ一つ分かるのは——明日からこの道を遠回りする理由を、もう偶然のせいにはできねえってことだけだった。
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