支部に掲載していた才虎のお話です。リライトしてこちらでも掲載します。
※R-15程度の描写となります。
※成人済みの設定となっております。年齢操作が苦手な方はお気をつけください。
『指先で支配して』
仕事を終えたあとの部屋には、夜の静けさが薄い膜のように張っていた。時計の秒針と、才虎が本のページをめくる乾いた音だけが聞こえる。
少し離れた椅子に腰かける彼の指先は、紙の上を滑るたび、間接照明の光を白く返した。才虎が深紅のワインを傾けると、耳元のピアスがかすかに揺れた。その向こうに見える緑の瞳まで、磨かれた宝石のように冷たく澄んでいる。
見つめていることに気づくたび、呼吸が浅くなった。目が合えば、隠しているものまで残らず暴かれてしまいそうだった。
才虎芽斗吏は、いつだってそういう人だ。
常識も遠慮も、自分の前に置かれた障害でしかない。私が限界だと思っていた境界など、彼にとっては指先ひとつで破れる薄紙にすぎなかった。仕事で一度すべてを諦めようとしたときも、彼は私の弱音を聞き流し、勝手に逃げ道を塞いだ。
——俺様が認めた女が、その程度で終わることは許さん。
あの傲慢な言葉に背中を押され、私はもう一度立ち上がった。
そうして気づけば、いくつもの境界を彼に踏み越えさせられてきた。
それなのに、一度も逃げたいとは思わなかった。
むしろ次はどこまで連れていかれるのか、いつも心のどこかで待ち望んでいた。
「……なんだ、その目は」
本から顔を上げた才虎が、低く問う。いつから気づいていたのだろう。彼の目ではなく、唇ばかり見つめていたことに。
「別に。ただ、気になっただけ」
「ふん。俺様の顔は見られるためにある。遠慮する必要などない」
当然のように言い切り、才虎はわずかに顎を上げた。
その傲慢な仕草がおかしくて、けれど笑うことはできなかった。乾いた唇を舌先で湿らせる彼の何げない動きから、目を逸らせなくなっていたからだ。
「……口、開けてくれる?」
声にした途端、耳まで熱くなった。
自分が何を求めているのか、うまく説明できない。
ただ見たいだけなのか。触れてみたいのか。それとも、もっと別のことを期待しているのか。
才虎はすぐには答えなかった。
瞳を細め、値踏みするように私を見つめる。その沈黙だけで、浅はかな言い訳まで剥がされていく気がした。
やがて彼は本を閉じた。ぱたり、と紙の重なる音が、静かな部屋にひどく大きく響く。
「自分から頼んでおきながら、ずいぶん情けない顔をしているな」
立ち上がった才虎が、ゆっくりと近づいてくる。
一歩ごとに距離が狭まり、彼の吐息に残る赤ワインの香りまで分かるようになった。
目の前で足を止めた彼は、私の顎に指をかける。
「だが、いいだろう。お前がそこまで望むなら、俺様が叶えてやる」
まるで私の願いではなく、彼が与える褒美であるかのような口ぶりだった。
そうやって才虎は、いつも私の欲望を拾い上げる。そしてそれを自分の命令へすり替え、逃げ道ごと奪ってしまう。
「口を開けろ」
先ほど私が口にした願いが、低い命令となって返ってきた。
緑の瞳から逃れられない。
けれど、本当は逃げるつもりなどなかった。息を吸い、言われたとおりに唇を開く。
頬を撫でた親指が、そのまま唇の端へ触れた。柔らかな皮膚を確かめるようにゆっくり押し広げられ、冷えた空気が口内へ入り込む。
ひどく無防備な姿を晒している。
羞恥に舌が縮こまりそうになったとき、才虎の指先が唇の内側へ触れた。
熱を持った皮膚の上を、硬い指腹が静かに滑る。
「……っ」
声になりきらない息が漏れた。
指が舌先に触れただけで、身体の中心を細い震えが走る。濡れた感触を確かめるように撫でられるたび、口の中に唾液が溜まっていった。
逃れようと舌を引けば、指先が追ってくる。触れられたいと近づけば、今度はわざと遠ざけられた。
こちらの反応を見ながら、じわじわと焦らされている。
「俺様に頼んだのだろう。なら、勝手に逃げるな」
叱る声は冷たいのに、頬へ添えられた手のひらは熱かった。
言われるまま、舌先を指へ押し当てる。呼吸のたび、湿った小さな音が零れ、そのたびに自分が何をしているのか思い知らされた。
恥ずかしい。
顔を背けたい。
それでも、才虎に見られていると思うと、身体はますます素直になった。
「ようやく分かったか。俺様の前でまで、くだらん意地を張る必要はない」
指が舌の輪郭をなぞる。先端から縁へ。さらに柔らかな裏側へ。
弱いところを探しているというより、私自身も知らなかった反応を一つずつ見つけ、彼のものとして記憶しているようだった。
触れられる場所が変わるたび、喉が小さく震える。
声を飲み込もうとしても、濡れた息となって唇から漏れてしまう。
「……いい顔をするようになったな」
楽しげに細められた瞳に、身体の内側まで覗かれている気がした。
才虎はすべて分かっている。
私が彼の命令を嫌がっていないことも。恥ずかしさに震えながら、次の刺激を待っていることも。
触れられているのは口の中だけなのに、そこから広がった熱は喉を通り、腹の底へゆっくり沈んでいく。
膝に力が入らなくなり、椅子の縁を掴む指先まで震えた。
「もっと欲しいのだろう」
問いかけではなかった。
「なら、俺様にも分かるように示せ」
命じられ、迷いながら舌を動かした。彼の指に沿わせる。熱を逃がさないように包み、恐る恐る絡める。
才虎の喉が、わずかに鳴った。
初めて見つけた彼の余裕の綻びに、心臓が強く打つ。
私も、この人を欲しがらせることができる。
そう思った瞬間、羞恥の奥に、小さな歓びが灯った。
◇
柔らかな唇を押し開けば、濡れた舌がためらいがちに覗いた。
自分から頼んだくせに、触れた途端、彼女はひどく戸惑った顔をする。
だが、逃げようとはしない。むしろ俺様の指を受け入れようと、震えながら舌を差し出している。
その従順さが、たまらなく愛しかった。
指先を動かすたび、湿った熱が絡みつく。小さく漏れる吐息も、潤んでいく瞳も、すべてが俺様へ向けられたものだと思えば、腹の底で獣じみた欲が身を起こした。
このまま、もっと深くまで触れてみたい。
どこに触れれば声が変わるのか。
何をすれば、こいつは自分の欲望を隠すことさえ諦めるのか。
すべて確かめたいという衝動に、奥歯を噛む。
だが、急ぐ必要はない。俺様が選んだ女だ。
自分が何を望んでいるかも理解できず、怯えたまま置き去りにするなど、才虎家の人間が許すはずもない。
欲望の名前も、その叶え方も、俺様が一つずつ教えてやればいい。
「素直になったな」
そう告げると、彼女の瞳が恥ずかしそうに揺れた。その奥には、支配されることへの甘い喜びが浮かんでいる。
本人だけが、まだそれを認めきれていない。ならば、認めさせてやればいい。
彼女の舌が、縋るように指へ絡んできた。
理性を繋いでいた鎖が、低く軋む。俺様を煽っておきながら、自分が何をしているのか分かっていないらしい。震える睫毛も、熱に濡れた唇も、どうしようもなく無防備だった。
「俺様をその気にさせておいて、指だけで終わると思うなよ」
指を引き抜く。
唇とのあいだに残った透明な雫が、照明を受けて細く光り、すぐに途切れた。それを目で追う彼女の顔には、隠しきれない物足りなさが浮かんでいる。
本当に、素直な女だ。
本人が認めるより先に、身体のほうが俺様を選んでいる。
◇
指を抜かれたあと、冷たい空気が口内へ流れ込んだ。けれど、舌に残された熱は消えない。
むしろ触れるものがなくなったことで、そこだけが余計に疼いているように感じられた。
才虎の指が、濡れた唇をゆっくりと拭う。見上げた彼の瞳は、先ほどまでとは違っていた。磨かれた宝石のような冷たさは影を潜め、その奥に、濃い欲望が沈んでいる。
欲しいものは必ず手に入れる男の目だった。
「……そんな顔をするな」
才虎が顔を寄せる。吐息が唇へ触れ、香水に混じった微かなワインの香りが鼻をくすぐった。
「俺様の指だけで満足したとは言わせんぞ」
逃げる間もなく、唇を塞がれた。柔らかな感触が重なり、すぐに熱い舌が入り込んでくる。
先ほど指で辿られた場所を確かめるように、唇の内側から舌先まで、隙間なくなぞられていった。
いつものキスとは違う。
優しさを装う余地さえない。
私がどれほど彼を欲しがっていたのかを暴き、身体に認めさせるための口づけだった。
逃げようとした舌を捕らえられ、深く絡め取られる。息が続かない。苦しいはずなのに、離してほしいとは思えなかった。
むしろ追いかけるように舌を伸ばし、自分から彼の熱を求めてしまう。
濡れた音と、乱れた呼吸だけが静かな部屋に響く。才虎の手が後頭部へ回り、逃げ場を塞いだ。唇が離れかけるたび、また角度を変えて重なる。息を奪われ、代わりに彼の熱を注ぎ込まれているようだった。
「お前が自分で決められんことまで、俺様が決めてやる」
触れ合った唇の隙間から、低い声が落ちる。
「だから何も隠すな。お前自身まで、すべて俺様に任せろ」
命令なのに、不思議なほど甘く響いた。
この人は、私から何もかも奪おうとしているのではない。私が自分でも持て余しているものまで、すべて引き受けようとしている。
すでに、そうしてほしいと願っている。
認めた瞬間、張りつめていた何かがほどけた。
瞼を閉じ、彼の首へ腕を回す。才虎は満足そうに喉を鳴らし、今度は急かさず、ゆっくりと舌を絡めてきた。
支配されているのか、求め合っているのか。
もう境目は分からない。
ただ彼に触れられるたび、自分の輪郭が熱に溶かされていく。
ようやく唇が離れたとき、肺へ流れ込んだ空気は冷たかった。浅い呼吸を繰り返す私を見下ろし、才虎が口元を歪める。濡れた唇を、親指がひと撫でする。
「いい顔だ。もう、俺様に隠せるものなど何もないな」
否定する言葉は出てこなかった。彼の指も、唇も、声も、まだ身体のあちこちに残っている。
それらを失うことのほうが、今はずっと怖い。才虎はそんな私の迷いさえ見透かしたように、頬を包んだ。
「安心しろ」
傲慢な響きとは裏腹に、触れる手はひどく丁寧だった。
「お前がどれだけ堕ちようと、俺様がすべて引き受けてやる。俺様が選んだものを、中途半端な場所へ放り出すはずがないだろう」
勝手で、尊大で、けれど何よりも彼らしい言葉だった。
逃げ道を塞ぐ宣告なのに、胸の奥が静かにほどけていった。
その手のひらへ頬を預ける。才虎はわずかに目を見開き、すぐに満足げな笑みを浮かべた。
戻れないのではない。
彼に無理やり連れてこられたわけでもない。
私はずっと、自分からここへ来たかったのだ。
そう気づいてしまったことが、怖くて。
そして何よりも、幸福だった。