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「あー……気持ち……」
湯に足を入れた瞬間、冷えきっていた爪先がじんわりほどけた。肩まで沈むと、息が勝手に長くなる。
客室露天風呂。
肌に触れる湯のぬくもりと、頬をなぞる外気の冷たさ。その差が心地よくて、頭の中までゆっくり静かになっていく。
仕事帰りに立ち寄るスーパー銭湯のジェットバスとサウナが、ここ数年の定番の癒やしだった。そんな身体に、ぬるめの湯のやさしさが深く染みていく。熱い湯も好きだけど、いつまでも沈んでいられるこの温度も悪くない。
檜の香りがほのかに立つ湯船にひとり浸かりながら、この景色を好きなだけ眺めていられるなんて、ずいぶん贅沢な話だ。
温泉なんていつぶりだろう。たぶん、あの子と来たのが最後だ。
昼間、湯巡りを楽しむ男女の姿を見るたび、不意に思い出して胸の奥に小さな波紋が広がった。……広がったけど、痛くはなかった。
蒸気機関車。古い家屋の土産屋。甘味処。
温泉街を練り歩く旅行者たちの笑い声と、下駄の鳴る乾いた音。その全部が、日常から遠く離れた場所に来たのだと実感させてくれた。
お義母さん、ありがとうございます。と心の中で頭を下げる。
そして、彼女にも。
「……来てよかった」
ぽつりと漏れた声が、湯気にまぎれて消えていく。
彼女とは、新婚旅行どころか、ふたりで遠出なんてしないだろうと思っていた。助け合いを目的に結婚したのだから。いや、彼女の親孝行だと思えば、これも助け合いのひとつなんだろうけど。
でも、そのわりに、俺たちはちゃんと楽しめている気がした。
俺のくだらない冗談に、呆れた顔でツッコんでくるところも。バームクーヘンを頬張って、目をまるくしていた顔も。なんとなく、よかった。
かわいい、と言い切ってしまうと、少し違う気がした。
それより先に、彼女が少し気を抜いたところを見られたのが嬉しかった。
家にいるときの彼女は、たしかにラフな格好をしている。けれど、俺の姉ちゃんが実家にいたころみたいな、完全に気の抜けた感じではない。化粧をしていなくても髪はそれなりに整っているし、毛玉のついた部屋着も着ない。
きちんとしている人かと思えば、冷蔵庫はしょっちゅう空っぽだし、掃除もルンバ任せで棚の埃は見て見ぬふり。そんなふうに、変なところで雑だ。
たぶん、素を出しすぎないように、せめて身なりだけは整えているんだろう。
その気持ちは、なんとなく分かる。
俺だって彼女の前で、実家にいるみたいにパンツ一丁でうろつく気にはなれない。
湯船の縁に腕を預けて、渓流の音を聞いていると、今日の小さな引っかかりが、湯気の向こうからまた戻ってくる。
ツーショットを撮っておけばよかった。
その方が彼女のお母さんも安心するだろうし、それに、作業のように機関車の写真を撮る彼女の姿が少し引っかかった。「俺のこと見えてますか」と言いそうになったくらいには。
そんなの、三十を過ぎた男が口にするには、あまりにも情けない。子供みたいだから飲み込んだ。
彼女は、機関車を撮るのに夢中だった。二人で写ることを、最初から選択肢に入れていないみたいだった。
俺はたぶん、普通に欲しかった。
彼女と並んで写っている写真が。
「……なんだそれ」
ひとりで呟いて、額に濡れた手を当てる。
写真は、残る。残ってしまう。
あの子の写真もまだスマホの中にある。消せないまま、時々見返すわけでもないまま、ただそこにある。
日付も場所も、笑っている顔も、全部がそのまま残っているのに、本人だけがいない。
だからなのかもしれない。
写真を撮ることには、少しだけ怖さがある。
それなのに今日、俺は彼女と写りたいと思った。
湯を掬うと、指の間から透明な熱がこぼれていく。
――彼女が心の中にいるうちは、行ったほうがいいんじゃない? じゃないと……化けて出るかもよ。
……化けて出るかもよ。
カフェでの彼女の声が、不意に耳の奥で蘇った。
まさか、彼女が、あの子のことをそんな風に言うとは。
何も言い返せなかった。でも返さなくて、よかった。何を言っても、きっと角が立っただろう。
目が笑っていなかったあの顔は、いつものように「まーたタイムスリップしてるね」と揶揄ってくる時とは違っていた。ただの冗談で言っている感じではなかった。
軽くしたかったんだろうか、彼女の中で。
夫が婚約者の墓参りに行くという、あまりに歪な事実を。
――別に、行ってもいいんじゃない?
――そういうの、大事にした方がいいと思うけど……。
入籍前に話した時から、彼女は許してくれている。
恋愛をすっ飛ばした結婚だから、婚約者絡みのことには深入りしないようにしているのだと思う。
だけどどうして、俺は、気にしてしまうんだろうか。
ご近所さんに騒がれたら、それらしく説明すればいいだけの話だ。
――ああ、おいし……。
バームクーヘンを口に入れて、頬を押さえて、至福と言わんばかりの顔をする彼女を思い出して口元が緩む。
……あの子だったら、紅茶のシフォンケーキと無糖のレモンティーでこんな顔をするんだよな。
甘みを噛みしめるように、幸せそうに目を細める。そういう顔は、やっぱりよく似ている。
似ているけど、同じじゃない。初めて知った顔と、温度だけを残していった顔。
そんなふうに思いながら、寂しさでも懐かしさでもない気持ちで、ただ、彼女を見ていた。
風呂から出ると、彼女は浴衣に着替えて、鏡の前で髪を梳いていた。
こちらに気付くと「お風呂、気持ちよかった?」と柔らかな表情で訊いてくる。
「さいっこうだった。ずっと浸かってられる」
「いいねっ。さすが高級旅館の露天風呂。私も入ってこよー」
弾むような足取りで風呂へ向かう背中を見送ってから、「ごゆっくり」と声をかける。冷蔵庫を開け、買っておいた缶ビールを一本取り出して、広縁の椅子に腰を下ろした。
窓の外の景色は、昼とはまるで別の顔をしていた。
木々は夜に溶けて見えないのに、渓流だけは月光を反射して、細かな光の粒を踊らせていた。
この夜の顔は、たぶんスマホで検索しても出てこない。泊まった人だけが見られる顔なんだろう。
「……贅沢だな」
独り言を落として、缶ビールのプルタブに指をかける。
けれど、そのまま少し考えて、手を止めた。
明日の朝、あの機関車の前でもう一度写真を撮ろう。
今度は、ふたりで。
プルタブから指を離し、缶をテーブルに置く。
彼女を、待つことにした。