【二】
電車を降りた瞬間、鼻先を煤と煙のにおいが掠めた。温泉地らしからぬ気配に、思わず顔をしかめる。
新婚旅行に来ていた。二泊三日の温泉旅館。
「こんな結婚だから、旅行も式もなくていいよね」と二人で話し合い、そのことは母にも伝えてあった。なのに、ある日届いたのがこの温泉旅館のペアチケットだった。
表面にさりげなく箔の入った立派な券で、興味本位で旅館名を検索してみたら、評判も値段も想像以上で松川くんと二人そろって目を丸くした。
彼は「なんか悪いなあ……」と頭を掻いていたけれど、行かないほうがよほどもったいないと思い、結局新婚旅行という名目でありがたく使わせてもらうことにしたのだ。
最寄り駅に着くなり、松川くんが「見てみな」と指さした。視線の先には、漆黒の蒸気機関車が堂々と停まっている。
「いいね、写真撮ってお母さんに送ろ」
「既成事実?」
「え、何?」
既成も何も、事実だろう。苗字が同じなのだから。
機関車の立派さに浮かれているのか、温泉地の空気にあてられたのか、的外れな冗談を言う松川くんがなんだか可笑しかった。
正面がよく見える場所には、記念写真を撮る人がたくさん集まっていた。少し離れているけれど、このあたりでいいかと思って、何枚か撮っておく。背後から「……撮れた?」と覗き込まれたけれど、振り向かずに「うん、いい感じ」とだけ返して、そのまま母に送信した。
「二人で撮ってもよかったのに」
松川くんが機関車の方を見たまま、ぽつりと言う。
その横顔にわずかな未練が滲んでいて、ああそうか、とようやく気づいた。さっきの“既成事実”という冗談は、母にツーショットを送るきっかけにしたかったのかもしれない。
ちゃんと旅行に来ていますよ。仲のいい新婚夫婦をやっていますよ。そういう“事実”として、母に見せるために。
「わかりにくい冗談……」
「ん? なんて?」
「なんでもないよ」
気になるなあ、とぼやく声を背中で聞きながら前を見る。旅館まで続く温泉街が、ゆるやかに賑わっていた。
土産物屋や宿が立ち並ぶ通りを、私たちは並んで歩く。周りにいるのは、たぶんほとんどが私たちと同じ旅行者だ。
若い恋人同士、子ども連れの家族、肩を並べて歩く年配の夫婦。みんな、当たり前みたいに笑い合っている。この人たちの誰も、一緒にいる理由を説明しなくていいのだろうな――そんな、どうしようもなく当たり前のことを考えた。
春が近いとはいえ、まだ昼間も肌寒い。なのに浴衣姿で歩く人が思いのほか多い。湯めぐりで火照った身体には、このくらいの冷たさがちょうどいいのかもしれない。
途中で見かけた足湯、入っておけばよかったかなと、冷えた指先をこすりながら思う。松川くんと土産物や地酒の話をしているうち、気づけば旅館の前まで来ていた。
門前に立って外観を見上げた瞬間、思わず足が止まる。歴史を感じさせる造りで、静かな風格があった。
こんな服で入っていいんだろうかと、胸元からつま先まで視線を落としていたら、ぽん、と肩に手が乗る。
「高級料亭じゃないんだから」
微笑みを含んだ低い声と、やわらかく触れる大きな手に、強ばっていた身体が、春先の薄い氷みたいにすうっとゆるんだ。
チェックインを済ませ、仲居さんに案内されて部屋の敷居をまたいだ瞬間、思わず声が漏れた。
「わあ……」
やわらかな光に満たされた和洋折衷の客室だった。備え付けの露天風呂からほのかに漂う湯の香りと、窓いっぱいに広がる、まだやわらかい色をした山の景色。
どれも静かに溶け合っていて、息を吸うだけで気持ちがほどけていく。
旅館といえば、畳の部屋に仲居さんが布団を敷いてくれるものだと思っていた。けれど、この部屋には畳のスペースとは別に洋室のツインルームがあって、上質そうなベッドが二つ並んでいる。
仲居さんの「お布団、くっつけておきますね」がないのだと分かって、少しだけほっとした。
「いい部屋だね」
「ね、お母さん、太っ腹だなあ」
「まさか客室露天風呂付きとは思わなかった、俺からもお礼の連絡しとく」
「いいよ、私から伝えとくから」
そんなわけにもいかないよ、と言いながら、松川くんはさっそく広縁の椅子に腰を下ろした。
長い脚を組み、窓越しの光を受けながら渓流を眺める姿を見ていると、『素敵な人ねえ……』と何度も言っていた母の声を思い出す。
「お義母さんには良くしてもらいすぎだなあ」
「それだけ気に入ってんだよ、松川くんのこと」
母は彼のことをとても気に入っている。父もそうだ。
思い出すのは、両家顔合わせの日だった。
和食レストランの個室で向かい合って座り、形式ばった挨拶を交わしたあとは、家族の思い出話や地元の話で笑い合った。
最初は緊張していたうちの両親も、おいしい料理と松川家の穏やかな空気に気がゆるんだらしく、楽しそうにお酌をしながらすっかり打ち解けていた。
ただ、松川くんのご両親に「息子を選んでくれて、本当にありがとう」と深々と頭を下げられたときだけは、胸の奥にちくりと細い針が刺さった。
そんな私をよそに、両親は「きみは大きいねえ! 百九十はあるねえ!」だの、「今度、長野にいらっしゃいな、登山仲間に紹介したいわあ」だのと、すっかり舞い上がっていた。
挙げ句の果てには、
「ふつつか者の娘ですが、自分のことくらいはできますので……」
「もらってくれたからには損はさせませんので……」
と、二人して頭を下げながら娘を「どうぞどうぞ」と大安売りしはじめたのだから、恥ずかしくて顔から火が出そうになった。
そんな両親に対しても、松川くんは「いえいえ、僕の方こそ感謝しかなく……」と、くしゃっと笑いながら頭を掻いた。その言い方が、いたたまれなくて俯いてしまった私をさりげなくかばってくれているようで、余計に申し訳なくなる。
それに気づいたのか。帰り際、母は「ごめんね。はしゃいじゃって、恥かかせたわね」と私に謝った。そして、まだ浮かれた調子でいる父と話している松川くんの方を見て、「素敵な人ねえ……いい人と結婚できて、よかったわね」とあらためて祝福してくれた。
そうだね。
私の突飛で愚かな提案にも、嫌な顔ひとつせず頷いてくれた懐の深い人だよ――そんな本音は胸の中にしまって、「ありがと」とだけ返した。
それからというもの、長野から届く荷物には、松川くん好みのおつまみや、父おすすめの酒がちょこちょこ紛れ込むようになった。
「この景色見ながらお義父さんが送ってくれた日本酒が飲めたら最高だな、あれ、おいしかったんだよね」
「そうなんだ、部屋食のメニュー見てみる? 同じのあるかも」
「ん、後でいいかな」
そっか、と返しながら、私も向かいの椅子に腰を下ろした。移動の疲れもあったのか、しばらく二人でぼんやりと景色を眺める。
さらさらと吹く風が木々を揺らし、乾いた葉を渓流へ落としては流していく。さっきまでの温泉街の賑わいが嘘みたいに、ここにはやわらかな自然の音しかない。
何も話さなくても、不思議と焦らなかった。彼との沈黙は、ちっとも苦じゃない。
しばらくして、松川くんが「夕食までまだ時間あるよね」と口を開いた。
「ちょっと外、出てみない? 昨日調べてたんだけど、好きそうなご当地おやつがあるよ」
「あ、もしかしてバームクーヘン? 私も気になってたんだよね」
「決まり、行こうか」
正直驚いた。松川くんが、私の好みを気にしてくれていたなんて。
婚約者がバームクーヘン好きだったのかな、という勘繰りをしてしまいそうになったけれど、彼が気の利く男であることを思い出して、黙った。
旅行鞄から小さなショルダーバッグを取り出し、財布とスマホと部屋の鍵を入れる。
そうしてまた二人で宿を出た。
旅館から歩いて数分。
落ち着いた外観のカフェに入り、お目当てのバームクーヘンとロイヤルミルクティーを注文した。松川くんはホットコーヒー。
いちばん端の席に座り、コートを脱いで品が来るのを待つ。
白を基調にした清潔感のある内装に、軽やかなピアノとサックスの音が静かに流れていて、それだけで気持ちがほぐれた。
他にどんなお菓子があるんだろう、とメニューを開いたところで、向かいの松川くんがこちらを見ているのに気づく。
「どうしたの?」
少しだけ眉尻を下げた彼が、「この前、話してたことなんだけど……」と切り出した瞬間、ああまたかとこちらは肩を落とした。
入籍前、私たちはこの結婚についていろいろ話し合った。
式や旅行のことだけじゃない。生活費、住む場所、お互いの家族への説明、恋人をつくるかどうか、離婚の条件。
契約結婚と呼ぶほど細かいルールを決めたわけではないけれど、円満にやっていくために必要なことは、ひととおり言葉にしたつもりだった。
いま彼が少し気まずそうに持ち出したのは、亡くなった婚約者の墓参りの話だ。それだって以前に話して、「行っても構わないよ」と伝えたはずなのに、どうにも彼は気にしてしまうらしい。
「気にすることじゃないって」
「そうは言っても……ご近所さんに『お宅の旦那が花持って出かけたわよ! どういうこと!?』って突撃されるかもよ」
「ぶっ! それ、お隣の奥さんのものまね?」
「よくわかったね」
「語尾の強さがそっくり……、じゃなくて、もうさ――」
「お待たせしましたー、プレーンバウムとミルクティーです」
絶妙なところで、店員さんが注文の品を運んできた。
名物のバームクーヘンから、ふわりと熱を含んだ甘い香りが立ち上る。焼きたてなのだと、すぐにわかった。
「わ、おいしそう!」
言いかけていたことなんて一瞬で吹き飛ぶ。
松川くんの前にホットコーヒーが置かれるのを待って軽く会釈し、「いただきます」と手を合わせてから、フォークの側面ですっと生地を切った。
表面がサクッと小気味よい音を立てる。口に入れた瞬間、じゅわっとほどけるバターの気配に、思わず目を見開いた。
「おいしい!」
外はさくさく、中はもっちり。焦がしバターの香ばしさと、濃いたまごの甘みがふわっと鼻を抜ける。こんなにおいしいバームクーヘンは初めてかもしれない。
もうひと口食べてからミルクティーを飲み、私はあらためて松川くんの方へ向き直った。
「お墓参りなんだけどさ、ほんとに、行っていいと思ってる。正直、まったく気にならない……って言ったら嘘だけど、嫌だとは思ってない」
彼の反応をそっと窺う。松川くんは何も挟まず、静かに聞いてくれていた。
「彼女が心の中にいるうちは、行ったほうがいいんじゃない? じゃないと……化けて出るかもよ」
「……っ」
しまった、と思って視線を逸らす。最後の一言は余計だったかもしれない。彼の眉根がわずかに寄った気がした。
でも、本音でもある。
不慮の事故で亡くなった婚約者に「彼を返せ」なんて金縛りにでも遭わされたら、怖くてたまったものじゃない。
それに――松川くんの中に婚約者が生きていなければ、私たちの“助け合い婚”はたぶん成り立たない気がしている。
そんな苦さが口の中にじわりと広がった気がして、私はミルクティーに角砂糖をひとつ落とし、ゆっくりとかき混ぜてから口にした。
松川くんも「ふうん」と小さく頷き、温度を確かめるようにカップを唇に当てる。
こく、と喉仏が動いた。
「わかった」
少し困ったように笑ってから、彼はバームクーヘンへ目を落とした。
「それ、そんなにおいしいの」
「おいしいよ、すごく」
私は話題が変わったことにほっとしながら、一口分を切り分けてフォークに刺す。
「食べてみて」
持ち手のほうを彼へ向けて差し出すと、松川くんが口元だけで笑った。
「あーんとかじゃないんだ?」
「しません!」
墓参りの話をした直後にいちゃつくなんて、さすがに罰が当たりそうだ。
ほんとに、化けて出るかもしれない。
ぶらぶらと宛てもなく温泉街を歩いてから、旅館へ戻る。
温泉に来るのなんて、久しぶりだった。宮城にいる友達は家庭を持つ子ばかりで、気軽に旅行へ誘える相手が少ないから。
近場で一泊くらいの小旅行ならひとりでも平気だけれど、温泉旅館にひとりで泊まるには、まだ少し気後れがあった。こういうふとした瞬間に、パートナーがいるっていいな、と思う。
たまにならお互いの行きたいところに付き合うのも、悪くないのかもしれない。助け合い婚なわけだし。
隣を歩く松川くんも、心なしか機嫌がいい。
一瞬とはいえヒリついた空気の後だったから、努めているのかな、と思ったけれどそうでもなさそうだ。口角を上げながらゆったりと周囲を見回して、「へえー……」とか「なんだあれ……」とか小さく独り言をこぼしている。長身ゆえの視野の広さを、存分に発揮している様子だった。
彼の視界には、この温泉街がどんなふうに映っているんだろう。
そう思いながら歩いていると、浴衣姿で集まって写真を撮る女の子たちが目に入った。大学時代の友人たちと草津温泉へ行ったときのことを思い出す。湯けむりを浴びながら、美肌の湯への期待に胸を躍らせていた、あの頃のこと。
手を繋ぎながらあちこち見回す若いカップルを見れば、古い恋人と旅行に行った記憶まで、朧げに蘇る。もう未練なんてないのに、人の記憶というのは不思議なもので、きっかけさえあれば、しまい込んで埃を被った思い出まで引っ張り出してくる。
そう。誰だって、不意に過去を思い出すことがある。
お互い様なのだ。
思いがあっても、なくても。
松川くんは、私と婚約者のどちらと旅行に来ているんだろう。
行きの電車の中で、そんなことを考えていた。
けれど――
「おっ、見て。あれ、映画の舞台になった旅館だよ」
彼が私の肩をぽんぽんと叩いて、視線を促す。
「ほんとだ、立派」と返すと、彼は「ねっ」とこちらに微笑みかけた。
今を楽しんでいる、その顔は。
少なくとも、過去に浸っている顔には見えなかった。
妻との旅行を楽しむ夫。
そう思っても、たぶん間違いじゃない。
……間違いじゃ、なければいい。