◆
『――岩泉と及川は相変わらずらしいな』
「だろうな、花巻は新しい職場、どうなのよ」
『んー……まあ、ぼちぼちだ』
東京に住む花巻貴大と、画面越しに酒を飲んでいた。
コンビニで買った適当なつまみと、かつてのチームメイトたちの近況を肴に、だらだらとグラスを傾ける。
俺の問いかけに対する返事の歯切れの悪さからして、今回の職場も長くは続かなそうだな、と思う。
「……ところでさ、俺、結婚することになった」
何気なく口にした途端、花巻が『マジ!?』と目を剥いた。大げさにのけ反った拍子に、画面の端に置いてあった缶ビールが倒れかける。
「そんな驚く?」
思わず苦笑すると、向こうの男は気まずそうに視線を落とし、『わりぃ』と素直に謝った。
それから缶を手に取り、ごくごくと中身を飲み干す。少し迷うような間を置いて、ようやく口を開いた。
『あんなことがあったからよ、マッツンはこの先、結婚しねぇんだろうなって思ってた、……マジでびびった』
あんなこと。
数年前、婚約者が交通事故で帰らぬ人になったことだ。
一度紹介していた相手だったから、訃報を知ったとき、花巻もひどく胸を痛めていた。
「俺もそう思ってたよ。けど、まあ……タイミング?」
『タイミングぅ~? てか、どんな人?』
「――さん」
『は!?』
今日いちばんの声が出た。
花巻は驚愕をそのまま顔に貼りつけたまま、額に手を当てる。熱でも測るみたいな仕草で何かを考え込み、『マジか……』とか『アイツ、本気か……?』とか、独り言のようにこぼしていた。
その反応はもっともだと思う。俺だって、数日前までは結婚なんて考えたこともなかった。
『いや、まずはおめでとう、だな……つーか、経緯教えろ。付き合ってなかったじゃん、お前ら』
「そうだな……」
顎に手を添えながら、どこから話すべきかを考える。
すると、不意にあの夜の声が耳の奥によみがえった。
――松川くん、私と結婚しませんか。
冗談みたいに突拍子もなくて、けれど冗談では済まされない真剣さを帯びた声音だった。
その日も、カフェアンドバーのカウンター席に並んでいた。近況報告や仕事の愚痴をつまみに、他愛もない話をだらだらと続ける。
彼女と初めて夜を共にした日に立ち寄ったこの店は、いつの間にか二人の待ち合わせ場所みたいになっていた。俺は国産ウイスキーのロックを舐めながら、隣から流れてくる声に耳を傾ける。
話すときの横顔。やわらかな声の調子。チャームのナッツを摘まむ指先の動き。
そういうものを眺めていると、たちまち懐かしい気分になる。過去に引き戻されるような感覚が、俺にはどうしようもなく心地よかった。
――でも、それだけじゃない。
「――でね、お母さんからの孫催促がきつくてさ」
「また言われたんだ、期待されてるね」
「一人娘だからね、まったく……」
彼女は肩を落としてため息をついた。
頬杖をつき、爽やかな香りのジントニックに浮かぶ薄切りのライムとミントを、マドラーでちょん、ちょんとつつく。
つい、その指先を目で追ってしまう。つやりと光るグリーンのネイルがカクテルとよく似合っていて、きれいだった。
「長野でできた、登山仲間たちに孫がいるのが羨ましいんだって。……まあ、遠回しな結婚の催促でもあるんだけど、ちゃんと婚活しろって怒られた。いつまでもひとりでいると、ここではつらいからって」
「そうだね……」
その息苦しさには覚えがある。
婚約者を亡くした頃、職場でも地元でも、哀れみの目を向けられた。しばらくは腫れ物に触るみたいな扱いが続いて、落ち込んでいた当時の俺には、それを完全に責めることもできなかった。
それでも、「なんであんたまで知ってるんだ」とか、「もう放っておいてくれ」と思うことは何度もあった。
内側がぐらついていると、前なら受け流せていたことまで、急に耐えられなくなる。誰かにずっと見張られているみたいで気味が悪くて、一時期は外へ出るのも億劫だった。
男の俺ですらそうだったのだから、彼女が感じる窮屈さは、それ以上だろうと思う。
「すみません、同じのお願いします」
「かしこまりました」
彼女がマスターにグラスを渡す。いつの間に飲み切ったんだ。
新しいカクテルが出てくると、彼女は「今日は飲みたい気分なんだよね」と言って、すぐにグラスを傾けた。半分ほど一息に飲み干す。その飲み方が、なんだか彼女らしくない。
「ほどほどにしときなよ」
小さな背中を軽くぽんぽんと叩く。すると彼女はまたカウンターに頬杖をつき、あのさ、と斜めにこちらを見た。
薄桃色に染まった頬と、少し焦点の緩んだ目が妙に色っぽい。
「ここに、困ってる人がいるとします」
それは俺のことか、マスターのことか、それとも彼女自身か。
「松川くんは、どこまでを『人助け』って思える?」
「どこまで……?」
話の着地点が見えなくて、思わず首を傾げる。
彼女は笑っていなかった。酔った冗談で済ませるつもりはないらしい。
答えに詰まってマスターのほうをちらりと見ると、彼はワイングラスを清潔なクロスで磨きながら、さりげなく視線を斜め上へ逃がしていた。
人助け。
端的に言えば、自分にできる範囲で手を差し伸べることだと思う。責任を背負いすぎないところまで。
善意が強すぎて、自分が擦り切れるところまで誰かを助けようとする人もいるけれど、俺はそこまでできない。どこかで線は引くべきだし、そのほうがたぶん長く誰かに手を貸せる。
そういえば最近、人助けらしいことなんてしていない。せいぜい近所のばあさんの話し相手になるくらいだろうか。
「松川くん」
「なに?」
「私と結婚しませんか」
パリンッ、と澄んだ破砕音がカウンターの向こうで鳴った。
マスターが「……失礼しました」と小さく言いながら、割れたグラスの欠片を拾うためにしゃがみ込む。
「待って、なに? 結婚?」
「うん」
「えっと……結婚を前提に付き合おうって話?」
「ううん、結婚」
彼女は俺の目をまっすぐ見て、きっぱりと言い切った。
「三十代になって焦ってる、とかではなくて……婚活してると、交際から結婚までの過程って、思ったよりずっと大変なんだなって気づいたの。相手とは結婚前提で会うことになるでしょ? だから、付き合う前のデートから、ずっと神経を使う。品定めされてるみたいで、……まあ、お互い様だし、そもそも婚活ってそういうものなんだけど」
「それに疲れたってこと?」
「……そう。もし松川くんが、亡くなった婚約者のことがあって……もう恋愛とか交際とか、そういうのが難しいなら、私とそこを飛ばして結婚するのはどうかなって思って」
「なるほどね……」
「松川くんにとっても、多少はメリットあると思う。パートナーがいれば家事とかお金の負担も少し減るだろうし、何かあったときに助け合えるし……」
淡々とした口ぶりだった。酔った勢いでも、冗談でもなさそうだった。
「変なこと言ってる自覚はあるよ、失礼な申し出かもしれない。けど、ちょっと考えてみてほしい」
「失礼だとは思わないけど……そうだな……」
あまりに藪から棒で、時間が数秒止まったような気がした。
けれど、パートナー、という響きは悪くなかった。むしろ妙にしっくりきた。
「助け合いとしての結婚か……」
「恋をするには向かない者同士、助け合わない?」
グラスを伝う結露を拭う指先と、わずかに震えた語尾に滲む気持ちが、痛いほど分かった。
俺は親から結婚や孫を催促されることはない。けれど、いつまでも特定の相手をつくらない俺に対して、周囲が「まだ傷が癒えていないんだろう」と思い込んでいる気配は、なんとなく感じていた。
「もう大丈夫だ」と言葉では伝えていても、余生のように静かに暮らす息子を見れば、どんな親だって、まだ喪に伏しているのかもしれないと案じるのは自然なことなのだろう。
彼女を見る。目が合った瞬間、細い肩が小さく跳ねた。
無理に平気そうな顔をしているくせに、こういうところは妙に分かりやすい。そんな不器用さも、もう見慣れ始めていた。
酒気を含んだ薄桃色の頬と、不安げに下がった眉尻が、あの夜を思い出させる。再会した彼女と俺が、熱のこもる一室にいた夜。
婚約者がいなくなってからも、目の前の熱に手を伸ばしたことはあった。けれど、その先の未来まで考えたことはなかった。
グラスの中で氷が溶け、カランと音を立てる。小さく揺らしてから、ウイスキーをひと口舐めた。燻した香りが鼻の奥を抜けていく。
ここが見慣れたリビングだったとしても、酒の味はたぶん変わらない。――隣に彼女がいるのなら。
そんな気がした。
「……いいね、結婚しようか」
彼女と、なぜかマスターまでが、はっとしたようにこちらを見た。
「……ほんとに? 持ち帰らなくて大丈夫?」
目を丸くして問う彼女の横で、便乗するみたいに小さくうなずくマスターがなんだか可笑しい。
背後で、別の客が「あ、また降りだした」と言う声がして、窓の外に目をやった。ちらちらと落ちてくる雪が、窓枠に残る白さへ静かに重なっていく。
今の時代、独身でいること自体に困るわけじゃない。けれど、不安だけは年齢とともに降り積もっていく。
想像してしまった。降りしきる雪の中を、ひとりで歩く姿を。凍えたアスファルトの冷たさを。
「大丈夫、君となら、悩む必要はないよ」
彼女の肩がまた跳ねた。
「さらっとそういうの言わないでよ……」
そう言いながら視線をグラスへ落とし、マドラーを手に取る。
狙ったわけじゃないのに、照れている彼女へ「何ときめいてんの」と意地悪を言いたくなった。けれど、それはやめた。
落ち着かなさそうにマドラーをくるくる回す横顔を、もう少しだけ見ていたくなった。
「――……というわけ」
『ほおん……』
ディスプレイの向こうで、花巻が胡乱な顔をした。
一拍置いて、『なんじゃそりゃ』と天を仰ぐ。そうして顔を戻すと、今度は腕を組んだまま、いかにも何か言いたげにこちらを見た。
「なに、言いたいことあるなら言えって」
『いや……まあ、経緯は分かった、分かったんだけどよ』
「…………」
ああ、これはろくでもないことを言う顔だ。そう思った次の瞬間、その予感はきっちり当たった。
『アイツを……あの子の代わりにするつもりは、ねえよな?』
やっぱり、そこか。
婚約者を紹介したとき、花巻は言っていた。『なんかアイツ思い出すわ、顔もだけど、声とか雰囲気とか、なんとなく似てんな』と。
“アイツ”――つまり彼女も、ときどきそれに似たことを言う。俺が指先を目で追っていることに気づくと、「松川くん、いま婚約者とデートしてるでしょ」と笑うのだ。要するに、自分を媒介にして、もういない婚約者との時間を取り戻そうとしているんでしょ、と。
その意味に気づいたときは、さすがに少し傷ついた。けれど、それを否定しきれなかった自分にも、同じくらいショックだった。
「あの子を思い出すことはある。でも、彼女は彼女だ、これは“助け合い”の結婚なんだし」
『……そうか、まあ、いんじゃねえか? アイツも婚活疲れで、なんか拗らせてる感じだったしな~』
あいつに婚活は向いてねえべ、と言いながら、花巻は缶ビールをぐいと傾けた。
彼女の近況をよく知っているような口ぶりが、ほんの少しだけ引っかかる。
ふと、しょうもない疑問が浮かぶ。
そんなふうに連絡を取り合っているのなら、花巻と結婚しようとは思わなかったんだろうか。職の安定しない男ではあるけれど、気のいい奴ではある。個人事業主の彼女なら、従業員兼夫みたいな形で抱え込むことだってできたかもしれない。
(……やめとこ)
これは助け合いだ。
お互いが、少しでも楽になるための結婚。
たまたま近くにいた俺が、ちょうどよかっただけなのだろう。
今は、そう思うことにした。