訳あり男の松川くんと結婚する話

【一】 ――結婚前。

『孫』
「またか……」

 東京での仕事を辞め、実家の大家業を継いでから一年ほど経ったころだった。
 休日、塗り直したマニキュアを乾かしていると、母から電話がかかってきた。開口一番、飛んできたのがこの一言である。ここ最近、母はことあるごとに孫の話を持ち出す。
 雪とイルミネーションが街をやわらかく彩る季節だというのに、三十代のおひとり様街道を順調に歩む一人娘には、まるで情け容赦がない。
 先週は、長野で登山仲間ができた話を楽しそうにしていたはずなのに。北アルプスの景色を分かち合える友人に恵まれたところで、孫への執着まで手放せるわけではないらしい。
『いい人いないの? 婚活してるんでしょ?』
「もう、それもいいかなって思ってるんだよね、断るのも、断られるのも、けっこうきついし」
『何言ってんの! 独りなんて駄目よ! ちゃんとしなさい!』
 語尾を叩きつけるような母の口調に、怯むより先に、むっとした。
 ちゃんとって、何だ。地元に戻って、家業を継いで、納税して、自立して暮らしている人間に何を言うんだこの人は。
 苛立ちを鎮めるように、乾きかけた爪先を見つめながら、ふう、と息を吐く。
『あんたはね、都会でばりばり働く素敵な独身女性を見てきたんでしょうけど。テレビじゃ「結婚してなくても、子供がいなくても幸せだ」なんて言うけれど、そういうのは田舎……地方じゃ通用しないのよ、結婚して子供を産んで、家族をつくって、それでようやく一人前だって認めてもらえるの』
 ぐさり、と左胸のあたりを刺された。
 宮城に戻ってきてから、嫌というほど思い知らされてきたことだった。
『一人で生きていこうと思えば、生きてはいけるわよ、でもね……しんどいわよ』
 最後のところで、母の声がほんの少し詰まった気がした。
 子供のころは分からなかったけれど、大人になった今なら、母の言葉の重さが分かる。
 まだ五十代半ばで家業を私に譲り、さっさと長野へ移り住んで、それまでの人間関係をきっぱり切り替えた両親の選択が、何より雄弁だった。
「まあ、結婚願望がないわけじゃないし。気長に待っててよ」
『悠長なこと言って……ほんと、大丈夫かしら』
 母ははあ、とため息をついた。少し間を置いてから、また野沢菜漬けとお味噌を送るからと言い、電話を切った。
 私もふう、と息を吐いてスマホを置いた。
 温かいお茶が飲みたくなって、ケトルに水を入れる。やがて湯が鳴きはじめたころ、テーブルの上のスマホがブー、ブー、と短く震えた。
 表示された名前を見て、眉がわずかに寄る。
 タイミングがいいのか、悪いのか。
「……もしもし」
『お疲れ、何してた?』
「別に、なにも、休みだったし。……飲みの誘い?」
『そ、今からどう?』
「どうしよっかな……明日早いんだよね」
 じゃあ明日の夜は、と声の主――松川くんが軽やかに続ける。
 低くてやわらかいその声を聞くと、それだけで肩の力が少し抜けた。
 互いに、ひとり者同士。
 去年の今ごろは、再会した彼とのあいだに、もしかしたら何かあるのではないかと、そんな甘い期待を抱いていた。けれど夏に、「君は亡くなった婚約者に似てる」と告げられて、その夢はあっけなく砕けた。
 そんな事情を抱えた松川くんとは、一時期、距離を置いていた。けれど最近は、またぽつぽつと会うようになっている。
 傷つけられたのにどうして、と経緯を知る友人たちには呆れ半分に眉をひそめられる。
 たしかに、残酷なことを言われた。けれど、彼は嘘をつかなかった。自分の弱さを隠して、体よく取り繕うことはしなかった。
 だからだろうか。怒りより先に、痛みと喪失を抱えたまま日々を過ごす彼の重さを想像してしまい、責める気持ちの置き場がなくなった。
 許したわけじゃない。けれど、あの一言だけで切り捨てられるほど、嫌いにもなれなかった。
「明日なら……八時からいけるよ、夜の」
『おっけ、じゃ、明日の夜八時ね』
 うん、と返して通話を切る。ちょうどそのあいだに沸いた湯で、のろのろとお茶を淹れた。
 まだ熱のこもる湯呑みを両手で包みながら、飲める温度まで冷めるのを待つ。そうしているうちに、さっきの母の言葉がまた頭の中で反響した。
 ――結婚して、子供を産んで、家族をつくる。それでやっと一人前って認めてもらえるのよ。
 家庭を持つ友人や、親しい取引先の人たちから「すぐにいい人と出会えるよ」とか、「自分の時間があってうらやましい」とか、そんな言葉をかけられるたび、胸のどこかが居心地悪くざわついた。
 前向きな言葉と笑顔の裏に、気遣いと、ほんの少しの気まずさが透けて見える。そのことに気づいた瞬間、胸のすき間を冷たい風が吹き抜けた。
 年配の人たちはもっと露骨だ。「あんたもいい年だろ、はよせんと売れ残りって言われるぞ」なんて、冗談めかした顔で平気で殴ってくる。
「どうにかしないとなあ……」
 マッチングアプリや結婚相談所で知り合った男性たちとは、話が弾んでも、何度か会っても、どうにもぴたりとはまらなかった。
 理由はいくつもあるのだろうけど、自分で分かっているもののひとつは、たぶん“面倒くさい”だ。
 マッチした相手と、決まりきったように自己紹介をして、無難な話を交わしながら相手を観察して、ありかなしかを測る。
 相手のタイプもだんだん似通ってきて、ふとした拍子に、前の人ともうまくいかなかったのだからこの人とも無理かもしれない、と急に気持ちが冷める。
 結婚までの過程が、だんだん作業のように思えてくる。そうなると、もう駄目だった。
 断るのも面倒で、なんとなくやり取りを続けていると、そのうち向こうから断られる。当然といえば当然なのに、いざそういう連絡が来ると、胃のあたりに重いものが沈んだ。
 正直、やってられない。
 それでも、親を安心させたい気持ちはある。
 いつまでも心配をかけたくないし、この申し訳なさにも、そろそろ終止符を打ちたい。
 ふと湯呑みに目を落とす。
 いつの間にか湯気はおさまり、ようやく喉を通せそうな温度になっていた。
「…………」
 胸の中を静かに均すように、ゆっくりとお茶を飲む。
 私が今考えていることは、人によっては「ありえない」と一蹴されるだろう。
 それでも、不安ばかりが積もっていくこの時代だからこそ、案外、受け入れられるのかもしれない――そんな期待もどこかにあった。
 それに、彼ならごまかしたり、雑に扱ったりはしないだろうという、妙な信頼がある。
「……よし」
 明日の夜八時。
 私は松川くんに、ある提案をする。