『帰路に着く』
誰にも気づかれない日が、少しずつ増えていった。
はじめのうちは、たまたまだと思っていた。
朝の改札で肩がぶつかりそうになっても、相手は謝らない。職場近くのカフェで注文しようとしても、店員さんは私を通り越して、後ろに並んだ人へ声を掛ける。駅前の横断歩道で信号を待っているときも、隣に立った女の人の鞄が、私の腕をかすめた気がした。けれど彼女は、何もなかったみたいにスマホを見ていた。
声をかけても、返事はない。
すみません、と言っても。
あの、と言っても。
まるで私だけ、透明なガラスの向こう側に立っているみたいだった。
それでも、まったく誰にも見られていないわけではなかった。
公園のベンチに座っていると、小さな子がじっとこちらを見て、母親のスカートを掴んだ。病院の前では、車椅子のおばあさんが私を見て、少しだけ微笑んだ。
なんだろう。
なんだかすごく、帰りたい。
帰らないと、いけない。
あの人とはじめて会ったのは、雨の日だった。
傘を持っていなかった私は、商店街のアーケードの端で立ち尽くしていた。雨粒が軒先から糸みたいに落ちて、アスファルトに細かい音を立てていた。人の足音と、車の水しぶきと、遠くで鳴る踏切の音。その全部が現実なのに、私だけがそこに混ざれない気がしていた。
そのとき、隣に男の人が立った。
黒いスーツに、黒い傘。濡れた髪の先から落ちた水滴が、白いシャツの襟元に小さく染みをつくっていた。
「入る?」
低い声だった。
傘の内側に招かれているのだと気づくまで、少しかかった。
「……私、ですか?」
「他にいないし」
男の人は、なんとなく眠そうな目でこちらを見ていた。からかうでもなく、驚くでもなく、本当に当たり前みたいな顔で。
それが、松川一静さんだった。彼は、葬儀屋で働いていると言った。
人の最期の支度をする仕事。残された人たちが、ちゃんと別れられるように整える仕事。
私はそれを聞いたとき、少しだけ納得した。黒いスーツが似合っていたから、ではない。彼の声の温度が、やけに静かだったからだ。熱すぎず、冷たすぎず、火の消えたあとの灰に指を近づけたときみたいな、ほのかな温度があった。
それから、私はときどき松川さんに会った。
駅前の喫煙所のそば。閉店後の花屋の前。人の少ない河川敷。
松川さんはいつも、こちらから話しかける前に気づいた。
「今日も暇そうだね」
「暇じゃないです」
「じゃあ何してんの」
「……散歩です」
「へえ。徘徊じゃなくて?」
「失礼ですね」
そう言うと、松川さんは小さく笑った。
その笑い方が好きだった。声に出して笑うより先に、目元がほんの少しだけ緩む。口角だけが薄く上がって、すぐ元に戻る。春の風で水面が揺れたみたいに、静かで、見逃しそうな笑い方。
私は彼に、どうでもいい話をたくさんした。
昨日、コンビニの新作プリンが美味しそうだったこと。駅のホームに、片方だけの手袋が落ちていたこと。
それから、夕方になると決まって、どこかの家から漂ってくる味噌汁の匂いが気になること。
その匂いを嗅ぐたびに、帰らなきゃ、と思うのに、帰り道が見つからないこと。
松川さんは、だいたい相槌だけだった。
「ふうん」
「よくあるよね」
けれど、その短い返事だけで、私の胸は少しだけ楽になった。
松川さんが相槌を打つたび、私の声に、ほんの少しだけ重さが戻る気がした。
ある日、私は松川さんに聞いた。
夕方の河川敷だった。
空は薄く焼けて、川の上を渡る風が冷たかった。枯れ草の匂いと、どこかの家の夕飯の匂いが混ざっている。遠くで小学生たちの笑い声がして、その中に混ざるボールの弾む音が、やけにはっきり聞こえた。
松川さんは缶コーヒーを片手に、堤防の柵にもたれていた。私はその隣で、膝を抱えるみたいにして座っていた。
「……松川さん」
「ん?」
「どうして優しくしてくれるんですか?」
自分で聞いてから、胸の内側がきゅっと縮んだ。
答えを知りたいような、知りたくないような気がした。
松川さんは、すぐには答えなかった。
缶コーヒーをひと口飲んで、夕焼けの残りみたいな空を見上げる。柔らかく癖のある黒い前髪が風に揺れて、彼の横顔に細い影を落とした。
「職業柄、ね」
「職業柄?」
「死と向き合ってるからね」
その言葉は、あまりにも静かだった。
だから、余計に深く沈んだ。
「死んだ人ってさ、案外しぶといよ」
「……しぶとい?」
「変な言い方だけど。部屋の匂いとか、写真とか、誰かの口癖とかに残る。毎日そういうの見るから」
「…………」
「だから……見えないものを、ないことにするの、あんま得意じゃないんだわ」
私は何も言えなかった。
風が吹く。
冷たいはずなのに、頬には何も触れなかった。
そのとき、ふと気づいた。
私の手は、缶コーヒーに触れられない。
松川さんが差しかけてくれた傘にも、私は触れられなかった。
カフェで注文できなかったのも、店員さんが意地悪だったからじゃない。
腕がぶつからなかったのも。
誰も謝らなかったのも。
私は、最初から――。
「……わたし」
声が震えた。震える声だけが、まだ私のものだった。
「死んでるんですか」
松川さんは、目を伏せた。否定しなかった。
それが、答えだった。
川の向こうで、電車が走っていく。窓に夕陽が反射して、いくつもの光が一瞬だけ並んだ。けれど、すぐに消える。最初からなかったみたいに。
怖いと思った。なのに、不思議と泣けなかった。
涙の出し方も、どこかに置いてきてしまったみたいだった。
「私、どうして覚えてないんだろう」
「守ってんじゃないの」
「……なにを?」
「自分を」
「でも、私……帰らなきゃって、ずっと思ってたんです」
口にしてから、その言葉が、自分の中でずっと鳴っていたものだと気づいた。
「どこに、なのかもわからないのに。誰が待ってるのかも、思い出せないのに」
夕方になると、帰らなきゃと思う。でも、帰り道がわからない。
松川さんは、ようやくこちらを見た。
その目は、いつもより少しだけやわらかかった。かわいそうだと言う目ではなかった。怖がらせないように、けれど嘘もつかない目だった。
「無理に思い出さなくて、いいんじゃない」
「どうして?」
「思い出したら楽になるって、決まってるわけでもないし」
その一言で、胸の奥にあった何かがほどけた。
私は顔を伏せた。泣けないのに、泣いている気がした。
「松川さん」
「ん?」
「私、ちゃんといましたか」
風が止んだ。
川の音だけが、薄い布越しみたいに聞こえた。
松川さんは少しだけ眉を寄せた。困ったような、怒ったような顔だった。
「いたよ」
夕焼けが沈んでいく。
私の輪郭も、少しずつ夜に溶けていく気がした。
「松川さん」
「ん?」
「もし私が、いなくなったら」
「うん」
「忘れますか?」
松川さんは答えなかった。その沈黙が、返事より優しかった。
しばらくして、彼はポケットから煙草を取り出しかけて、やめた。代わりに、空になった缶コーヒーを握りしめる。
「忘れないよ」
「ほんとですか」
「ほんと」
「仕事柄?」
「いや」
松川さんは小さく息を吐いた。
「俺が、覚えてたいから」
耳の奥で、何かが静かに鳴った。
遠くのチャイムのように。
それが合図なのだと、なぜかわかった。
でも、怖くはなかった。
松川さんが、私を見ていてくれたから。
私の声を、拾ってくれたから。
最後まで、ちゃんと一人の人として扱ってくれたから。
ずっと探していた帰り道は、どこかの駅名でも、部屋番号でも、玄関の鍵でもなかったのかもしれない。
私がここにいたことを、誰かが覚えていてくれる。
それだけで、ようやく足元に道が戻ってくる気がした。
「松川さん」
「なに」
「優しくしてくれて、ありがとうございました」
彼は少しだけ目を細めた。
「どういたしまして」
夜が降りてくる。
川の音も、街の灯りも、遠くの足音も、全部がやわらかく薄れていく。
最後に見えた松川さんは、ひとりで河川敷に立っていた。
黒いスーツの肩に、春の冷たい風が触れている。
彼は何も言わず、ただ私のいた場所を見ていた。
その目が、ほんとうに、ほんとうに優しかったから。
私はようやく、安心して、帰路に着くことができた。